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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

NHK朝ドラ備忘録 2022 ちむどんどん

 

 沖縄が好きさぁ〜

ということで待ってました!

いま、朝ドラが楽しみです。

まだ子役たちの時代ですが、もう面白い。

毎回泣ける。

 

お父さん=大森南朋さんの三線のシーン、めちゃくちゃ染みる〜のに、お父さんあっけなすぎ。

4人兄妹のダメさやケンカも面白いし、アベベとアババ(育てた豚がごちそうへ)の回も良かったし、そして、飯場で働くお母さんの苦労…

日当がドル札…

何げない戦闘機の騒音…

ズックも体操着もボロボロな運動会…

俺はアベベだ!と裸足で走る兄と仲間たち…

あかん

全シーン泣いてまう。。

 

 

ちゅらさんも好きだったけど、沖縄が舞台のドラマは笑いが似合います。今回もそこに期待してて、でもまあまあシリアスに進むなぁと思ってたらやっぱり面白シーンいっぱい!

なんでだろうね? →ウチナーの発音で(´∀`*)

やっぱりね、太陽というか、空気がそうさせるのかしら。

 

 

ヒロインは成長したら、料理をならいに東京行くみたいなのですが、いやだ!→今日の流れではすぐ??

 

ずっと沖縄バージョンやってほしい!!

イカ墨ジューシー食ってたらいい!

アベベ

 

 

懐かしいちゅらさん


岡田惠和さん脚本。

 

ちむどんどんは羽原大介さんが脚本。

パッチギ!フラガールとかで日本アカデミー脚本賞とってますね。なぜか「ふたりはプリキュア」の脚本も書いてはる…幅広い…

 

脚本でいうと、去年の「おかえりモネ」の脚本も良かったです。

安達奈緒子さん。

サラーっとしがちな朝ドラで、珍しく人間の深いところ刺す脚本だったですよ。沁みましたよ。

 

ラブコメ王道!「消えた初恋」

 

 

30分全10話のドラマ。U-NEXTの体験版(なんやかやで有料…)で観たけど、深夜にテレビでやってた記憶。

 

我が家のお嬢ちゃまがファンでどうしても観たいと言い出して。道枝くんじゃなくて、目黒蓮くん。

 

 

いや。良かったっす!

ハイスクールラブコメな王道!

 

新しいのは、男子同士なところ。

でもいわゆるBLではないんです。

禁断の…みたいな扱いでも、偏見を乗り越えて!みたいなヒューマンでもなく、あくまでポップなラブコメ。王道ど真ん中。

 

基本は高校生のラブコメに興味がないですが、演出もよいし、みんな爽やかでいい奴、いい話。観てて、頑張ってー!と思いました。

 

目黒蓮くんが出てくるたびに、我が家のお嬢ちゃまが、かっこい!かっこい!とうるさかったです。

 

ジャニーズ人気者がこんなんやるって

時代は確実に変わってきてる!

こんなドラマが月曜9時とかに出来たら、いいですよね。学校行くのが楽しくなりそう。

 

高校生ってキラキラで、いいなぁ(=´∀`)

 

原作は人気少女漫画。

 

 

 

「余命10年」小説の方

 

 

 

我が家のお嬢ちゃまが、映画を観て感動したらしいです。じゃあ原作の小説を読もうよーっておすすめ大作戦。

結局わたしだけ読みましたとさ。

ネタバレてます。

 

 

「誰かの死」ではなく、20代の「私の死」を描いた小説です。私小説に近い傑作です。

 

 

難病で20歳で余命10年を宣告された主人公。生きた証を残すための7年と死の準備をしていく最期の3年。特に最期の3年の、経験者だからこその肉迫した描写にやるせなくなりました。

 

若いのに、まだまだ若いのに、まるで老衰した老人のように、奪われていく肉体の自由と心。長く病気と付き合うということをよく分かっている人の告白です。

 

私ももうすぐ50代。若さよりも、老いの気配を感じることも増えるわけで、昔出来ていたことが出来なくなることをしばしば身に染みて感じることもあります。

でも、その怖さをまだ本当には知りません。

 

ただ、うちのお父さんが癌で亡くなる晩年の様子は知っていて、日に日につのる本人の衰弱ぶりや苛立ちを目の当たりにはしています。

 

それを知る限り、一つずつ出来ないことが増え、食べたり話したりだけでなく、人としての最低限の自由が奪われて、もはや目に移るものさえ小さく閉じ込められていく。

生きる気力を削がれ、その絶望、小さな希望、葛藤。

ヒトはキレイには死なないって知りました。

 

死と向き合うってのは、過酷です。

父のように70年以上生きたとしても、まだそんな覚悟が持てないのに、若さはより現実を受け入れ難くするはずです。

 

特に印象に残ったのは、主人公が必死に孤独を受け入れようと、死との折り合いというか、準備をしていくラストの方。文庫化で加筆されたという闘病部分です。よくぞ書けたなと。

 

ごめんということ、ありがとうということ、好きですということの全てをやりとげ、思い出を胸に、全てを捨て、ただ家族だけが実質的に私を生かすものとして残り、でももう生きることから解放されたい。

でも解放されるためには、死の恐怖を体験しなければならない。

 

主人公は、好きな人と出会い、親友と呼べる仲間を見つけ、漫画を描く事で自分の生きた証を残します。

だけど、言うんです。

どんな生き方だったとしても、同じように死んでいくんだと。

主人公が死と向き合う姿や心を描いた数ページが胸に迫ります。

 

私はどんな風に死ぬんだろう。

きっとやっぱりキレイには死ねない。

だけど、生きなければならない苦しみもまた、残された人にある。

だから死ぬ人は孤独に死ぬ方がいい。

でも、寂しい。

その寂しさを、老いがゆっくり教えてくれ、いつかああ、死に向かうのはこういう感じなのかと準備ができるならば、老える事は少し幸運なのかもしれません。

 

 

クリミナル・マインドという日常(のロスの悲しみ)

 

シアトルの絞殺魔

シアトルの絞殺魔

  • Matthew Gray Gubler
Amazon

 

3月末までHuluで見放題だったんですが、Huluって、見放題が終わると、有料に切り替わるでもなくて、なんにも見れなくなるんですね。

シーズン5の第1話まで観て、見放題が終了。4月1日から当然のように観れなくなりクリミナルマインドロスに…

 

あまりに残念で、有料でもいい!クリミナルマインドがない日々なんて、嫌だ!と、プライムビデオで、1話300円払ってシーズン5の第10話まで観てしまいました…

 

でも投資額が3000円を超えそうになって、いやそれはいくらなんでも、やっちゃいけない。

シーズン10まであるウォーキングデッドも我慢したんだから、シーズン15まであるクリミナルマインドはなおのこと。

有料で最後まで観ちゃうとなれば、破産しかねない。という心の駆け引きの末、とどまりました。

 

早くプライムで無料になりますよう祈りつつ…

 

クリミナルマインドは、FBIのプロファイリングチームBAUが舞台。毎回、チームがシリアルキラーを見つけ出し捕まえるために、アメリカ中を専用ジェットで飛び回ります。

 

シーズン1は2005年にスタートしていて、最初の頃は

「おい気づけよ」「早くつかまえて!」という焦らしシーンが割と多くて少しヤキモキすることもあったんですが、毎回しつこく観ているうちにプロファイリングのロジックの巧みさとか、チームメンバーのクールな仕事ぶりに、これは面白いなあと。

以下、ネタバレあります。

 

「クリミナル・マインド」ここがいい!

 

疲弊しつつもプロフェッショナル

criminal mind=犯罪心理、犯罪者の心

という意味かと思うんですが、毎回、犯罪動機が簡単には読めない異常犯罪がオンパレードに出てきます。

被害者や殺人のスタイルなどで、犯人がとった行動や残したサインの意味を、犯罪心理学や過去のケーススタディなどをもとに、プロファイルして犯人象をあぶり出し、該当者を絞り込んで捕まえます。

この手順がシンプルに面白いです。

BAUメンバーが個性がありつつも役割分担と連携がとれていて、プロフェッショナルぶりが小気味いいです。また人間の闇に迫る過酷な仕事だから、基本みんなハートが強いんですよね。

でもそんな鉄の心を持つメンバーたちも、自分が危険な目に遭ったり、家族や仲間が巻き込まれたりで、心が折れてしまう時もあるんですよ。

シーズン1からの中心メンバーだった女性捜査官のエルもシーズン2で戻らなかったし、ベテランのギデオンも、もうダメ…とシーズン3だったかで辞めてしまいます。

若手天才学者のリードも拷問されて、助かったもののPTSD発症するし、「どんな時も笑わない」と言われるボスであるホッチなんか、仕事が原因で離婚した上に上層部に睨まれ、しかも結局、家族を殺され…

という容赦ないストーリー展開。

実際にはここまでじゃないとしても、捜査官って職業人としてすごいなぁと感じます。

 

 

差別、貧困をためらわず描く

毎回、犯罪プロファイリングを通して人間の闇に迫る中で、やっぱり犯罪者が犯罪者になってしまう背景というのが肝になってくるんですね。

 

で、時に犯罪者は、自分自身が過酷な過去を経験したりしています。つまり犯罪者自身が先になんらかの被害者であったりする、ということもあるわけです。

虐待サバイバーだったり、誘拐されていたり、犯行を見たり手伝わされたり、食べるものさえない状況を長く経験していたり、社会から締め出されていたり、差別されていたり、戦争を経験していたり…

 

もちろんだからってシリアルキラーは理解の範疇を越えたところに病理の怖さ、闇があるし、クリミナルマインドでも、BAUはみんな犯罪憎し、被害者を助けたい、その強い使命感を土台にはしているんです。

ただ一方で、単純に陰惨で極悪な犯罪を正義で罰すれば世の中が変わる風には描いていなくて。

それはプロファイリングという技術が犯罪者の心理を追っていく、理解しようとする作業であることを出発点にしている事からも感じるんですが、広い視野での人間の悲しさや社会のひずみを浮き彫りにすることをテーマの一つに置いているわけです。

犯罪描写の陰惨さやグロさが、とかく取り上げられがちですが、クリミナルマインドの本質的なリアリティの凄みは、社会そのものを深掘りする姿勢にこそある、と私は思います。

 

 

命の重み、ドキュメンタリー的真面目さ

BAUメンバーが毎回犯人をしっかり捕まえる(もしくはやっつける)としても、いくら強い使命感があっても、やっぱりみんな悩むんですよね。

もっと早く、1人でも多く、助ける事が出来なかったのかと。

そして遺族の心にすごく寄り添うんですよ。

 

それが分かるセリフをホッチが言うシーンがあって、とてもカッコよくて英語字幕に切り替えながら、メモしてしまいました。

 

シーズン4の第9話。新しくやってきたメンバーに対してホッチのセリフ。ちょい長いです。

 

I don't know how did things in Counter -Terrorism.

But we don't make it habit lie to get the job done.

 I don't know you represent the FBI ,

you represent this team

to press,to police,and to the families who are struggling with some of the hardest times of their lives.

If you get caught in a lie , The trust we depend on to help solve these crimes disappears.

Do I make myself clear?

 

これ必死に単語の意味調べました(o^^o)

合ってるのかよく分からない部分もあるし、聞き取り間違いもあるかもですが…ホッチが言いたいこととして全体の雰囲気を簡単に書くと、

「君の前の職場じゃ知らんけど、BAUでは仕事で“嘘“は使わない。君はFBIやこのチームの代表なんだろ?報道機関にも、警察(BAU派遣先の現場)にも、人生のなかで最も困難な時にいる(被害者の)家族に対しても。

もし一度でも君が嘘をつけば、犯罪解決のために私たちが費やしてきた信用は消えるんだ」

みたいな?

で、最後の

Do I make myself clear? は、私は私自身を明確にしてる?→言ってること分かる?みたいな感じ。立場が上の人がお説教する時に「分かりましたか?」という意味合いで使うそうです。

まあそこはどうでもいいんですが。

 

で、これを聞いた時に、脚本含めた作り手の、こう真面目さというか、あれだけ毎回何人も殺されていても、一つの命も決して軽んじてはいけないという気風を感じたといいますか。

 

このね、クリミナルマインドの真面目すぎる真面目さをずーっと観ていたら、いつものように、他の刑事ドラマが、なんだかつまらなくなってしまうという現象に襲われて、なんでなんだろう?と考えたんですが、クリミナルマインドがひたすら「淡々としている」からではないか、と。

ドキュメンタリーぽい作りというか。

 

登場人物に個性はあるし、私生活が出てこない訳でもないんだけど、基本的に出来事が淡々と進んで淡々と終わります。

だからこそ、いつも淡々としているホッチのこの感情的にも思えるセリフがぐっときたのかもしれません。


でもやっぱりフィクションだから観れるんですけどね( ´ ▽ ` )

 

 

じわる登場人物

まず主要キャラクターがあんまりエンタメ色がない気がします。だって主人公がおじさん。

 

しかもなんてゆーか、美男子でもないし、ちょいもっさりしてます。ギデオンもロッシも。ホッチは昭和風ハンサムだけど。

リードは若いしイケメンだけど、針金とか言われてるし、毎回カーディガンだし。女性陣は何故かとっても美人(о´∀`о)。JJなんてアメリカ的に金髪美人過ぎます(もっともさっとしてほしい)。ただ人柄はみんな性差を感じさせないさっぱり感。

で、ITエンジニアのペネローペガルシアが群を抜いて個性派女子で、めっちゃ好きです。きっと女性層から人気!

そしてBAUの中でも唯一の黒人で普通の人キャラが、シェマームーア演じるデレクモーガンです。

シェマーは、スワットの出演から15年以上前にクリミナルマインドに出ているわけですが、全然風貌が変わらないです。どうなっているんでしょう。

唯一のイケメンでモテ男で、常識人。

私はスワットのホンドーも好きですが、クリミナルマインドのモーガンのシェマーも好きだな。ガルシアとも仲良いし。

 

 

ということで、クリミナルマインドはシーズン15まであるので、まだあと10シーズン観ないとその真髄はつかめないかもしれません。言っても、私なんかまだまだ初心者!(な割に語りたがる)

また新たなキャラクターが出てくるでしょうし、展開もまだまだ未知。楽しみすぎます!

 

早く早くプライムで無料になりますように♪(´ε` )

 

 

 

 

 

 

 

 

スワット シーズン3に出てくるヨシダさんって!

 

免責

免責

  • Shemar Moore
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見たのはプライムでなくて、Huluです。

今なら見放題!

プライムは有料なんですが、

ハテナにHuluリンクないから、プライムですみません。。

 

まだ全話見終わってないんですが、13話かな。

 

液体らしく

液体らしく

  • Shemar Moore
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舞台は東京なんです!

ホンドー、ヒックス、タンで来日!

小澤征爾さんの御子息の俳優の小澤征悦(ゆきよしって読むの初めて知りました)さんが出てきますよ!

サンフランシスコ出身だから英語できるんですね。

 

でも後は知らない人ばかり。

キーキャラのキムラ役の人、明らかに日本語できてない(´・∀・`)

どういう人選かナゾが深まり、実にミステリアス。

 

で、描かれる舞台は渋谷のスクランブルはいいとして、ギンギラの電飾施した女子プロレス会場ってなんだ?

 

いやー。ミステリアス。

 

でも何よりね、ヨシダさんですよ。ヒックスと昔馴染みの警視庁の。

 

タンを避けてるんですよね。名刺をタンだけ渡さなかったり、タンだけ現場に行かせなかったり。

なんでそんなイケズ?って、実にナゾなんですが、最後にヨシダさん本人の口からナゾが明かされるんです。

 

自分のお父さんが昔中国と戦ってたから。

 

とな…

あータンって中国人でしたっけね。

 

いやヨシダさん、見積もっても55歳として、お父さんいくつよ?

ヨシダさんは1965年生まれと考えて、お父さんが45歳で出来た子として、お父さん終戦時25歳。…ありえるか…(・ω・)

 

いやまあ、それはヨシとしてですね。

21世紀も20年経つ今、80年前の個人的感情を引きずる公人ってどうなのよ?ってのと、かつてアジアを侵略していたのは日本なんで、グローバル感覚的には逆じゃない??あとそれ言っちゃうなら、80年前に日本に原爆落とした国は…とかね。そこ言い出すと、ヨシダさん、なぜ??と。もしかしてヨシダさんのお父さん、日本軍じゃなく他国の傭兵だったのかな…

 

と思いつつも、そこもまあ人それぞれに思いがある、と解釈するとして。

 

ただ、なんだか考えちゃったのは、このヨシダさんのイケズのチャチさ。要はアメリカ人には、日本人って嫌いな国の人に、しょうもないイケズを大人がしちゃうよね…はっきりモノ言わずにやっすいイケズするタイプよね、なんて思われてると考えたら、なんか悲しいです(´・_・`)

 

もうこうなったら警視庁のヨシダより、日本語できてないギャングのキムラの方がさっぱりいい奴に思えるくらい。

 

ヨシダ氏!日本代表としてそんな小さくまとまらないでおくれよ!

タンはいい奴だよ!

 

欧米の人たちに混じると、同じアジア人であり、若かりし頃の堤真一さん似なんで、ドラマでは親近感しかなかったです。

 

ただただ。

こんなチャチな仲間はずれするのは警視庁のヨシダさんだけで、日本人みんなが、他国の人にそのようにイケズする訳ではない事をアメリカの人には知っておいてほしいと願います(о´∀`о)

 

まあドラマとはいえ3人とも来日してキャッキャと楽しそうにしてたから、結果的には良かったかな!

 

それにしても、スワット、シーズン3からなんかが変わった気がして仕方ないんです。

なんだろなぁ。

シェマームーア(ホンドー)をクリミナルマインドでも見てるからかなあ。

 

 

 

 

 

「好き」にアホであれ

子供に将来何になりたいか?聞くことがしばしばあります。

娘は、小学生の頃はパティシエと言ってました。

高校生の今もたまにお菓子を自作しているので、基本、お菓子作りは楽しいようです。今は職業にしたいとまでは思ってなさそうだけども。で、じゃあ何になりたいか聞いたら、ずっとJKやってたいらしいです。まあ今が楽しいのはいいことでしょうか?

 

小学生の息子は、…なんにもしたくないそう。できれば大人になっても働かずにゲームしてたいそう。

 

まあ夢がない。

 

自分が子供の頃はなりたいものが時代時代にあったなあーと思うんですけど、今ってそうじゃないの?

 

私が小学生の頃になりたかったのは、低学年の時は歌手。次に漫画家、弁護士。で、高校生では絵の道やら小説家やら詩人、大学生では(まだ夢見る子)新聞記者。

 

でそのどれにもなれてないんですが。

ただ、今現在、末端ながらもライターとしてお給料もらっているんで、かろうじて文章書く人としては、まんざら夢を夢のままでは終わらせないで(渡辺美里)いれたという気がしないでもないです。

 

で、どんな言い訳もできないくらいに大人になりきってしまった今。

今更に気づいたのは、結局夢を夢で終わらせてしまったのは何だったか、その原因と理由です。

 

今思えば、それは才能とか努力とかでなく、単に諦めたから、なんじゃないかなあと。

 

諦めたらそこで試合終了ですよ

安西先生

 

たとえば漫画家。毎月、りぼんとなかよしと別マと別フレ別コミ読んで、女の子ばっかり描いてたんです。で、読むだけでなく描くのが好きすぎて、これは…漫画家目指すしかない!と、当時、漫画雑誌に広告が載っていたマンガレッスンできる通信教育を親にねだってやらせてもらいました。

で1か月で放り出しました。

何が引っかかったかというと「一度描いた同じ人の顔が2度と描けない」。

 

でも、同一人物を描くなんてストーリーモノには基本中の基本だし、ていうか描けないと話にならないんで、速攻で私って才能ないなと、諦めました。

 

芸大目指した時も予備校でめちゃくちゃデッサンが上手い人がいて、びびってしまいました。こんな上手い人がわんさかいるなら私に勝ち目はないとすぐ予備校からとんずら。

 

親はお金ドブ捨て。

 

…つまり。

私って、逃げちゃう人生なんだよなぁと。

勝負にも出ずに、土俵上がる前に降りてしまう。

 

今思えば、そこで頑張っておけよ自分…に尽きるんですが、頑張れない限りは何にもないのと同じだなぁと。

 

よく夫が「夢があっても才能のあるなしは仕方ない」と言ってるんですが、私はそうは思わなくて、何故なら、私がまさにそうなんですが、才能うんぬんの前にどれだけの人が好きな事に真正面からぶつかってきたんだろうと。

 

結局才能とかでなく、やるか、やらないかでないか?いや、そのやるかやらないかで、やるを選ぶのが才能なんかもしれませんね。

 

だから逆に考えたら、やれば何かは変わっていく訳で、それを妨げる1番の敵は、ただただ舞台に上がって、お前には才能はないと突きつけられるのが怖くて、結果舞台にすら上がらなかった、自分なんかなと。

 

結局アイデアとやったもん勝ちやで。

なんてのを「進撃の巨人」読んで逆説的に思ったりしました。

漫画家としての成功体験はあくまで後から付いてくる枝分かれのラッキーな選択肢で。

 

だから子供たちには、それがどんな突拍子ない夢であっても、まずはただただ「好き」に正直に、アホであれ。

と言いたいです。

 

が、彼らには夢がないという…

 

YouTuberめざそうよー

スタンダードでいいよー

なんだっていいからー

 

 

 

 

アラフィフからの楽しい英語のお勉強2 ー英検準2級合格〜

今さらだけど、日本以外の価値観に触れたい→アメリカドラマはまる→英語話したい→アプリ→英会話教室→英検準2級目指す

 

でかれこれ。

分からないけど数年月。

 

分かりやすく目指せるものとして、英検準2級に挑戦し、合格しましたー。

 

いやいや、楽しかったです(о´∀`о)

 

最初は赤本だけやりまくってたんですが、ライティングと面接の練習がなかなか1人では難しく、

で、私の英会話教室の先生が元面接官だったのと、高校でも教えてて英検に通じてる人で、ずっとレッスンしてもらいました。

 

英検の勉強ってまず「型」を覚えて行くんですよ。特にライティングと面接は「型」が大事。

決まったまわし文句ですね。それを覚えてあとは、その型に設問に合わせた回答を入れて文章を構成するんですね。

 

そんなルールも全く分かってなかったから、いやほんと、、、独学だけなら落ちとてたかも。先生ありがとうです(´∀`*)

 

で、この考えるな!型を覚えよ!な感じ、いかにも日本的だなぁ、こんなんでほんまに英語話せるようなるんかなぁ…と最初は思ってたんですね。

 

日本のザ受験みたいなイメージ?

 

でも何回も赤本やったりレッスンするうちに、このパターン化や繰り返しこそが、基礎には大事なんかなと段々と思えてきて。

 

てゆーか、まず赤本のライティングで私って基礎力がないなと痛感しました。

 

ライティングは60単語くらいで英文を書きなさい(単語数守るのめ大事!)てやつなんですが、〇〇についてあなたはどう思いますか?て聞かれるんです。

 

たとえば、若者にとってファストフードは良いと思いますか?みたいな。だいたい健康系かIT系多し。

 

で、型を何も知らない私は純粋に、

まず、うーむ、、て自分の考えに日本語で悩みます。

で根が真面目な上に屁理屈言いだから、

時と場合によります。若者にはファストフードはすでに食文化の一部になっていますが、昨今は食材の安全性やまた手作りの味わいが見直され、SDGsの観点からも、培われてきた郷土食文化の重要性が謳われています。

 

みたいなこと考えるんですね。

じゃあこれを英語にして作文書け、スピーチしろ、って、はい無理ー!

 

でイギリス人のマイティーチャーから「難しく考えないで!!!」と注意されまして。

 

そうじゃないんです。型があるんだと。

そしてとにかくsimpleにと!

 

 

まずイエスかノーで答える。で私はファストフードは良くないと思います。と。

で何故なら、野菜を食べないからです。健康に悪いです。

 

これでオッケーなんだよと。

 

えー!!!

 

47歳。頭が硬い、すれっからしゆえの逆転的逆説的発見。

何のこっちゃ。

でもでも確かに。

いわば準2級は日本の高校生の基礎レベルですから、シンプルにファストフードはヘルシーじゃない、と答えられずして、何が英会話と。

SDGsを語るなんざ100万年早いぞと。

 

たとえばアメリカにポンっと行ったとして、どっちがネイティブ相手に効率的にコミュニケーションはかれるか、私って人間の考えを伝えられるかって断絶シンプルな受け答えだなと納得。

 

まあそんなこんなで、目から鱗に楽しかったです。

 

二次試験の面接も、緊張で頭が真っ白になり、かなりしどろもどろだったんですが、読みと態度点が満点取れて、なぜかあんなしどろもどろだったけれどさほど悪い点でもなく。きっとしどろもどろ隠しにひたすらニコニコしてたからかな?アイムナーバス、けへへ(´・∀・`)みたいな。なんて思ってます。

 

で。

この英検受験でね。

いちばん鍛えられたのは、周りを気にしない精神力かもしれません。

 

一次も二次も試験会場はなんせ周りは中高生ばかり。そこにおばちゃんが保護者のフリして受験生として混じる感じがだいぶ居心地悪かったんです。。

誰もなんにも言ってたりしないし、じろじろ見られるんでもないんだけど。たまーに私より上めなおじちゃんおばちゃんがいて、すごい仲間意識が(笑)

 

次は2級を目指す予定ですが、おそらく同じ目に合うので、心頭を滅却して自己集中し乗り越えていきたいと思います(´∀`*)

 

 

 

 

他者から学ぶ ーアウティングについて思う

きっと誰しもに、いくどとなく「穴があったら入りたい出来事」は訪れるものかもしれません。

私の場合は、まあまあ山盛り。「穴があったら入りたい出来事」は多い方じゃないかと思います。
ふと寝る前に昔の自分の恥ずかしい所業を思い出して、急に布団の中で七転八倒をしてしまうことが、ままあります。
若いころから「布団で七転八倒」はしていたんですが、
年を重ねるにつれ、これまでは気づかなかった「恥ずかしい」「申し訳ない」「情けない」思いが芽生えて
なおのこと七転八倒が増えたりしています。
七転八倒の中身がちょっと違ってきている感じもします。
は~~全然不惑でもないし、知命(50にして役割を知る)もない・・・

でもなかには、自分のこれからの生き方の模索として、きちんと向き合っていかねばと思う問題もあります。

たとえば「アウティング」。
アウティングって、本人の了解を得ずに、その人のセクシャリティを他人に伝えることです。
今はこれが日本でもおおっぴらに問題視されてきました。


でも、思い起こせば若かりし頃、自分も今になって、申し訳なさでいっぱいのアウティングが結構あるんです。

たとえば、セクシャリティに限らず、出自。あとその人の仕事や生活の状況とかですね。

友人との呑みの席の何気ない会話だったりするんですが、「いやそれ言う必要ないだろよ」というのが今になって記憶によみがえってきたりします。
たぶん、アウティングするのって全部が全部、悪気があるわけじゃないとは思います。
私自身も悪気があったわけじゃなくて、「何を隠す必要があるんだ!」とむしろ正義感だったりする。
それがまたアホなんですが、なぜ私がアウティングしたのか、なぜそれがやっぱりダメだと今思うのか。
改めて考えてみました。

というか普通に、「いや他人のくせに人のことをとやかく言うなよ」ていうのがまず大前提にあって。
そういうのは日常茶飯でも結構あることで、その場で「おいおい言うなよ」と気づかせてくれる人もいれば
言わず去る人もいます。

それにね、友人だからいいじゃんと言ってても、世の中ってやっぱり「悪いやつばかりでもないけど、いいやつばかりでもない」
という部分で、アウティングによって、その内容がどこかで漏れて、実際にその後、差別を受けたり危険な目にあったり、傷つけられたり
そういう悪意をぶつけられる可能性もあります。

そしてその危険性に対して、いつ悪意をぶつけられるか、本人はずっと思い悩むことになるわけです。
結局、アウティングの何がダメかって、する方じゃなくされた本人がその危険性に思い悩むことなんですよね。

言い出したらキリがないくらいに、「あれもアウティング?」「これもアウティング?」となるわけですが、
その線引きは、やっぱりこの「いい奴ばかりでもない世の中において、余計な一言で当人を不安にさせるかどうか」なんだと思います。

若いころは「いい奴じゃないやつが悪い!」「堂々としていたい!」とただただ思っていた部分もあり。
それはそうなんです。差別する人が悪いし、傷つけるのは犯罪です。
でも、今は思うんですよね。
だからって口に出すかどうかは、私が決めることじゃない、と。

それは当事者である本人が判断することで、いくら親しい友人間でも、自分は差別主義者を嫌悪していても、
当人の問題を、人生を背負うわけでもない自分がどうこう判断することはできないんです。

「堂々といきよう!」といっても別に本人が恥ずかしいと思って隠しているわけじゃなく、ただただ「いい奴じゃない」奴に嫌な目に合わされるのが怖いわけで。


差別って言うのはそういう何重ものしがらみや目に見えないやっかいさを社会に潜ませていて、
アウティングの罪で七転八倒に悩むくらいなら、他人に一切無関心に生きてった方が楽でいいんじゃないかとすら思います。

失敗や失言をせずに、誰も傷つけずに、自分も傷つけられずに生きていけたら、どんないいでしょう。

けれど、それは現実として可能なのか?

他者と関わるのは、そもそもまあまあやっかいなことです。けれど避けては通れない。

他者が他者である限り、時に共感ができてもやっぱり他人で、その違いをどう受け止めるかですよね。

アウティングの罪は知ることとコミュニケーションで償っていくしかない。

自分が世間知らずだった事を受け止めて、分かってなかった事を受け止めて、無知の知から始めてみる。

この広い世界のすべてを悟ることはできないわけで、みんなどこかで間違えます。

間違えてもやり直せる。

しくじってこそ見えるものがある。

ということで、まずは今年中に友達に謝りたいです。そしてその問題をじっくり話せたらいいなぁと、思います。

かつて怒ってた友達に。今も仲良しな友達に。

何!急にあんた!って思うやろなぁ(о´∀`о)

いじめニュースに思う子供たちには何が必要か「おせっかい」の育て方

新聞のオンライン記事でいじめで自殺した中学生の記事を読みました。
毎朝、新聞社から届くニュースメールは、リコメンド機能があるからか、私がよく読むような、子供たちや学校教育でのツライ記事が結構多く(何かそういう登録をしたのかもしれないけど覚えてない)、朝からまあまあゆううつになります。

でも、私はそんなゆううつな朝も大切だなと思っていて、なぜなら実際にそれは起こった出来事だし、どこかの誰かにも今この瞬間に起こっているかもしれないし、明日の我が家の現実かもしれないからです。

そうやってわざわざニュースでゆううつな気分になって毎朝子供に「いってらっしゃい」と声をかけています。
マゾかな。。。

しかしまあ、親としては「いじめられる」怖さにびくつきながら、同時に「いじめる側になったらどうしよう」というのも恐怖で、
いじめられた方ではなく、いじめた方の気持ちを考えてみると、
より一層どこでボタンを掛け違ってしまったんだろうと思うんですね。

本当に「死ね」と思って「死ね」というのか、
本当につらい思いをさせたくて、相手を虐げるのか。さげすむのか。

おふざけが大好きな子どもたちをみていると、最初はよくあるような「遊び半分」だったことも多いのかもしれないなと。

子供ってまだ「社会と自分の結びつき」がはっきりつかめていないなとは思うんです。
要は、他者との距離感や社会の中でのマナーやデリカシーですね。
そういうのがまだつかみ切れていない、他者との距離の取り方を分かっていない、
ここを超えたらだめだ、やっちゃだめだ、言っちゃだめだっていう知恵というか経験というか、そういうのがまだ未熟なわけです。
そういうさじ加減を自分で測って判断することができない。ていうか、だから「子供」であり。
特に今は、それよりも自我を持て余していたり、大人からのプレッシャーだったりにストレスが深まっている中学生が多いのではなかろうかと。

受験とかもほんとそう。
「生きる基本」をおろそかにしてまで、やらないといけないのが受験なのかなって、めっちゃ思います。

いじめの標的は誰でもよくて、手近な「むかつくやつ」「見ててなんかイラっとする」「敵とみなした」であったりするんでしょう。
逆に遊び半分の場合は、最初は「好きだから構いたかった」かもしれない。
でもたとえ悪意がなかったとしても、それが結果的に相手を貶めたり辱めたりした場合は、やり方が間違っているわけで、好意が伝わるような方法に変えなければいけないということに、どこかで早い事、気づかないといけないわけです。

もちろん悪意ばりばりの場合は、「イラっとするからといって、さげすんでいい他者は一人もいない」ことに気づかないといけないです。

でもじゃあ、彼らはどこでそれに気づくのか。それを知るのか。学ぶのか。

もちろん「目には目を」で、いじめる方がいじめられた側と同じ目にあって、被害を受ける側を経験してみれば、気持ちが分かるかもしれない。
罰を与えるのはこれの進化系ですよね。法律が介入するかたちで許されている対処法です。
でも法律が介入する場合って、もう取り返しのつかないとこまで来ちゃっていて
実際にはもう手遅れのことが多かったりします。
もちろん、手遅れには手遅れで「まだそれでも手を打つ」のはすごい大事なことです。

でも、そんな取り返しのつかなくなる前にどうにかできないものなのか。
もっと日常でできることがあるのではないかと思います。

ニュースでよく見るのが
「学校側はいじめを認知していなかった」
「保護者は学校に訴えていたが対応してくれなかった」
「いじめのアンケートを取ったが、いじめがあったという事実が出なかった」

これって、でも「起こってから」ですよね。
知ってたのか知らなかったのか、とか事実確認の段階の話で止まっていて
マスコミも「なぜ知らなかったのか」を問うかたちで終始しがちで、
「じゃあ知ってたらどうしたんだよ」というところまで全然踏み込めていないニュースを本当によくみます。

事件記者の質問のパターンとして、そういう「事件直後の対応の責任を問う」というステレオタイプがあるのかもしれないですが
どうせなら学校に質問してほしいのは「日ごろから学校では、社会を生きる術として何を子供たちに教えていますか」って部分です。

そして制度としてオフィシャルな「事前のいじめ対策(起こる前に)」ってこの日本にあるんでしょうか。
教育委員会文科省にも聞いてほしいところ。

今現役の小学生と高校生を持つ親として、「いいなあ」と思うような「いじめを防ぐ学校教育の時間」を聞いたことがありません。
文部科学省がもしかしたらふわ~っとした何かは出しているのだろうとは思うんですが、実感として日常にほぼないです。

要するに私が言いたいのは、こういう時にこそイギリスのシチズンシップ教育みたいなものが必要なのではということなんですけどね。

結局、イギリスのシチズンシップ教育って、他者の気持ちを考えようってことに尽きていて
それだけいうと、日本の学校の「道徳」でやってんじゃないの?となるんですが、
いやそんな、道徳の教科書を読んで他者の気持ちを考えるってなかなかできないでしょうよと。
もっと本腰いれて、体験型でやるというのがシチズンシップの肝かなと。

そこで思い出すのが、私が小学生の時に通っていた学童保育なんです。
私のいた地域だけかもしれないですが、40年前の当時の学童って、今よりずっと児童も人数も多かったし関係も濃かったように思います。

共働きする家が今ほど多くなかったし、あの当時に共働きするって、「本気で働きたいお母さん」もしくは「働かざるを得ないお母さん」がスタンダードで、

たとえば看護師や教員や資格のいる職業だったり、大手企業だったり、自営業だったり、あるいは共働きではなくシングルでフルタイム勤務&子育てする、がむしゃらお母さんだったり。

じゃあそういう親って、どういう感じかっていうと、教育にも割と口出しするというか、親が一緒に学童を作ってたところがあって、うちの親や友達の親もそういう感じでした。

当時から学童保育には国や行政の助成金がそんなにあてがわれていたわけではないでしょうし、
学校が併設しているものでもなく、古い一軒家や長屋を借りたりしてて、じゃあどうやって運営していたんだろうっていうのが結構ナゾなんですが、
うちの学童にはうちの小学校の児童が50人くらいは毎年在籍していて、おそらく保護者からの会費?で賄っていたんだと思われます。ただ正直安かったでしょう。

だから学童の運営なんかで儲かるわけなんか、これっぽっちもなくて「学童の先生って貧乏」ていうイメージが子供の当時からありました。
あと大学生のバイトの先生(教師の卵とか?)がボランティア的に安いバイト代で入ってたので、まあそんな感じで、なんとか運営していたんでしょう。

でもだからこそ、変な圧力もなく自由にできたんですよね。

私は学童でたくさんのことを学んだと思います。
たとえばけん玉とかコマとか学校でしない遊びをたくさんしたし、
特に学校ではやらない集団遊びをとてもいっぱいしました。
だいたい10人とか20人とか1~6年が混じっての陣取りゲーム系で遊ぶので、チームに分かれてリーダーを決めたり戦略を練ったりするんですけど、こういうのは、たいがいがもめるんですよね。

で、だいたい「リーダーしたかったのにじゃんけんで負けた」って泣き出す子がいたり「誰かがずるした」ってもめたり「線を超えた、超えてない」とかで言い争ったり。
まあ毎日がトラブル。

でそれをまとめて解決する役割?が、基本は5~6年の少年や少女なんですが、それでも解決しないときがあると学童の先生を交えての会議になるんですよ。
まあ毎日それ。

中には「みんなで遊びたくない」「一人で絵を描いていたい」とかいう子もいたりして、それはそれで先生がOKしたら「あいつだけずるい」とかになって
じゃあなんでその子がみんなと遊びたくないかを聞いたり、それをどうするかをみんなでまた話し合ったりして。

とにかく、何かを子供たちが自発的にして、もめて、みんなで話し合って、だめなら大人にもはいってもらう。
一事が万事この調子。

毎年キャンプや合宿もあって、場所は大人が決めていたけど、
だいたい班で分かれて行動するとかになるんですけど
そこで高学年が低学年の面倒を見る、もめたら注意するとか、何かを自分たちで判断するっていうのをすごく自然にしてました。

とにかく子供たちが大勢いたらトラブルにはなるし、もめるし、学童ではいろんなことが山盛りだったんです。
「子供ってもめるもんだな」とほんと思います。

だからか学童の子はタフだったなぁとも思います。運動も良くできる、やんちゃが多いのはもちろん、割と成績も良い子がフシギと?多くてクラスや学年でリーダー格な子も多かったです。

当時の学童では誰かが誰かをいじめてたりすると、他の子たちが言い返したり、話し合いにかけあったりして、ほっとくことがないんですよ。

そういう「もめごと」に日々の耐性があるというか
「いやおかしいだろ」ていう行為を「関わりたくない」で知らん顔する子がいなかった。

もちろん低学年のときってホント6年生が怖かったから、コワイコワイ6年生に1年生が歯向かうなんてのは到底できなかったけど、でも相談できる3年の女子あたりはいたんですよね。
で、3年生が6年生の女子にまた相談する。
で、そういう6年女子がコワイ6年生男子に集団になって(笑)文句を言いに行ったり、あるいは先生にチクってまた全員で話し合いになったりするんです。

まあそういう中で私は育ったわけですが、
そういう中で子供たちに何が醸成されたかというと
「おせっかい」なんじゃないかと思うんです。

本当にいじめって何が嫌かって、何がいちばん問題かって
周りの「我関せず」「とばっちり食いませんように」という空気なんじゃないかと。

誰かが誰かからひどい目にあわされていて、それを知りながらほっとくって悪い事なんだと、自然に考えるんです。本当は子供たちには誰しもにその資質があって、あとは磨いていけるかで。

子供たちを見てると思います。大人よりずっと優しいし、ずっとお節介だし、ずっと面白い。

あとはきちんと思ったことを伝えられるか。そういう空気を大人が作るれるか、ですよ。心理的安全性。もしみんなが深く関わりやすい空気があればニュースの子たちにも救いはあったんじゃないかと思うんです。
いじめられる方にも、いじめる方にも。

住野よるさんの小説でもそういうお節介がまた次のいじめにつながる場面があったと思います。
今の学校は関わろうとするお節介な人間を孤立させる寂しい場所です。

その「おせっかい」って何なんだっていうと、
他者と関わりたい、つながりたい、理解したいという前向きな願望の発露ですよね。
本来は子どもって、そういうおせっかい魂が割とネイティブにあるように思います。
・・・まあ「いらんことしい」とも言えちゃうんですが。
赤毛のアンもそうですよね。好奇心が強くて、いらんことして怒られたり、しくじったりする。

少なくとも他者と深いつながりや日々の関りがあれば、早い段階で気づいて問題化することが可能じゃないですか。

なので、私の学童は「学校外」でしたが、今の学童が学校内にあるのであれば「学校」で
子供たちが生徒同士や、先生や、学校や社会との関りを深めていける取り組みが必要だと思うんです。

勉強や成績や規律のもっと奥にある、生きるための根っこにある力を育てる時間と予算をとらないといけないのです。今の教育現場はその大事な他者との関わり合いが「余計なこと」として扱われている気がします。

大人たちは忙しく、自分の生活に精いっぱいだし(でもそれは昔もそうだったような)
子どもたちが本来持っている素晴らしき「おせっかい」魂を「あかんこと」とみなしてしまう時すらある。

でも教育委員会の方に言いたい。
「おせっかいな子供」はいじめをしませんって。たとえ幾人か横道に迷い込んだとしても、それを見て見ぬ振りせず解決しようとする子供が横にたくさん立っているから。

私の学童でやっていたことを真似ればいいじゃん、あれこそが社会性の勉強だよとシンプルに思うんですが、ただ真似ても成果を見出すにはおそらく時間もかかるでしょうし、忍耐力もいるし、失敗もたくさんあるでしょう。でもやってやれないことはないはず。


他者と関わるなかでしか、本来的には人間は社会的には成長しない。
であれば、まずいじめをなくしていくために、いじめる側が早く軌道修正できるように、他者と深く関われる場所をたくさんたくさん作って行くことです。関わることでの痛みはさまざまにあり、喜びもあり、一筋縄ではいかないことを、でも横にたくさん仲間がいることを感じる機会を増やす。
転校させて終わる話じゃない。

ひとつの作品を一緒に考えて作り出すのもいいし、気持ちを語り合うでもいい。
遊びのなかのチーム作りでもいい。
ディベートもいいし、コンサートや演劇でもいい。なんにもやりたくない子が何を考えているか、何を尊重すれば「個人」を大切にできるか、みんなで話し合う時間でもいい。

とにかく、おざなりのお決まりの流れではなくて、子供たちをよく見てよく話して深く関わりながら、面倒くさい時間をたくさん作っていく。

押し付けではない自分の頭で考えて、感じて、判断していけるように、まずは他者と関わる喜びを増やしていく。

ほんとシンプルにそれ。

おやじの幸せ -自由とは2

世のお父さんたちにとって幸せってなんですか。

 

 

うちのおやじさんが亡くなって早いものでもうすぐ4年。

今更ながら気づいたことがあります。

 

うちの親父さんは私たち子供が子供だった頃、かれこれ40年の昔、当時にしてはまあまあ子育てに参加するタイプでした。

 

春夏秋冬、毎シーズンいろんなところに連れて行ってくれたし、休み返上で行事にも積極的に参加したし。

 

夫婦で同じ職業で基本共働き家庭で、日常の子供のお世話におばあちゃんのサポートがあり、両親ともにがっつり仕事ができていた面も大いにあります。

 

だけど旅行やキャンプみたいに特別な時だけじゃなく、晩ごはんだったり、夏休みの宿題だったり、だいたいの思い出にはおやじさんはいるしよく話もしました。

 

でも私が中学に上がった頃、おやじさんは子育て中心から仕事中心に切り替えたんですね。

何故か。

今はもう本人に聞けないし本当のところは分からないけど、基本的に社会や人のために生きてきた人なので、多分周りから依頼されて重い役目をやらないといけなくなったり、自分でもそっちにシフトしよかなとかだったり、世の中全体が景気が悪くなってきたり、タイミングがその時期だったんだと思います。

 

でもそれからは親父さんは気難し屋になりました(*´ー`*)

 

で、晩年。がんの闘病も終わりを迎えるころ、「お父さんは人生に悔いはない。やり残したことはない」と言いだしました。

それは残されるものには、とても良い遺言?でした。

でも、ほんまか?と私は思いました。またええカッコしてからに、と…(ひどい娘w)

 

だから「お父さんは自分の人生でいつがいちばん幸せだったん?」ときいたんです。

 

そしたら「あんたら(子供たち)が子供のころがいちばん幸せだった」と即答されました。

つまりおやじさんが子育てをいちばんやってたころ。

 

私はめちゃくちゃ意外で、「他にないの?」と聞いたら「ない」と。

 

確かに親父さんは早くに両親亡くしてるし、自分の家族好きなんやろなとは思ってたんですが、仕事人間になってからは私も思春期だしあんまり話もしなくなったし、てかケンカはしたけど、あんまり家族を見ていない気がしていました。はっきり言えば私はおやじさんがすごい嫌いな時期が長くありました。

 

でもアルバムみても私たちが子供の頃の写真に映るおやじさんはいきいきしてる。疲れた顔じゃなく、気難しい顔でもなく、こんないきいきした顔する人やったんや…気づかなかったです。

 

で今振り返ると、そういうことか!と。

自分の役割に誇りを持っていただろうし仕事で残したもの、培ったものも少なからずあって、お葬式でもたくさんの仲間が来てくれて別れを惜しんでくれたし、でも仕事でもなく、仕事終わりのビールでもなく、早く帰った日のナイターでもなく(タイガースファン)、

おやじさんの幸せは、私ら子供と過ごした子育ての時間にあったのか。70年生きたうちの12〜3年くらいやけどな。

 

 

だから、世のお父さんたちも子育てには、積極的に参加した方がいいです。

出来るだけ早く、出来るだけたくさん、出来るだけ長く。

子供のためじゃない。

それが自分にとっての幸せだから。

 

そしてそれがどんなお父さんでも出来る世の中にならないかんね、親父さん(*´-`)