モラハラ被害者が「自己肯定感が低い」というあちこちの指摘は、自分にもとっても身に覚えがあります。
この「自己肯定感」。
パッと見で感じるのは、「自分に満足している感じ」というイメージです。
でも実際には、多義的な使い方をされているっぽく、他には
「他者に対する信頼と自分に対する信頼」
「現在の自分を自分であると認める感覚」
という意味もあるようです。(自己肯定感 - Wikipedia)
ようわからんですね。
まだ「他者に対する信頼と自分に対する信頼」は分かります。
でも「現在の自分を自分であると認める感覚」って何?
突っ込みだしたらキリがない「ぼんやり系ワード」だけど、よく使われているワードランキング上位な「自己肯定感」。
ということで、ここではシンプルに、「自分に満足している感覚」ということにしときましょかね。
これね。今回のモラハラ事件で、気づいたことがあるんです。
自分はずっと子供の頃から「自己肯定感」が低かったんじゃないかと!
子どものころ、特に周りの目が気になりだす思春期、常に自分に自信がなくて、誰かから褒められるとか、他者からの評価基準で判断するクセがありました。
そうすると、評価が低ければ、すぐにあきらめる。誰かの方が上手だったら、私には才能がないと逃げる。
そういう10代だったな~~と。
20歳くらいには自信のなさが「卑屈」に昇華されて、こじらせていたなと思います。
あ~そうか。私は、過去も今も、いつだって「自己肯定感が低かった」のではないか。
もっと自分に満足していて、自分に自信があったら、周囲の目を気にして、諦めていなかったんではないか。こんなモラハラな人生にもならなかったんではないか…。
と思いかけて。
また夜中に布団の中で、まんじりともせず、
3日目の朝くらいに「いや、それもなんか違うな」と、最終的に思ったんですね。
違うんかい。
何が違うかというと、ちょっと長くなるんですが。
10代のころ、私には2つだけ、得ることができたなと思えるものがあって、それは尊敬できる友人と音楽です。
音楽に関しては、生きる糧と呼んでもいい。有形無形のカルチャーが若者に与えるエネルギーってとっても大事だなと今も思います。
でも今回言いたいのは、今もめっちゃ尊敬している友人のことです。
なぜ、その友人を尊敬しているかって、私とは違うかったからです。
彼女はすべてに愛を持っていました。
とかいうとマザーテレサかよ~~~(*´з`)となりますが、
そういうんじゃなくて、「みうらじゅん」です。
「みうらじゅん」というのはもちろん、ものの例えなんですが
道端にある標識や看板に代表されるような「そこにある何気ないもの」「普段は気づかない当たり前のもの」「なんなら、ちょっとうざいくらいのもの」に面白さを見出す才能の代名詞といいましょうか。
あと彼女は、好き嫌いがはっきりしていて、遠慮がないところも、とても信頼していました。
時にそのスタンスが冷たくも見えるんですが、いつでも誰に対しても、態度が同じなんです。大人に対してもそうで、先生にもだし、街の見知らぬおっちゃんにも、レジのおばちゃんにも同じスタンスなんですね。
なんぴとにも日和らない。周りからの視線に振り回されない。わが道を静かに行く。そして道端に落ちている面白いものを発見しては一人喜んでいる。
こういう人がこの世にいるのかと。
たとえば、私、学生時代にその友人に何回も「テレビ見るから遊ばない」って言われたことがあるんですね。
でも私は、誰かに遊びに誘われたら、行きたくなくても行ってしまうか、変にウソをつくかしかできなかったんです。
友人と私の何が違うか?
(ちなみに友人は生粋のテレビっ子であり、彼女が私を避けている、とかではないのであしらかず!)
「自己肯定感」の高さなのか?
一瞬そう考えたんですよ。
でも、彼女が自己肯定感が高いかって言われたら、そうでもない気もするんですよね。線が細い部分や、寂しさが見え隠れする面もあって、自己肯定感はどっちかというと低かったんじゃないかと思います。
じゃあ何が私と違うかったのか。
率直に生きている強さ?
そうかも。
もっといえば、当時まだ学生だったけれども、私には、友人が「自分の足で立っている」感じがしたんですね。
経済的なことじゃなく、精神的な部分で、他者に依存しない部分をたくさん彼女から感じ取った。
じゃあなぜ友人にそれができたのか。
理由は分かりません。でも少なくとも、私よりずっと、他者と自分の境界を強く認識していたのではないか…と。
要は「他者と私は同じ(意見・価値観)ではない」という“大人の分別”を彼女は持っていた。
それに私は強く憧れたんだと思います。
ということはですよ。
私にはなかったけど、あったらよかったものって『「他者と私は同じ(意見・価値観)ではない」という“大人の分別”』であって、自己肯定感じゃなくない?
・・・じゃあ。
もしかして、人生のなかで、生きる武器として、「自己肯定感」の高い低いって、そんなに問題じゃないのではないか?
私自身の本当の問題点は、自己肯定感の低さを言い訳に「他者の“判断”に、自分の“判断”をゆだねた」ことそのものにあったのではないか。
そして、他者への依存傾向の強さと自己肯定感の強さは、そこまで関係していないんじゃないかと。友人の例をふまえて。
逆にね、自分にそんな満足している人ってどんな人?って問いたいような気もします。
自分に満足って、どういう状態?
ふんぞり返って高笑いしてるイメージしかもてず…
自分に満足したら、心のゆとりで、他者に依存せんでいいのか?
満足感で積極的になってチャレンジできて、成功するんか?
そういう人もいるでしょうが、そこにさまざまな紆余曲折と葛藤も絶対あるだろしね。
「自分に満足→自立心高いand物事上手く行く」ってのはある種のおとぎ話(まゆつば)っぽい感じ。
誰だって、どっかの部分で自分に満足できてなんか、なくない?
という身も蓋もない結論しかね。
持てないんですよね。。。結果として。
自己肯定感の低さの所以でしょうか・・・
ともかくも、私が考えたこととしては
そんな自分への自信とか、肯定感とかじゃなく、
他人にそこまで期待しない。他人は自分の思い通りになんかならない。
そういうある種の達観こそが、最も私に必要なのじゃないだろうか。ということです。
達観(Oxford Languagesより)
1.全体の情勢や将来をよく見通すこと。
2.細かい事に迷わされず、道理・真理を見きわめること。また、物事にこだわらず、どうなろうとも動じない心境になること。
これモラハラ夫対策のJoe式戦略にまるまるあてはまるな…
まとめると、
自分の自己肯定感の低さに気づいたから、何かを判断する際に勇気や覚悟が持てなかったり、うまくいかないことの、分かりやすい原因ぽい感じにしようとしたけど、実は自己肯定感が低いこと自体は、別に「失敗の原因」「悪いこと」「生きにくさ」「共依存になりがちな体質」とは関係なかったよね、という。
それでも私は、自己肯定感を上げたほうがいいのか?
そっちのが幸せなのか?
だとしてもです。
ここでいう自己肯定感は「自分に満足すること」=「ありのままの自分の存在を認める」ということですね。
ということは。
自己肯定感が低い自分を自己肯定する。
やるとしたら、これですね。
そうなると、もう意味不明な弁証法というか「矛盾の言葉遊び」みたいな。
「小さな巨人」的な(´∀`*)
「自己肯定感が低い」その事実を自分で知ったときに、どうすればいいか、何ができるのかって、もう
な~んにもしない~~(*´∀`)♪
これが一番の対処法ってことですね。
自己肯定感なるものを上げるために、何かを頑張ったりすればますます自己肯定感を下げる(ありのままの自分を否定する)だけなので。
まあ。
なんてラク。