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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

チア・アップ_平均72歳の女子たちの元気が出るお話

 

2019 アメリカ「チア・アップ」 原題:Poms

観たのはHuluだけど

最近Hulu率高し

ウォーキングデッドも結局シーズン10の22話最後までHuluなら観れたし…

ウォーキングデッドがもうなんか、ゾンビドラマのエンタメ超えた「北の国から」的位置になってきてる気がするのは私だけでしょか…

人間が切ないし、生きるって…みたいな深みと渋みがすごい

 

で、「チア・アップ」!

頑張ってる女子シリーズ。

これはかなり元気でる!

めっちゃ良いです。

 

癌になった老婆が、昔やりたくて出来なかったチアリーダークラブをつくる話なんですが、

婆さんたちが膝や腰いためながらチアリーディングとかほんとに愉快だし、

コメディとしてもじわるし、

こんな友情とか羨ましいし、

自分もこんな風に歳をとりたいー!

ってシンプルに思いました。

 

画面の高齢者率が高く会話がゆっくりで聞き取りやすいからなのか?

カンタンな会話は割と聞き取れたし。

婆さんの会話は英語勉強にもなるのか!

excellent

 

で最後のみんなのチアシーンが何故か泣けて泣けて。

おいおい泣きながら観ました。

 

主役のマーサ役はダイアンキートン

私がやっぱり役者ってすごいなぁと思うのは

リアル年齢を演じる役者さんがいずれ近いうちに死ぬ役をやったりするところで

どう受け止めて演じてんだろうと

素人目に

そのプロ意識に脱帽。

 

だって、ダイアンキートン

いやこれそーゆー役だから〜

私自身はあと30年はまだまだ死なないから〜

とか思ってるわけではないだろう

身に迫る役を

それでも一つの作品に落とし込むベテランスピリッツ

 

そーゆーリアルとフィクションの全てに敬意を払いたい作品でした

 

婆さんになるのが

ワクワクしてきました^_^

 

 

 

 

子育て15年以上。なのにびっくりするほど両立ができてね~

昨年の娘の病気の入院手術にかかるいろいろで
有休を消化しまくった結果、
有休が大ピンチで全然残ってないー-----

という悲しき状況に陥っています。

なんと今年はね、下っ端だけどPTAの活動も係が当たっちゃっており。
家庭訪問、参観、懇談、PTAの仕事
このすべてで休みは不可能な状況に。

もう春先からぎりぎりの状況で
どうしたものかと思案の末、
優先順位的に

PTA⇒迷惑かかるから行く
懇談⇒これもマストだけど弟の分は夫に土下座して頼むか・・・(姉のは絶対行っときたい)
家庭訪問⇒休み時間を削り、仕事中にこっそり対応
参観⇒行かない

としました。
自分の子どもよりPTA優先する現象が起こっております。

悩んだんですけどね。
でもね、さすがにこれ、同じPTAの仲間であり、同じフルタイム勤務のお母さんたち(そしてシングルでもあり)が
「いやさすがにそれって・・・」と共感してくださり。
またPTA(および学校)がコロナ後の行事復活のどさくさで、協力行事を詰め込んできたのもあり
「いっちょ訴えようぜ」と立ち上がってくれてます。(これの経過はまたどっかで報告できれば)

あと、多数ある協力参加行事も、1つは他の方に代理を頼んで、なんとか。。。
二人ともの懇談に行けそう( ;∀;)

なんでしょう。
なんにもできていない、自信喪失に陥りそうになってたんですが
お母さんたちはみんな結構一緒の思い?

それがほんと救い。


しかし・・・ほんとこれね。
PTAも過渡期なのでしょうし、
我が家にたまたま去年に娘の病いがあったという背景があったから
というタイミングもあるんですけども、
似たり寄ったりの母も多いと予測。

綱渡りな状況すぎるなあ。

日々悩みがいっぱいなのに、なんでこんなことで悩まなあかんのかなあ(*_*)
と思ってしまいます~

老眼鏡デビューとコンタクトを通販で買う

1年前くらいから心の片隅にあった問題。

 

老眼鏡どないする問題。

 

買いました老眼鏡。

 

ついに。

 

コンタクトしてつける予定で。

 

 

ことの起こりは買い替えたハードコンタクトが合わなかったこと。

 

ずっと全国展開のコンタクト販売店で買っていたんです。

よくある眼科セットの。

 

でも大枚をはたいて買ったハードコンタクトレンズがめっちゃ曇るんです。

んで、そのせいか老化か分かりませんが、視力が一段と落ちてきて、とにかくすごいストレスで。

 

老眼対策に遠近両用コンタクトにしたものの、なんかそれも見やすいんだかそうでもないんだかで。

 

洗浄液を工夫したり、ドライアイ対策したりいろいろしたけど、曇る。仕事のパソコン使うのもなんかしんどー…となり、半年うやむやにしていたけど、

重い腰をあげて

さてどうしようかと。

 

コンタクトレンズ業界って独占?

近所にほかのコンタクトレンズ売店とか、まあないです。

 

こーゆー選択肢がない業界って大手だとしても、なんか怪しいと思ってしまいます…。大枚で買わされたの曇るコンタクトだし。

 

ユーザー視点の気遣いやサービス力がないのはそのせいかは分かりませんが、とにかく保障による割引きがあるとしても、同じコンタクト販売店で買い直してリピーター化する気がしなかったので、さてどないしよう…と困りました。

 

で知り合いが通販でコンタクト買った話をきいて、調べたら、コンタクトレンズ用の処方箋があれば、通販で買えるということで、じゃあまずは処方箋だー!っと。

 

だけどコンタクトレンズの対応してる眼科ってだいたい販売店が横にあって、グル?癒着?なので、処方箋だけとかやってくれるんやろか…

 

と、その全国チェーンのコンタクトレンズ売店の横にある眼科に行き当たりばったりに突撃したら、メーカーさえ分かれば処方箋オンリーもやってくれるそう(о´∀`о)

 

あー良かった! ってことで、まず通販でも絶対あるだろーっと予想したメニコンブランドのメジャーな安いシリーズを眼科で指定して。

 

で眼科の方にいつも言われる、あんまり見えやすくしたら、老眼対応が余計難しいから、運転しないなら0.6くらいにしとけば?みたいなアドバイスを、いやー老眼はまた別対応しますーと華麗にスルーして、(本来はスルーしない方がいい気がする)初の1.0あたりのクリアさに。

 

処方箋ゲット!

 

事前に処方箋の用語

◎BCはレンズのカーブ角度

◎PWRは矯正レベル

◎DIAはサイズで日本人は一律決まってる(ハードなら9.4)

とか調べていたから、処方箋の意味は分かったし間違いないな!

※数値はハードorソフトとメーカーによって違うそう

 

 

ということでヤフーショッピングでポチりました。

Amazonより安かったから…

 

1週間待ったのがタマニキズだけど、曇らないし、めっちゃ見える!

あとお店のスタッフのメッセージとか写真、創業○周年の通信お便りも同封されてあったので、あー通販でも、安心して買える店もあるんだなぁ、と気をよくしました。

もちろん事前にレビュー評価とか会社名とか住所とか電話番号とかホームページあるかとか代表者名ググったりとかもしてたんですけどね(´∀`*)

通販は確かに怪しげなのもうじゃうじゃだし、絶対おすすめではないけど、実店舗販売より選択肢があるのが安心。

 

ここまでの長かった道のりの確かな手ごたえを感じましたが、

でも、やっぱり近眼がクリアになった分、老眼が理由からの、手元が全然焦点が合わなくて、眼科アドバイス…正しいがな…しかも思った以上だぜ…と。

 

ならばならば。

とにかく本読む、スマホ向けに

いよいよ老眼鏡もゲットしてやるぜ!

と息巻いたら

なんと老眼鏡にも度数ってあるんですね。

 

そらそうだ。

でも長年使ってきたコンタクトと違って、これはなかなか、初心者は難しい。とりあえず眼から50㎝離さないとスマホ見えない人は、2度 というなんかのサイトを信じて3000円弱の老眼鏡をAmazonで買いました。

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スマホ、見やすい!!打ちやすい!!

 

でも遠近の切り替えができないから、面倒っちゃ面倒…

使わなくて済むならそれに越したことはない…

慣れかな…

 

ちなみにコンタクトの処方箋は、買ったときに入ってるケースに書いてる内容と同じ

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自己肯定感の作り方_ネガティブな自己分析シリーズ

モラハラ被害者が「自己肯定感が低い」というあちこちの指摘は、自分にもとっても身に覚えがあります。

 

この「自己肯定感」。

パッと見で感じるのは、「自分に満足している感じ」というイメージです。

 

でも実際には、多義的な使い方をされているっぽく、他には

「他者に対する信頼と自分に対する信頼」

「現在の自分を自分であると認める感覚」

という意味もあるようです。(自己肯定感 - Wikipedia)

 

ようわからんですね。

 

まだ「他者に対する信頼と自分に対する信頼」は分かります。

でも「現在の自分を自分であると認める感覚」って何?

 

突っ込みだしたらキリがない「ぼんやり系ワード」だけど、よく使われているワードランキング上位な「自己肯定感」。

 

ということで、ここではシンプルに、「自分に満足している感覚」ということにしときましょかね。

 

これね。今回のモラハラ事件で、気づいたことがあるんです。

自分はずっと子供の頃から「自己肯定感」が低かったんじゃないかと!

 

子どものころ、特に周りの目が気になりだす思春期、常に自分に自信がなくて、誰かから褒められるとか、他者からの評価基準で判断するクセがありました。

 

そうすると、評価が低ければ、すぐにあきらめる。誰かの方が上手だったら、私には才能がないと逃げる。

 

そういう10代だったな~~と。

20歳くらいには自信のなさが「卑屈」に昇華されて、こじらせていたなと思います。

 

あ~そうか。私は、過去も今も、いつだって「自己肯定感が低かった」のではないか。

もっと自分に満足していて、自分に自信があったら、周囲の目を気にして、諦めていなかったんではないか。こんなモラハラな人生にもならなかったんではないか…。

 

と思いかけて。

 

また夜中に布団の中で、まんじりともせず、

3日目の朝くらいに「いや、それもなんか違うな」と、最終的に思ったんですね。

 

違うんかい。

 

何が違うかというと、ちょっと長くなるんですが。

 

10代のころ、私には2つだけ、得ることができたなと思えるものがあって、それは尊敬できる友人と音楽です。

 

音楽に関しては、生きる糧と呼んでもいい。有形無形のカルチャーが若者に与えるエネルギーってとっても大事だなと今も思います。

 

 

でも今回言いたいのは、今もめっちゃ尊敬している友人のことです。

 

なぜ、その友人を尊敬しているかって、私とは違うかったからです。

 

彼女はすべてに愛を持っていました。

 

とかいうとマザーテレサかよ~~~(*´з`)となりますが、

そういうんじゃなくて、「みうらじゅん」です。

 

みうらじゅん」というのはもちろん、ものの例えなんですが

道端にある標識や看板に代表されるような「そこにある何気ないもの」「普段は気づかない当たり前のもの」「なんなら、ちょっとうざいくらいのもの」に面白さを見出す才能の代名詞といいましょうか。

 

あと彼女は、好き嫌いがはっきりしていて、遠慮がないところも、とても信頼していました。

時にそのスタンスが冷たくも見えるんですが、いつでも誰に対しても、態度が同じなんです。大人に対してもそうで、先生にもだし、街の見知らぬおっちゃんにも、レジのおばちゃんにも同じスタンスなんですね。

 

なんぴとにも日和らない。周りからの視線に振り回されない。わが道を静かに行く。そして道端に落ちている面白いものを発見しては一人喜んでいる。

 

こういう人がこの世にいるのかと。

 

たとえば、私、学生時代にその友人に何回も「テレビ見るから遊ばない」って言われたことがあるんですね。

 

でも私は、誰かに遊びに誘われたら、行きたくなくても行ってしまうか、変にウソをつくかしかできなかったんです。

 

友人と私の何が違うか?

(ちなみに友人は生粋のテレビっ子であり、彼女が私を避けている、とかではないのであしらかず!)

 

「自己肯定感」の高さなのか?

 

一瞬そう考えたんですよ。

 

でも、彼女が自己肯定感が高いかって言われたら、そうでもない気もするんですよね。線が細い部分や、寂しさが見え隠れする面もあって、自己肯定感はどっちかというと低かったんじゃないかと思います。

 

じゃあ何が私と違うかったのか。

 

率直に生きている強さ?

 

そうかも。

 

もっといえば、当時まだ学生だったけれども、私には、友人が「自分の足で立っている」感じがしたんですね。

 

経済的なことじゃなく、精神的な部分で、他者に依存しない部分をたくさん彼女から感じ取った。

 

じゃあなぜ友人にそれができたのか。

 

理由は分かりません。でも少なくとも、私よりずっと、他者と自分の境界を強く認識していたのではないか…と。

 

要は「他者と私は同じ(意見・価値観)ではない」という“大人の分別”を彼女は持っていた。

 

それに私は強く憧れたんだと思います。

 

ということはですよ。

 

私にはなかったけど、あったらよかったものって『「他者と私は同じ(意見・価値観)ではない」という“大人の分別”』であって、自己肯定感じゃなくない?

 

・・・じゃあ。

 

もしかして、人生のなかで、生きる武器として、「自己肯定感」の高い低いって、そんなに問題じゃないのではないか?

 

私自身の本当の問題点は、自己肯定感の低さを言い訳に「他者の“判断”に、自分の“判断”をゆだねた」ことそのものにあったのではないか。

 

そして、他者への依存傾向の強さと自己肯定感の強さは、そこまで関係していないんじゃないかと。友人の例をふまえて。

 

逆にね、自分にそんな満足している人ってどんな人?って問いたいような気もします。

自分に満足って、どういう状態?

ふんぞり返って高笑いしてるイメージしかもてず…

 

自分に満足したら、心のゆとりで、他者に依存せんでいいのか?

満足感で積極的になってチャレンジできて、成功するんか?

そういう人もいるでしょうが、そこにさまざまな紆余曲折と葛藤も絶対あるだろしね。

「自分に満足→自立心高いand物事上手く行く」ってのはある種のおとぎ話(まゆつば)っぽい感じ。

誰だって、どっかの部分で自分に満足できてなんか、なくない?

という身も蓋もない結論しかね。

持てないんですよね。。。結果として。

自己肯定感の低さの所以でしょうか・・・

 

ともかくも、私が考えたこととしては

そんな自分への自信とか、肯定感とかじゃなく、

 

他人にそこまで期待しない。他人は自分の思い通りになんかならない。

 

そういうある種の達観こそが、最も私に必要なのじゃないだろうか。ということです。

 

達観(Oxford Languagesより)

1.全体の情勢や将来をよく見通すこと。
2.細かい事に迷わされず、道理・真理を見きわめること。また、物事にこだわらず、どうなろうとも動じない心境になること。

 

これモラハラ夫対策のJoe式戦略にまるまるあてはまるな…

 

まとめると、

自分の自己肯定感の低さに気づいたから、何かを判断する際に勇気や覚悟が持てなかったり、うまくいかないことの、分かりやすい原因ぽい感じにしようとしたけど、実は自己肯定感が低いこと自体は、別に「失敗の原因」「悪いこと」「生きにくさ」「共依存になりがちな体質」とは関係なかったよね、という。

 

それでも私は、自己肯定感を上げたほうがいいのか?

そっちのが幸せなのか?

 

だとしてもです。

 

ここでいう自己肯定感は「自分に満足すること」=「ありのままの自分の存在を認める」ということですね。

 

ということは。

 

自己肯定感が低い自分を自己肯定する。

 

やるとしたら、これですね。

そうなると、もう意味不明な弁証法というか「矛盾の言葉遊び」みたいな。

小さな巨人」的な(´∀`*)

 

「自己肯定感が低い」その事実を自分で知ったときに、どうすればいいか、何ができるのかって、もう

 

な~んにもしない~~(*´∀`)♪

 

これが一番の対処法ってことですね。

 

自己肯定感なるものを上げるために、何かを頑張ったりすればますます自己肯定感を下げる(ありのままの自分を否定する)だけなので。

 

まあ。

 

なんてラク

 

一定数のモラハラ夫がいる理由と減らす方法_ネガティブな自己分析シリーズ

いろいろ考えだすと眠れなくなるのですが、今日も自己分析です。

今回のことを布団のなかで、いろいろ突き詰めていくと
「そもそもモラハラってなんなん?」
「なんでモラハラする人がいるの?」
「なんでそんな人と結婚とかしちゃったの?」
という問いがループしだします。


モラハラって、支配して相手の尊厳を奪うことなのですが、肉体的な暴力ではなくて、言葉や態度で精神的に追い込むのが定石なので周りに気づかれにくいというのが、特徴のようです。

周りどころか、されている本人も気づかないことが多いようで、そもそもじゃあなぜ、モラハラ夫が量産されるのかというと、
・・・というかモラハラ夫は量産されているのか?

モラハラ ブログ で検索したら、まあまあ出ます。
いくつか読んだのですが、読んで感じたのは、
関係が決定的にこじれる決め手は「金銭問題」のよう。
夫が生活費を入れないだの、働かないだの、いつのまにか借金してただのが決定的な夫婦関係の分岐点。
そこまで来て妻側が、「あ、やべー」となって、別居や離婚に動きだします。
そんで抑圧された感情のアウトプット作業としてブログを書き出します。
(あとこうモラハラ被害者妻のブログって、夫への怒りがうずまいているから、私みたいにすごい共感できる人以外はしんどいかも)

とにかく、まあまあ「モラハラ日記」的なものは世にあふれていて、サクッと読むことができるありがたい時代なんですが、日本の夫婦の総数、離婚した総数の中での、モラハラに端を発する割合が、どれくらいをしめるかは実際には分かりません。

一方でリア充ファミリーブログもたくさんありますものね。
夫婦の実態なんて、文字では分からないって言ってしまえばそれまでなんですが。

ともかくも、正確なデータや数値が分からないですが、ある一定数は「モラハラ夫」が存在すると想定しましょう。

では、なぜモラハラ夫が一定数生まれたのか?

これも本当に謎なのですが、Joeさん曰くの「モラ家庭で育つと、加害者か被害者になりやすい」とすれば、
今一定数、モラ夫がいるんだから、その連鎖をどこかで断ち切らない限りは、延々とモラ夫は生産されるということですよね。

じゃあなぜ最初のモラ夫はモラ夫になっちゃったのか。生産されちゃったのか。

これもJoeさんのブログにあったのですが、
「まだ10歳の息子が父親に似てモラハラするようになった」という読者の投稿に対して、
Joeさんは、「“まだ10歳なのに”じゃない、“もう10歳なのに”ですよ」と書いています。
モラハラって2歳児の思考と行動なんだそう。

つまりは、幼いころは誰でも自分と他者(お母さんなど)の存在・人格の区別がついていないけれど、
成長過程で自分と他人が全くの別の存在で人格だという認識をもてるようになっていくんですって。
その成長過程をきちんと経ずに、自分と他者の区別がつかないまま大人になったのが「モラ夫」です。
自分と他者の区別がつかない=他者が意志ある別人格である認識ができない、ということ。
自分以外は他者であるという認識がないから、自分とは別の人格としての意志や存在を尊重できない。
他者は自分がコントロールできる支配のうちにあるものと認識する。

そして怖いことに、モラ夫に共依存する被害者も、まったく同じで「他者と自分の区別がついていない」んだそうです。。

夫も私も、どっちも幼いまま年だけ食って大人になっちゃんだねえ。。😢

モラハラ夫生産の根幹に、他者を認識する能力の発達に問題があったんだという発見は、私にとっては衝撃でした。
しかもとっても腑に落ちます。

他者を認識する能力が子供のころからの発達や成長過程にあるとすれば、やっぱり親から受ける影響が大きいのかもしれません。

じゃあ、親はどうやったら子供をモラハラ人間にせずに済むのか。

これは逆のことをすればいいってことですよね。
子どもを、自分の人格とは全く異なる、一人の人間として扱えばいいわけです。
それはいつの段階からか。

たぶん、はっきりと◯歳からというものはなくて、
「お母さんはピンクにしなさいって言うけど、私は黄色がいい」とか
「みんなはドッヂボールがやりたいっていうけど僕は部屋で絵を描いていたい」みたいな
「あれ?今までと違う?」「これはこの子の意志なのかも」みたいなときに、尊重した対応を積み上げていくことで
「他者は自分とは別人格」という事実が心の根っこにしみついていくのかなあ
…なんて思います。

その時に大事なのは、好きにすれば~?という放置ではなくて、これまで「ああしなさい、こうしなさい」と言っていた親が、今度は子供の話を聞く側にまわれるかって部分にも思います。

互いが対等で、尊重されるべき存在として。

もちろん子供は世間知らずではあるので、世間を渡るテクニック、ルールを教えていく「しつけ」は必要なのでしょうが「しつけ」と「意志の尊重」の分別は、自分が子育てをしていても、ちょっと難しい実感があります。

子どもの主張をワガママととらえるか、尊重すべき意志ととらえるか。

これはもう、対話を繰り返すなかで、どっちなのかをつかんでいくしかないのかも。

子どもって、言葉も知らないし表現が下手で不器用なので、ついイラってしちゃうんですよね。

でもすごーくすごーく辛抱して話を聞いてたら、ただの「いい加減」や「ズル」にみえることも
本人にとってはものすごい努力した上での「燃えつき」だったりする。

私が「それくらいできるっしょ」と思うことが本人には「120%の火事場のクソ力」だったりする。
それが分かったときに、「そ、そうだったのか・・・」とものすごい衝撃があったりして、いや子育てっておもろいやんと。

子どもからパッと出る言葉だけでは伝わらないことが多いんですよね。
理解にとっても時間がかかるなあといつも思うんですが、だからこそ、親も子供も自分の意志や気持ちの伝え方を覚えることも大事だし、そういう辛抱ならば、モラ夫への辛抱とは比べ物にならないくらいに価値があると思います。

でもこれ、モラハラ夫減らすには、突き詰めれば
親が辛抱を楽しめるような、ゆったりゆとりある子育てができてるか?
のびのび子育てできる、そんな社会が作られていますか?

ってことにつきると私は思うんですけどね。

そんな社会を作らにゃモラハラ夫はやっぱり再生産され続けると確信しています。


ということで、モラ夫や共依存の自分に辟易しながらも、自分が親としてモラ人間を再生産するかしないかを握る立場でもあるので、頑張るとすれば、子育てだなって思います。
「家事の平等」よりも。

うん。ちょっと納得できかねる無理やり感もあるけど・・・

そういえば娘が今日、めっちゃ話しかけてきました。
モラ夫よりは、分かりやすいです。

さっそくの私の失敗_離婚を口走る(Joe式してたのに。。。)ネガティブな自己分析シリーズ

ブログに新しく「自己分析」というカテゴリを作りました。
この「自己分析」は私が自分のことを「書くこと」で分析し、混乱した泥沼の状態から脱却を図るため"だけ"のシリーズです。
自分の日常や思いで右往左往するカテゴリなので基本、だらだらとネガティブです。
人のネガティブ発信に興味がない方は絶対に読まないでください。
朝からなんだよ~って恨まれたくないし~。

今回は、話せば長くなりますが、カンタンに言うと、モラハラ夫との仁義なき闘いの失敗談です。


1ヶ月ほど前、長期テレワークと運動不足の弊害からか、急激に腰痛がひどくなり、かなりつらかったです。
しかしちょうどそのころ、私の所業に腹を立てて(GWに私が義実家に一緒に行かなかったというのが発端)
自分分担の家事(洗濯干しなど)の一切を放棄する、無視はしないものの必要最低限しか口を利かなくなった夫。
夫の「気に入らないと家事放棄」「部屋に閉じこもり」は毎度のことなのですが、
今回は私が腰痛がひどいのと、そのストレスとで、10日ほど実家に帰ったんです。

で戻ったら、なんとまあ「あんたがいなかったら楽しかったのに、なんでもどってきた」「家族全員があんたに嫌気がさしている」
「すでにこの家族はあんたのせいで崩壊している」「性格を変えろ」的なLINEがびしばし。
私がいない間は家事をちゃんとしてたようで、鬼の首をとったように、「家族の面倒を放棄した嫁がいかに非道か」をこれでもかと罵詈雑言。

しかも。高校生の娘を抱き込んでグルになってました。
娘までが夫と同じように部屋に閉じこもって
ご飯を作っても食べたり食べなかったり。
もちろん返事はしないし、ずっとすねた態度。
そして何をいっても返ってくる言葉がびっくりするほどに夫と同じ。

何かとてつもなく悪いことをした罪悪感と、この娘の態度がショックで、かなり落ち込んでしまいました。

夫の罵詈雑言は、要望や不満、意見を出さずにいたら本来あまり言ってこないのですが、
私が「(気に入らない時期も)ちゃんと家事をしてほしい」「家事分担の話し合いをしたい」と言ったんですね。

それがそもそもの私の間違いでした。

そして、腰痛や上野千鶴子的知恵熱をきっかけに「いや、家事の不平等おかしいだろよ」という思いがふくれあがり、
ハラスメント暴言に「やっぱ離婚だろ」という思いが強まり、またしても大失敗の行動をとったのです。
つまり「離婚について話し合いたい」と夫に言ってしまいました。


実は少し前に、Joeさんの書籍を読んだんです。

「あなたを傷つけるあの人からの攻撃がなくなる本」
この本がすごく目からうろこ!で、
すぐに、Joeさんのブログを徹夜で読み漁りました。
Joeさんは本名を明かしてない謎なブロガーなのですが、まあカウンセラーというのでしょうか。

モラハラ両親に育てられながらも、どちらもの立場を細かに観察・分析することで、お母さんをモラハラ夫(お父さん)から救った経験があるJoeさん。
モラハラを受けている女性を対象としたブログを書いたりセミナーやカウンセリングを行なっている方のようです。(よく分からんけどたぶん中年男性)

そんなJoeさんが書籍やブログで書いていることは一貫して、“モラハラ夫を持つ妻がモラハラ夫に対処するための戦略と手段”ですね。
これがめちゃめちゃ具体的で分かりやすいです!
世の妻たち!絶対これした方がいいよ!と思いました。

Joeさん式メソッドのポイントは
・悪人になる
・無関心
・反応を減らす
・言葉を減らす
・接点を減らす
・冷たい威圧感
・継続する
・こっそり行動する

これの具体的な態度や言葉、間合い(タイミング)などを克明に説明してくれています。

で、これね。
私やってました。これまでも。
ただし「戦略」ではなくて、「疲れ果てた諦観」から。
基本的には本気で夫に興味をなくしていたし。
こういう妻は結構多いのかもしれないですが、
要はもう「亭主元気で留守がいい」的な、「敵対はせずにやんわり距離をとる」という態度を日常から取ってきていました。
夫婦としての長い時間のなかで学んでいたんですよね。

じゃあ、ずっとある意味「いい距離感」でモラハラ夫と上手くやってたのに、
ここにきて、私がいろんな失敗をしでかし、ブーメラン的に自分に返ってきちゃったのはなんでか?
何が私を失敗方向に運んだのか。
Joeさんがあんなに「本気の覚悟がないうちは離婚は決して言わないこと」と書いていたにも関わらず。


ひとつには、これまでになかった老いというか肉体的苦痛=ぎっくり腰になって、しかもそれがなかなか治らなくて、ずっと原因が分からず(椎間板ヘルニアだった)、心底不安になったこと。そしてただただ家事が辛かった(ただし手術不要で良かった!)

もうひとつには、私が「義実家に行かない」宣言をしたこと。この宣言、実は夫とケンカ覚悟の上だったんですが、ケンカにはならなかったけど
その代わりに夫が自分の役割(洗濯干し)を放棄しだしたことで「夫を傷つけたのかも」と罪悪感を感じてしまいました。
※そもそも私が義実家に行かない理由は、今年のお正月に夫から「義実家にいた1日半、ずっと無視された」からなんですけどね。去年も何かで機嫌を損ねて「お前は来るな」と言われ、正月を一人で過ごしました。まあそれは快適ではありましたが

あとこれは核心は持っていないけど、もうすぐ50なので「更年期障害」の「うつ」「不安」みたいなのもあるかもかも。

要は…めちゃくちゃ「弱気」になったわけです。相手の攻撃に無防備に身をさらしてしまって、そしてなんの意地からか「離婚に向けて動きたい」とまで言ってしまった。


ポイントは何かって私の「弱気」や「罪悪感」なんですよね。
Joeさんいわくモラハラ夫は罪悪感を決してもたないそう。そしてモラハラ被害者の「罪悪感」に付け込むんだそうです。

だからこそJoeさんは「モラハラ被害者は、悪者になれ」と幾度となく繰り返しています。
要は自分のしたことに罪悪感を感じたり、夫も根は悪い人じゃないとか言っているような「良い人」じゃ、モラハラ生活は乗り越えられませんよと。

しかもモラ夫は、ターゲットに罪悪感を抱かせる技に長けているそう。
自分が逆に被害者になってみたり、子供を口実にしたり。
そしてその罪悪感って「嫁として」「母として」という固定観念もやっぱりあると思うんです。
固定観念が強い人ほど、罪悪感を持って、そして弱気になって、失敗する。
これがモラハラ夫の被害者の悪循環なのではないか、私の今なのではないかと。

私の中に嫁として、母として、どう思われるだろうという強い「あるべき」固定観念や体裁を気にする部分が無自覚にあって、それが自分を罪悪感という形で縛っているわけです。

※ちなみにJoeさん曰く、世間的にはきちんと理解されていないことも多いけれど、「モラハラ」は、暴力やDVのことではなくて、相手を目に見えない圧力で支配することだそう。
おおー!(私的解釈の)上野千鶴子的女性問題の根底にある「支配関係」とつながるではないか!という発見もありました。


それとJoeさんのブログ読み漁って分かったことがもうひとつあって、それは「自分のもろさを直視することの難しさ」です。

もうね、どう考えてもモラハラ夫には勝てないわけですよ。
良い人は。
その「良い人」ってのは、言葉を変えると「自己肯定感の低さ」「自信のなさ」があって、それを「他人のために」で埋めようとする人です。
こういう人ってモラハラ夫がすぐに共依存という形でつけこめるから、モラ夫の人生戦略に最適な存在だそう。
めちゃめちゃ当たってます私。ほんとその通り。

私自身、なんとなくここ数年、無自覚にはJoe式対処法をやっていたので、暴言をはかれることも減り、自分はもうそこまで「もろく」ない、共依存は脱したと過信したのかもしれないです。
いやむしろ、自分には稼ぎがあるし強くなった!くらいに思っていました。

上野千鶴子さんは「経済力がある人」はどんな環境においても、今の社会ではだいたい支配権を獲りやすいと言います。
「支配」の構造が徹底されている家庭ならば、いわんやです。
でも逆に自分になまじの稼ぎがあることで、「モラハラ夫のいる家庭であること自体はなんら変わっていない」事実を甘く見積もってしまったのは否めません。

あとやっぱりね、子供がモラハラ夫側についてしまっているのがショックだったんですよね。
これは大きい。ほんとにショック。
もはや価値観とそれに基づいた行動がパパと同じなんですよ。
「自分が快適に生きていくために、相手を陥れてよし(苦しめる・虐げる)」という支配者のロジック。
気に食わないと、いろんなことを放棄し閉じこもるという行動パターン。
でも娘はそんなことにはもちろん、無自覚。
そらそうだ。だって、そういう家庭で小さいころから育ってんだから。
それが「普通」になっちゃってんだから。

Joeさんが何度も指摘しています。
モラハラ家庭で育った子は同じモラハラになるか被害者になる」
「子供には、モラハラの支配の構造が複雑で理解できないから、反発して言い返すお母さんが悪いと受け取ったり、自分が生きるためにモラハラ夫(力関係の強いパパ)に日和る」
見事にそれやがな!

一方で私はどんどん悪い方に自分から雪だるま的に転がっとるがな。
一歩すすんで100歩下がっとるがな。

ということで、結局なんだったのかというと
身体の不調から家事分担の平等を勝ち取るために頑張ったつもりだったけど、土壇場でやっぱり「モラハラ夫に負けた」…
これがまごうことなき今の私です。

Joeさんはモラ夫に「勝とうとしないことが大事」といいます。
なぜなら勝てないからです。
だから、モラ夫に勝たずに平和をもぎとることが大事だといいます。

でもでも、そこでも私は考えてしまうのです。
「だったら結局、家事を全部やるのは、私じゃね?」

家事でいうと、夫とは話し合いは一切していませんが洗濯干しは再び夫がするようになりました。
でも、気分でやらなくなる人なので、あてにはできません。「良かった~」とか決して思っちゃだめ。
もちろん飯炊きや掃除というメジャーな家事はもちろん私が主体だし、食器片づけ、ゴミ集め、牛乳パックのカット、台所のシンクやコンロの汚れ取りなど細かな「名前のない家事」の9割9分は彼の中では今も存在しないことになっています。

※さらにそこに子供たちの行事や通院、PTA活動なんかも「たいしたことでない」認識


正論や闘志や離婚や泣き落としで、「フェアな家事分担」はもう不可能なんでしょうね。
それを私が変に上野千鶴子的知恵熱な発症もあって「モラ夫と闘ったる!」と好戦的になってしまったわけで。
弱気なくせに。
そして、子供たちを巻き込んでしまった。

あ、この「私のせいで子供たちを巻き込んだ」という発想もなんだか被害者チック。
どうしようもないことがあるんだよ、世の中には。。。ということを伝えるしかない。
それと、モラハラ家庭の支配の構造に少しずつ、なんとなく、気づいていってもらうしかない。
あとは開き直って日常を楽しむしかない。

そして、「私の洗濯ものだけ、しわしわやん」とかのしょうもない幼稚くさいいやがらせも
「悪い人」として、やられた分だけ同じことをやりかえしていきたいとは思っています。
ただしバレてはいけない。(大事なシャツとかは自分で洗濯しよ)

正直、家事うんぬんよりも夫のことを考えるのに疲れてきました。
これもモラ夫の狡猾な作戦なのかもしれないけど、もうそんなことどうでもいいくらいに夫のこと考えたくねー。
家事の平等よりもまずは心の平安ですね・・・。

しょせん、モラハラ夫には勝てないのであれば、
・もらえるものをもらう
・子どもとは長い目で付き合う
・自分のしたいことはさせてもらう
という部分だけは死守していくしかないです。

(もちろんモラ夫流に離婚の失言はうやむやで)

女性の権利問題と現実の自分にどう折り合いをつけていくか_地動説のごとく

上野千鶴子」知恵熱と現実との折り合いがつけられず、はや1ヶ月!

そろそろ「これはやべー」と。

わが身が危ない!何か対策を打て!という
もう一人の自分からのエマージェンシーシグナルを受け取りました。

それで・・・母に相談。オカンはああみえて勉強家だし、現役時代は最前線で活躍する女性だったわけで。
でもオカンからは、「上野千鶴子」はなかったことにしなさい、忘れて現実との折り合いだけ考えろ
というようなアドバイスを受けたんですね。

ちゃうねん。「上野千鶴子」が間違っていることを言っていると思おうとする、というのはもう無理なの。
だって「地動説」のように私は知ってしまったのだから。身にあてはまることばかりなのだから。
証明された本当のことなんだから。
だけど、その事実を現実にどう適応させていけばいいかが問題なんだよ。。


ということで、定年して独り身の悠々自適なBBAはあてにできね~と。
でも今、メンタルがやられていくのに身を任せていてはコペルニクスガリレオの「地動説」はすべてムダになってしまう。
なんとか生きていくために、発見した偉大な「知」を持って戦略的に動かねばならないのです。


最終的に編み出した対策がこちら。

ジェンダー問題を“もっと“学ぶ
②女性が虐げられた悲しい出来事でなく「やったね!」という出来事(できれば進行形)のハッピーな気分になれるプラス情報を集める
③家庭内ジェンダーモラハラ対策

とはいえ①はまだ実際何もしていないです。なんなら大学に行きたい気もするけど、実際にできることとしてはセミナー(無料)とかあれば行きたいと思っています。
②は以前から少しずつはしていて、これが実は精神的にとてもいいです!めっちゃ前向きになれます。
③もね、これも以前から「諦観」の結果として、実践はしていたんですが、これを「戦略」としてやっていこうと。

ということで戦略自体がまだまだ発掘途中なのですが、今後ライフワーク的に楽しくいろいろやっていきたいと思います。

具体的な内容はまた今度。

「フェルマーの最終定理」苦手な人こそ読んでほしい数学ロマン

フェルマーの最終定理新潮文庫 2006

サイモン・シン

 

 

非常に面白かったです!

 

数学にはこれまで全く興味なかったけど、ロマンあるなぁ。

 

フェルマーの最終定理とは、カンタンにざっくり言いますと、というかそのままですが、

x n乗+ y n乗=z n乗

nは3以上

自然数の解は存在しない

というもの。

 

もともとはピタゴラスの直角三角形の定理

x 2乗 +   y 2乗 = z 2乗

(直角三角形の斜辺の2乗はほかの2つの辺の2乗の和に等しい)

 

これを「じゃあ、3乗以上も同じなんかい?違うんかい?」という話になって、3乗以上は等しくならないよと証明したと言って中身を書かずに世を去ったのが17世紀のフランス人ピエール・ド・フェルマーさんです。

 

フェルマーさんが、わし証明したけど、余白がないから中身が書けないよ(=´∀`)

と言ってから360年間。

えー!じゃあわいが、わいが!わいが証明する!と天才たちが盛り上がるも、20世紀末まで誰も証明できなかったんですね。

で、1993年、イギリスのオックスフォード大教授のアンドリューワイルズさんが、150枚に渡る文書で証明に成功するにいたるまでの壮大な歴史ノンフィクションです。

 

面白いのは、ワイルズさんの物語だけでなく、いろんな天才たちが証明に情熱をかけてきていて、さらにフェルマーの最終定理につながる、さまざまな数学者たちのさまざまな定理や証明が登場する点です。

 

証明の成功にはワイルズさんが10歳からの夢を追い続けた情熱もあるけど、フェルマーの最終定理は、そんなさまざまな人たちの証明や理論が組み合わさって出来上がっています。

 

それで、著者のサイモン・シンさんが、この360年の歴史を非常にドラマチックに描いているんですが、さらにフェルマーの最終定理が生まれるもっと前段階の紀元前のピタゴラスやエウクレイデスにまで遡って、数学とはなんぞや、に迫っているのが、またロマンあふれ。

 

サイモン・シンさんが言うには、数学は、科学や物理学とは違って、予測や仮説を立ててそれを実証していくんじゃなくて、完璧な解があるものなんです。

だから、大部分がこう、とか、この場合はこう、とかは許されず、ゼロや無限に至るまでの絶対の真理があるんです。

その発見や証明にいたるドラマひとつひとつが丁寧に人間味たっぷりに描かれています。

 

とりわけフェルマーの最終定理の証明の下地となる楕円方程式とモジュラー形式の関連を予測した「谷山–志村予想」や、フランス革命後の混乱期に尾崎豊的生き様で早逝したエヴァリスト・ガロアの「群論」などはその中身は正直私には訳が分からないけれども、史実ながらとてもドラマチックで面白いです。

 

さらにさらに!

訳者の青木薫さんが後書きで言うようにサイモン・シンさんはインド系アメリカ人だからか、とかく白人ばかりを目立たせたがる欧米諸国のサイエンスの歴史、伝説のなかで、谷山さん、志村さんという日本人が大きな役割を果たしたことや、インド、アラビアで生まれた数字の確立や無限、ゼロなどの概念もしっかり取り上げています。

 

また4世紀のアレキサンドリアのヒュパティア(悲しくも惨殺されちゃう(涙))、18世紀のイタリアのマリア・アニェシ、エミー・ネーター、ロシアのソーニャ・コワレフスカヤ、フランス19世紀のソフィ・ジェルマンなど、天才数学者といわれながら、学位や活躍の場を与えられなかった女性たちのこともしっかり書かれてあり、なおのこと、数学史に深みをもたらしています。

 

この世に解がまだない、たったひとつの謎を、長い年月をかけて追い求める、ある意味、変わり者たちの果てなき夢。

 

あと、私自身は子供の頃、全く数学には興味が持てなかったけれど、数学も元を辿れば、子供が抱くようなシンプルな世の中のフシギやギモンから始まってるんじゃん?と思いました。

本来はとてもワクワクする学問なんだなぁ。。

なのに、何故に学校の数学の授業はあんなに面白くなかったのか。

ほんとそれも不思議。

 

 

 

 

 

 

心の知恵熱

心の知恵熱が出ました。

上野千鶴子さんを読んでから。

 

 

まだ衝撃を完全に吸収できないままなんですが、

衝撃吸収を促進し、リアルな自分の人生にうまく

順応させるためにも、

ひとつ数学の証明みたいに

自分のなかで、納得できるロジックの組み立てを試みてみたいと思います。

 

まず、上野千鶴子の何にそんなに心動かされたか?

 

 

 

自分の今が、暮らしが、あまりにも、女性差別の歴史の、日本という国の因習の、現代的帰結だったから。

 

自分の人生に照らした時に最終的にたどり着くのは、シンプルで不毛な自問です。

ひたすらネガティブな帰結です。

 

自分は結婚を考えた時に、なぜ夫を選んだのか?

 

という。

家庭や子育てにおいて、何故私はその時点で女性の生き方を尊重する相手を選ばなかったのか?

 

理由はただ私が、自分の未来について、女性の権利や差別の戦いの歴史について、今の世の中でまだそれが全く過去には成り切っていない事について、あまりに無知だった。視野が狭かった訳です。

 

自分がどう生きたいか、何を求めているかも、全然分かっていなかったし、自分に自信がないから、可能性に挑戦もしなかった。

自分のバカ!

若いうちの無知が、諦めが、いかに人生を左右するかを今更痛感。

 

無知の知

ソクラテス大先生は紀元前にすでに発見していたのに。

 

ソクラテスの時代だって女性は半人前扱いだったんですけどねー。

 

 

そんなネガティブな知恵熱で、もうこの先どう生きたらいいのかカオス。絶望感すら。

 

上野千鶴子、劇薬!

 

まあでも。

どうであれ、過去の選択は変えようがない訳で、子供たちに会わせてくれた、その点については彼がいてくれた事を否定するのもなんか違うし。

 

夫婦の在り方としては納得いかなくても、価値観が全く違っても、世の中には仕方がない事もたくさんあるから。

 

でも、私は娘に「女性は差別されてきて、まだ日本には差別が根強く残ってるんだよ。仕方ないんだよ」と言いたくないです。

 

お母さんはね、仕方なく、あんた達のために我慢してるんだよ、とか言いたくない。

 

かと言ってまだ学生の娘に女性の歴史を熱く語っても、伝わるか分からない、むしろ半分も伝わらない感じもします。

実際に多かれ少なかれ生活家計共同体のなかで、我慢し合うということはあるけれど、お互いさまなそれとは分けて考えた時、圧倒的に過剰で、不要な「母」の負担が山のようにうず高く積まれている、そのことに子供のうちは気づかないので、娘は多分まだ理解できないと踏んでいます。

私がそうだったから。というかむしろ私の両親は私たち夫婦よりずっとフェアな夫婦でした。

それが私を世間知らずにしたのかしら。。

 

ともかくそのジレンマをまずどう解消するか。

過去は変わらない。

涙なしには受け止めきれない虐げられてきた女性の歴史。私たちは理不尽に虐げられている!という感覚を持ち合わせることも、叫ぶことも、未だに憚られる中で。そんなこというフェミニストは偏ってるよね、ちょっと過激だよね、みたいな空気に包まれている平和な日常で。空気読むのが至上命題になりがちな日本で。

 

 

世の中は段々と貧しくなり、男性が収入を減らし、

女性の社会進出が推奨されながら、同時に母性の神話や性差役割分担が当たり前に根っこにある現代社会のねじれ現象。

 

それに対して、私にはどうする力もないんです。無力!

 

こんな悲しい気持ちでこの先ずっとこの社会に我慢して、生きていかなきゃならないのか。

 

もう絶望に近いです。

上野千鶴子さん。

あなたみたいに私は賢くも強くもない。

 

涙に枕がぬれます…

 

 

でも。

一つだけ。

私ができる事があることに気付きました。

 

少なくとも、自分の「これから」の人生や選択肢は自分次第。

自分の意志で選んで生きていく。

それが、私の唯一にして無二のできることやん!!

と。

 

まだ諦めちゃなんねー。

希望はある。むしろかなりある。

 

 

ここで大切なことは過去の経験を踏まえて、できる限り賢い選択をしなければならないという事です。

 

選択の結果を長い目で見ることも。

人類の歴史が変わる新たな1ページかな、くらいの長丁場で。

 

そして、おばさんが遅咲きのフェミニズムに目覚めている横で、若者たちがきっと新しい、多様で自由で明るいカップルのメインストリームを作っていってくれるはず(*´ω`*)

 

私ができるのは、そういう若者たちの邪魔をする老害的存在にならず、陰ながら応援していくことです。娘や息子含めて。

 

電車に乗っていた時に聞いていた、ふと流れてきた音楽で、ガガ様は歌います。

 

どんな人も関係ない

神様は間違ってない

それがあなたの道なんだよ

その道を行けばいい

 

貧しい人も金持ちも

白人黒人チョラ東洋

ゲイバイレズビアントランスジェンダー

みんな正しい道を選んでいる

生きていく勇気を持って生まれてきた道

 

すっかり電車に乗らなくなって忘れてました。ガガ様、すごいことをパワフルに歌っていたんでした。

沁みました。

めちゃくちゃど真ん中な解がここにありました。

 

上野千鶴子

ガガ様

 

解。完成?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上野千鶴子への原点回帰と、弱者としてどう生きるか

 

 

自分向けに。

 

 

娘向けに。娘が読むかも未知だけど、もう5年くらいしたら息子にも読んで欲しいです。

 

3周回って、東大教授(今は定年退職された)でフェミニズムの大御所、上野千鶴子さんに原点回帰。

めっちゃくそ面白かったです。

実は上野千鶴子さんの本はこれまで読んだことがありませんでした。

 

何故か?

なんだか難しそう…東大の学者さんの学問は凡人には分からんだろな…

というバイアスかなあ。ハイ。

 

でもここにきて、退職されて10数年経った今だからというか、フェミニズム意識の高低や世代差を取っ払った日本の女性全般を読書層に想定した、特に若い人想定かな?分かりやすい本を続々と出版している感じなので、これまでより近寄りがたい感じが薄れたというか。

自分でも本業の研究を離れて、次の世代たちに残していく仕事に比重を移されたのかなあ?なんて。

 

何にしろ、この2冊はめちゃくちゃ分かりやすくて読みやすかったです。

 

そして痛快。

私が普段、ギリギリと歯ぎしりしてきた日常に堂々と横たわる「いやこれっておかしくねー?」という全てに対してを語ってくれていて、しかもきちんとデータを分析して解を出してくれているから、それはもう、知の感動がビリビリ体に走りました!

 

知の感動って、不思議です。

心も走り回ります。

 

 

でも。知の感動は副反応も強いです。

悲しくもなるんですね。

何故なら、私の目の前の「なんだこれ」が、いよいよ、間違いなく、伝統と変化、固定観念現代社会とのねじれ現象から複雑化し、見える化されてこなかった女性差別見える化されたわけで。

無知なままで「私が考えすぎかもしれない」なんて逃げ道を絶たれてしまうわけで。

私は20代の頃から女性の方が家事や育児や介護に向いてるとか、一切信じてないですよ。

家父長制は現代に価値はないと思ってきたし。

当たり前に。

 

でも社会や男性の間ではまだそれを捨てきれていない事をあの頃まだ知らなかったのも事実。

 

そうやって

 

家を守る役目

社会進出

久しく女性が課されたダブルスタンダードに疲弊して十数年。

 

当事者なんですよね。私。

まさに千鶴子さんのいう。

 

千鶴子さんは、間違った選択はキャンセルしたらいいやんか、とおっしゃっています。

自分を大事にできない環境や存在はいらないと。

そっか、私って私を大事にできない環境を選んできちまったんだね…

改めて今のダブルスタンダードのおかしさに、怒りより悲しみ。

昔はね、まだ子供が小さいうちは、正社員になる事を目標にがむしゃらに全てをこなしてきて、得たものが現在。

でも、どうでしょう。

確かに収入は増えたし、コロナ禍でリストラまでしちゃった大嫌いな会社も今年はボーナスでるまでになったし、わずかだけど昇給もありました。子供たちもぐんと成長して直接的な手はかからなくなりました。

でも私が目指したのは、収入増や子供の巣立ちはもちろんだけど、それだけなのか?

自分の人生で男女の格差がないようにしたい。

そうじゃないの?

だとして、それは解決したのかい?

答え=否

なんで?

私が自分を大事にできる環境ではないから。

 

パートナーとして夫とそういう夫婦関係になれてないからです。

仕事だって本当はフリーランスになりたい。

 

かれこれ3週間続く腰痛の中、痛みを堪えて家事をほぼこなしてる自分に違和感が生まれてしまっています。

 

しかし、世の女性たちはあんまり怒ってないように思えます。

私は当事者じゃないってフリ?だってみんな愚痴は言っても、女性差別だーと怒って闘わないです。

 

日本の男性パートナーが実は千鶴子さんの研究以上に理解ある欧米感覚の持ち主なの?日本人男性のなかでも例外的にうちの夫が差別的なの?

 

または怒る余裕ないから?確かに女の経済的な自立は言っても簡単じゃないです。男女の賃金格差、非正規雇用率の全部が物語ってます。それが今は男性にも広がってるくらいだし。私もいちばん気が重いのはこの経済力。正社員だからって今の時代、なんにも安心できません。ましてやフリーランスなんて不安定の見本です。ジョブ型雇用も日本企業では現実なかなか浸透しないし。

 

あとフェミニズム自体がまだまだバイアスある?これだけ多様性とかジェンダーフリーが謳われていても、我が事として我が家のこととして扱うには世間体が邪魔するのか。

それにまず、こんな頑張ってる自分って、それでもこんなにもまだ弱者だったと突きつけられるのもやるせないものです。

 

千鶴子さんの研究は、自分自身の逃げ腰な選択や生き方に、ズバズバ刺さって、当事者の苦々しさみたいなのを感じてしまいます。

 

劇薬の苦味がガチで辛い。

 

でも、やっぱり読むべき。だからこそ読むべき。

だってこの本に書かれてあることは本当のことだから。

 

千鶴子さんは統計やデータをバンバン出すんですけど、統計やデータは辛辣です。

 

日本の女性の管理職割合が先進国で下から2番目なのは有名だけど、男女の賃金格差や非正規雇用率も、こっわこの国!レベルだけど、

そんな統計はもう何年も前から出されていて、先の管理職割合の低さなんかは、日本は国連から勧告まで受けてるんですって。

 

この成長のなさ、あかんよ!ちゃんと取り組んで!と。

しかも管理職割合の男女比目標いくらって人口比に即した全体の半分の50%とは違うです。30%が目標。実際は4%台そこら…

ヤバい。

 

あと、膝を打ったのが、主婦の労働。

主婦のお仕事はれっきとした労働、だけど賃金としての価値は一切持たされていない不払い労働ってのは私もずっと思っていて、それを研究してくれてたんです。千鶴子先生は。

 

子育て、介護抜きで年296万円。

育児や介護入れたら500万円。

これがまあ一円も払われていない訳としてはなんなんだって謎に、真っ向から挑む千鶴子。

 

無償の愛とかそんな答えは聞きたくねー、と猛る千鶴子♪( ´▽`)ステキー

 

要は掃除や飯炊きや育児や介護といったものは、家にいる女がやるような、たいしたことない仕事だろって考えの家父長制と、市場以外を経済に換算しない資本主義が妥協点見つけて折り合いつけた、って話です。

 

これね、私の仕事の年収に、育児と家事労働分の賃金を足したら夫の収入の倍近くになります。

 

✳︎ちなみに、子供2人を養っていくのに必要な世帯年収は600万といわれています。

 

 

とはいえ本書が帰結するのは今や未来への大いなる「希望」です。

 

さすが80年代から研究続けてきているなという時代の変遷で、上野千鶴子さんが感じてきた、

 

少しずつ少しずつ変わってきた!

 

いや、女性たちが変えてきた!

 

怒りをパワーにして!

 

これも紛れもない事実で。

 

女性社員が会社でお茶くみしなくて良くなったのは、女性たちが怒って変化を求めてきた成果なんだよと。たくさんの犠牲を払いながら。

 

 

それにしても千鶴子さんの研究の中身は、知の発見に溢れていますが、過去にどこかで見たことある既視感があります。概念は基礎としてあって、今改めてきちんと本で理論として知った感じ。千鶴子氏は、私の潜在意識にあるフェミニズムの知識のほぼ生みの親かも?

 

と改めて、その研究の成果ともたらした社会へのインパクトやイノベーションに、リスペクト200%。

 

で、ここからが、私の中のキモなんです。

 

じゃあフェミニズムってなんなのさ?

男が作った社会が嫌だと負けじに強くなって男性と戦ってみる事?

 

千鶴子さんは言います。

 

そうじゃないと。

 

弱者が弱者のままで尊重される社会を求める思想

 

だと。

 

で、弱者って、強者の未来の姿だよと。

どんなにしたって、じいさんばあさんになれば、何かに依存しないと生きてけないんだからと。

赤ちゃんと同じよに。

 

だよね✖︎1000

 

虐げられた支配される側が支配する側に取って代わるのがフェミニズムじゃないんですね。

どんな人も尊重しようぜーい!ただただそれ。

 

男女ともにハッピーな世の中。

だって男性も、女性を守らねばという使命も、一家の経済担当というプレッシャーからも、男は泣くんじゃない"らしさ"からも解き放たれるんだから。

 

千鶴子さんは、きっと男性も辛いだろうに何故、男性は女性運動やフェミニズムみたいな風に男性運動を始めないのかなー。と問います。

 

私も分からないので、今度夫に聞いてみます。

 

人は変わらない

 

でも自分は変えられる

 

逃げ腰な自分よ

 

考えろ

 

そして自分の人生に納得いく答えを探すのだ