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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

自分の中に毒を持て_アバンギャルドに生きろと岡本太郎が叫ぶから

 

 

2017 岡本太郎 青春出版社

 

太郎さんが遺した「自分の中に毒を持て」を今になってやっと読みました。初版は1993年。文庫版がその後出て、さらに2017年、文庫版の新装版が出たそれです。

 

読みながらずっと心のど真ん中に、ぐわんぐわんズキズキ来ました。

 

もっと若いうちに読むべきだったかもしれません。でも今の社会だからこそ、今の私だからこそ、響いたことがあるとも思います。

 

ぐわんぐわん来たフレーズにマーカーでラインを引く作業も該当箇所が多すぎて、とりあえず折り目だけにしました。

 

大事な部分があまりに全体に及ぶので、そして、全体を通して読まないと真には理解できないだろうので、まず、今の私の「自分のなさ」「自信のなさ」にピシッと頬を打つかのように叱咤激励された、と感じた序盤の触りだけ引用します。

 

 そこで僕はそういう駄目人間、不安で、迷って、自信がない、何をしたらいいのか、てんでわからないあなたに提案する。

自分はそういう人間。駄目なんだ、と平気でストレートに認めること。

そんな気の弱いことでどうするーとクヨクヨしても、気は強くならない。

中略

つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約をうけないで生きていく。

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。

 

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それでいいんだ。また、それしかないんだ。 と。

 

太郎さんは一冊の本のなかで、その本意を語っていきます。

なぜ、そうなのか。

なぜ、そう言うのか。

 

岡本太郎が裕福な芸術一家に育ったからとか、才能がある非凡な特別な存在だからとか、そう言ってしまっては全くだめだと思います。

なぜって太郎さんがそういうものの見方を否定しているからです。

太郎さんの「与えられた環境」をルサンチマン的に注目するのではなく、太郎さんが幼きころから抱えていた苦悩をどのように克服したかを考え、自分へのフィードバックとして受け取らないと、たぶん太郎さんの言葉は届かないでしょう。

太郎さんの創造の出発点は、常に、社会への問題提起なのです。

 

まず太郎さんには、太郎さん自身がこの社会を生きるのにとても苦悩してきたという背景があります。太郎さんは、自分と社会をわけて捉えず、社会そのものを自身の経験に見ることで、さまざまに苦しみ、時に喜んできた人なのです。

 

苦悩は幼き子どものころから始まっていて、先生から理不尽に殴られる学校生活のなかでどうしても体制に馴染めなかったこと、小さき者がたった1人で、権威にとことん反してきたのです。

 

従わない

ということで

太郎少年は

何をそんなに守りたかったのか。

苦悩を抱き18歳にして放り込まれたのがパリ。当時のパリは第二次世界大戦の前の不穏な空気をまとっていました。そんななかで芸術家たちがつながり、カフェで議論し、戦争を断固拒否し、自由な人間たることを訴えていました。孤独に苦悩に満ちた青年が同じように苦悩する芸術家たちと出会ったことはどれほどの喜びだったか。

 

でもだからこそ太郎さんは、敷かれたレールの従属のなかで、自分で考えることも判断することもやめて平和で満たされているよりも、だれもが自分の選択に責任(苦悩)をもちながら制約なく生きられるように社会が変わらなければ意味がないと考えます。自分が幸せでも隣の人は苦しんでいるかもしれない。自分だけ幸せであることになんの意味があるんだろうと。

そんなことから太郎さんはソルボンヌ大学で、絵画そっちのけで哲学や民俗学を学びます。

 

そして発見します。

自分を認めさせようとか、社会にどういう役割をはたせるんだろうと、状況を考えたり、成果を計算するのではなく、その瞬間を無目的に、無償で、情熱を持って全存在で爆発する。

それがすべてだと---

 

太郎さんは、パリから開戦直前の日本にもどり、過酷な兵役を終え、平和になった戦後の日本で、アバンギャルドに芸術活動に邁進します。

 

絵画、陶芸、モニュメント、執筆。

「自分の中に毒を持て」も含めて岡本太郎は私たちに語りかけます。特に本書では、組織やシステムに組みされたなかでの安定や成功を正義とする戦後の日本の有様に対しての強い危機感が感じ取れます。

 

 

さて。

太郎さんが亡きあとの社会は。

2000年代を迎え、デジタルテクノロジーの台頭に私たちの多くは夢を抱きました。画一的に組み敷かれた会社という組織に従属しながらひたすら拡大と成功をめざす時代は終焉する。組織での隷属のもと安定した一生を送るという価値観から降りて、選択肢豊かな新しい人生感や価値基準が浸透して、これまでのような型通りの生き方やシステムからの束縛のない多様と寛容に満ちた世界がくると希望を感じました。

けれど今、眼にする世界はそうなっているのか。

結局テクノロジーが残したのは、権威への従属のもと安定と成功という敷かれたシステムをより強固にし、より人間を効率的に管理できる社会ではないか?

 

私自身、組み敷かれたシステムとそれに逆らえない「世間」をまざまざと体感しているところです。

テクノロジーの進歩は、私の仕事を今まさに奪いつつあります。そして何より、それにさからいなどせず受け入れることを「正」としてしまう、権威への隷属の無自覚や諦観。

 

だからこそ、弱き自分を認めながら、誰の目も気にすることなく、やってみようと感じる方向に動けという太郎さんのメッセージが、非常に胸に響いたのです。

 

上手いより下手が楽しいと。

成功ではなく失敗を選べと。

その方が面白いから。

生きていることだからと。

 

権力におもねるな。

苦しみながら自由を求めよ。

己の選択をアバンギャルドに楽しめと。

 

この先、自分が岡本太郎のように生きられるとは思いません。でも、刊行から30年以上の年月を経ても、全く古びない、厳しくあたたかく、熱量が高く激しいのに、現代的なコンプラやポリコレにも高い耐性を備えた普遍的な地球規模の眼差し。いや宇宙ですね。

 

もしかしたら、もしかしたら。

己を見失いながら、大海にたゆたう千切れかけのワカメな私でも、今より少しは太郎さんに近づいて、太郎さんのいう「幸福」ではない「歓喜」をつかめる瞬間がくるかもしれない。

 

私が将来の不安も、保身も、ルサンチマンも脱ぎ捨てて、真に歓喜できる生き方ができるかもしれない。

 

失敗を恐れてはいけない。

むしろ損な道を選ぶ。

それを苦悩のなかで歓喜する。

 

人と比較とかして落ち込むよりも、自由を求める行動を取れ!失う心配などせず開き直れよ、と。

 

 

今の社会だからこそ、岡本太郎の言葉が響く。

本当は太郎さんの願った自由な社会になっていれば良かったのだけど。

だけどくじけるなと。

クヨクヨするなと。

 

だったら、押し寄せる大きな波にくじけそうな自分と闘い、遠回りしながらでも信じたい方向に向かって苦しみながら生きて行った方がいい、きっと。

いつか死ぬまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずはボーっとする_ネガティブな自己分析

最近、ニュースアプリのメルマガで、高齢女性の貧困問題記事が送られてくることが多いです。

なんか落ち込む…でも気になる…

 

将来が不安です。

たぶんこれはもう、生活をともにするパートナーがいない40代以上くらいの庶民派はみんな思うんでしょうかね。

パートナーいても思う時代よね。

 

でも記事読んで、安心するのもあります。

私より大変な人がいる、と。

で、いろいろ記事見てて、その貧困高齢女性たちのその後の明暗を分けるのは、たとえば生活費が1000円しかないとかの時にフードバンクに食べ物もらったり、病気のときに医療費を借りたり、ガチでヤバってなったときに、助けを求める場所があるか、支援団体とつながれるかどうかかなぁという気もしました。

で支援団体と繋がれるかどうか、は結局、自分の貧困や人生を恥ずかしいと思うか、どうか?

なのかなと、今感じています。

 

自分の貧困を恥ずかしい、と思う人は、周りに知られないように振る舞うから、支援とつながる機会が極度に少ない。

だから助かるチャンスに気づかない。

 

あと、みんなアバンギャルドに生きて貧しくなったわけじゃなくて、どちらかというと会社や家族に対して従順にクソ真面目に生きてて、結果損をしている感じもしました。

 

ということは。

もちろんその人それぞれのいろんな状況があるから一概には言えないけど、結局人間を生かすも殺すも、価値観なんじゃないか、と思った次第。

 

お金、仕事、家族、人間関係、いろいろな側面で悩みは誰にでもあって、その時に何を大事にして、何を優先するか。

プライド、見栄、思いやり、合理性、ぬくもり、達観、悟り…

まだまだ悩んでいて、よーし今日は徹底的に、自分の将来のことを考えるぞ!と思うんですが、いざ考えだすと、睡魔に勝てず寝てしまいました。

 

夜早くに眠れるのは心身の健康の基盤として望ましいことだけど、朝早くに目が覚めて、そこからまた悶々と悩み出すので、なんか何もせずボーっとする時間欲しいな…

大切だな…と思います。

 

もしくはですね。

もう結局自分の価値観として、

将来のことなんて、

どーにかなるなるー(=´∀`)人(´∀`=)

という結論が出てしまったのかもしれないです。

気づかないうちに。

 

でもまだ足りないのは足りない気がしてます。

悩み抜くのに疲れてないから。

 

ということで、飽き飽きするまで悩んでいきたいと思います。

まずはボーっとせねば!

 

 

 

 

 

武器になる哲学_現実の人生でめっちゃタメになる哲学

 

 

2023 山口周 角川文庫

 

めちゃくちゃ、むちゃくちゃ。

面白かったです。

 

そっか哲学って、

なぜ私は生きているのか

それは私が考える生き物だから

 

みたいなね。

はあ、そうですか~…としか言えないような

答えになってんだか、なってないんだか、解釈はお任せします…というような、

あるいは、「とんちの限界を探れ!」みたいな。

そんな学問ではないのだ、と。

ちなみに上のやつは「われ思う、故にわれあり」(デカルト)ですね。

 

で、この山口さんの哲学入門書のいいところは、冒頭で山口さんご本人が語るように、この本が「主にビジネスで役立つ哲学」なことです。まあビジネスっていうか、自分たちの日常生活に取り入れられるよというさまざまな思考といいますか。

 

哲学、社会学、心理学、人類学、政治学、などの関連ジャンルを含めて「あの人のあの主張、研究成果は、実際に私たちの人生、生活でこう生かせるよね」という括り方でさまざまな哲学の論考を説明してくれています。

50も項目があるのですが一つひとつは4~5ページの簡潔な構成なので、読みやすいです。

ということで、そのなかで私が感銘を受けたり、気になったものをいくつかだけご紹介します。

以下ネタばれあり。

まず。

50の項目のなかでも、序盤の方で、めちゃくちゃ元気がでたのが

「06 自由からの逃走 エーリッヒ・フロム」

です。

「自由ってほんとにいいものなのか?」ということから入り、ヨーロッパでは16~18世紀に宗教改革ルネサンスを経て、日本では明治維新を経て、封建社会から解放されたとされる歴史ですが、その後、結局、「私たち自由になれましたか?」と。

フロムという社会学者・哲学者はちょうど20世紀を舞台としたドイツの人で、自由どころかナチスという恐ろしい独裁政権を生んでしまったドイツの暗黒時代を生きた人です。そういう背景もあって、「いや封建社会からの解放を望んで辿り着いたのがナチス全体主義)かよ」ということをですね。早い話、突きつけています。でナチズムを支持したのは、いわゆる下層・中流階級の普通の人々で、フロムはその普通の人々のもつ「権威主義的性格」を指摘しています。自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすく、またこういうタイプは権威に従属したがる一方で自分自身も権威になりたがる。という特徴があるそうです。

要は、自由ってのは、相当難しいものだと。なぜなら強烈な孤独と大きな責任が伴うからで、「はい今日からあなた、自由だよ」と言われても人間そうそう馴染めないものなんだなあということですよね。

で、ここまでだと、まあよくあるちょっとした保守的になりがちな大人たちへのお説教な感じなのですが、「じゃあどうしたらいいねん」という部分も書いてあって、そこを読んだとき、私は全身に稲妻が走ったんですよ。(ハードルをあげ切る大げさぶり)

フロムは、個人の成長、幸福を実現するためには、

自分自身を分離せず、自分自身でモノを考えたり、感じたり、話したりすることが重要であること、何よりも不可欠なのは「自分自身であること」について、勇気と強さを持ち、自我を徹底的に肯定することだ、と。

もうこの文章以上の何も出ないし、すぐにマーカーで引きましたよ。線。

証拠写真

ちょっと汚いけど、、、



で、すぐに上司に出す企画書を作り出しました。もうよく分からんけど、とにかく「現状を何もせずに受け入れる」のはやめようと。

まあそんなこんなで、前回書いた部署異動もろもろの出来事で、非常に暗い気持ちだったんですが、一気に「自分大好き」に気持ちがシフトしたという。

自分大好き、とはちょっと違うかもですね。

私は、自分がこんな自分自身であるから、損をしている。評価されない。と思っていたんですが、そうではなくて、「自分自身なんかまったく出してない」ということに気づいたんですね。だから、評価もくそも、まずは自分を出す必要があると。

「自分自身でいること」に勇気とか強さが備わっているかどうかも、よく分からないけど、結局はそれも思い込みというか、オプションというか、自分自身がこれが勇気だ、強さだ、私だ、と思えればいいわけで、自分が傷ついたり恥かいたりするだけで、誰にも迷惑もかけないし。ということに気づいたのです。

エーリッヒフロム。

ありがとう。(山口さんも)

 

このフロムの項目はすごくインパクトあったのですが、それ以外にもマーカーを引いたとこがあります。

「04 ルサンチマン フリードリッヒ・ニーチェ

ここを読んで自分のなかにある「ルサンチマン」が怖くなりました。

ルサンチマンっていわゆる、やっかみ、妬みを複雑な感情で包み込んだものというか、

ニーチェがいうには、人は「ルサンチマン」にとらわれた時の、危険な2つの反応があるらしいです。

ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属・服従する

ルサンチマンの原因となる価値基準を転倒させる

 

①は、たとえば高級ブランドのバッグを自慢する友達がうらやましくて、本当に欲しいわけではないけれど買っちゃう人。それも友達よりちょっといいやつを。

②は自分に劣等感を感じさせる強い他者を否定することで自己肯定する人。

この②はどういうことかというと、たとえば、わざわざ「高級フレンチVSサイゼリヤ」という図式を作ってサイゼリヤを選ぶのは、「サイゼリヤが好き」なのではなく、高級フレンチに行く=成功者に対するルサンチマンがあって、価値を逆転させることで自分の方が優位だと示したいから。

 

②のひねくれたやらしいタイプは私のことだと思って、ここの章を読むの苦々しい気持ちでいっぱいでした(;´Д`)

こういうマウント返ししてしまうというか、「モノの本質をわかってねーぜ」みたいな受け取り方で確かにルサンチマンの溜飲を下げること、よくあるなあと。

で、②の転倒パターンの人が自分のルサンチマンに対して、じゃあどうすればいいかというと、要は好きならば好きだけで、比較せんでいいやないの、と。

 

あと、②のルサンチマンは「じゃあフランス革命とかマルクスも全部、最終的にルサンチマンなわけ?」という語弊にもつながるので、なんでもルサンチマンで済ますのもどうかな、というのも山口さんは語っていらっしゃいます。

ただ、ルサンチマンは、非常に人の心をつかみやすくて、ビジネスとしては大いに利用できるわけで、消費活動ってほぼほぼこういうルサンチマンによって拡大してるんだと受け取れますよと。

自分はルサンチマンで消費するのか?それともルサンチマンを利用しビジネスするのか?

そう考えるとルサンチマンって、人間くさくてかわいらしいけど、でもめんどくさいところもあるから「少し距離を置いてたまにあう友達」くらいの感覚がよいのかなあと思います。

 

さてさて、最後に、私がもう一つマーカー引いたのがありまして。

「08 アンガージュマン ジャン・ポール・サルトル

です。

サルトルが提唱した「実存主義」は、この世界を創っているのは私たちなのだから、自分にも世界にも、自分は主体的に関わり、責任をもつべきだということなのですが、フロム同様、戦争だらけの20世紀を生きたサルトルは、その例として「戦争」をあげています。

私たちは戦争を外側からもたらされた惨事のように扱いますが、戦争に反対することも、兵役を拒否することもできたのに、それをせずに受け入れたのは自分自身じゃないか。だったら「戦争」は自分の選択肢なのだと。

そう言われたらぐうの音もでないのですが、私がサルトルアンガージュマンに感銘をうけたのは、そういう耳の痛い話ととらえたからではありません。

本来私たちは、自分の行動は「自由」であるのに、社会や組織に命じられた通りに行動する「クソ真面目な精神」を発揮してしまうとサルトルは指摘しました。

私たちの考える「成功」はいわゆる社会や組織に命じられるままに行動し、成果をあげることを指しているけれども、サルトルは「そんなものは何の意味もない」と言います。

自由であるということは、社会や組織が望ましいと考えるものを手に入れることではなく、選択するということを自分自身で決定することだ、とサルトルは指摘します。

これを私なりに解釈すると、できるだけアバンギャルドな道を選べということなのかなと。でも「自分で選択する」ということを自由の大前提におくことは、とても大事な視点だと思うのです。

私たちが、心から自分の意志で選択したものは、実は限られていて、親や誰かの助言やら、バイアスやら、無知や無自覚やら、臆病な保身から、そうそうできるものではない。

でも死ぬときに「自分で選んだ人生だった」と思いたい。

自由を求め突きつけられる孤独にも、責任にも耐えられる気はしないけれども。

そしてですね。

この本ではもっと後の章になるのですが、このサルトル実存主義をケチョンケチョンにしちゃったレヴィ・ストロースの「構造主義」も出てきます。

構造主義といえば、内田樹氏です。

内田樹師匠のエッセイは何冊か読んでいるのですが、構造主義をど真ん中にしたものはひとつも読んだことがなかったので、正直、全然わかっていない。

この本でも分かりませんでした。レヴィ・ストロースの項目は、「ブリコラージュ」をテーマにしているのですが、ブリコラージュとは、「いつ役に立つかわからないけど、とりあえず袋にいれておこう」という非予定調和の能力を指すそうです。

山口さんも本書で紹介していますが、サルトルがいうところの実存主義しかり、それはこの世界が「進化に根差している」という基点に立っていて、「未開の地より西洋が優れている」という優越感に結び付いている。対して構造主義は、世界は進化とかで前に進むものでなく、西洋だろうと未開の地だろうとそこに構造としてまずあるのだと。未開呼ばわりしてる時点で西洋視点ですしね。

構造主義はいわゆる「西洋がいちばんエライ」という西洋人の考えのアンチテーゼの要素があって、予定調和な「予測した目的のためのイノベーション」に対するアンチテーゼなんだと。

つまり、「役に立つ」とか「合理性」とか「生産性」とかそういう西洋的な価値観ではなく、「なんの役に立つか分からないけど、なんかある気がする」というざっくりとしたものが、自分や社会に結構な影響を与えたりするよと。

うーん、この世は結構もっとゆるふわっとした感じだよ?ってことかなあ。

でもやっぱりいまいち構造主義がつかめないので、また別途、何かしら読んでみようかしらと思います。

ということで、もっといっぱい発見や面白いものがあるのですが、特にマーカーを引きたくなったものをご紹介しました。

 

実は50の項目のなかには、「いやどういうこと?」というのもあったりしました。特に後半。「同質性」から生まれる差別を扱ったモスコヴィッシの項目とか、監視の圧力に言及したミシェル・フーコーの項目とか、正直、飛躍しすぎている気もしました。これはたぶん、内容の複雑さに対して、割いていいページ数が足りてない、言葉足らず感からじゃないかと思います。

 

でも「弁証法」とか「公正世界仮説」とか「悪魔の代弁者」とか「ナッシュ均衡」とかほとんど面白かったです。

あ、ナチスドイツのユダヤ人の大量移送の指揮を執ったアドルフ・アイヒマンの裁判記録「イスラエルアイヒマン」の作者で哲学者のハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」なんかは、目の覚める思いでした。フロムに似ているのですが、要は「悪って責任の所在を分からなくすることでフツーの人がするんだよ」というね。会社組織でも通じるテーゼ。

あ、「神の見えざる手」のアダム・スミスにもめっちゃ線引いてました。

私たちは「最適」になりたいのか、「満足」したいのか。ヒューリスティック(必ずしも正しくはないが直感で見つける経験則とか発見方法)な解を見つける柔軟性って大事だよねってやつです。

 

ということで、哲学初心者には「へー」「ほー」が盛りだくさんなので、盛りだくさんすぎて、一読では脳にインプットが行きわたらないので、何回も繰り返し読もうと思います。心が迷った時のバイブルとして。

巻末に「読みやすい哲学書」ガイドも付けてくれているので、いつかそれも読みたいな(∩´∀`)∩

 

 

 

 

 

 

 

いっちゃんあかんやつになってます_ネガティブな自己分析シリーズ

最近の私はとにかく「自分がない」気がしています。

どこからともなく不安の波が押し寄せて、右からの荒波と、左からの荒波とに、ザパァンザパァンゆられてるだけの千切れた昆布。もうちぎれまくって本体がなくなりそう。

 

こーゆー時はとにかくネガティブな段階から自己分析するのが、大切なのです。

なぜなら、どうしたって前向きになれないならとことん落ちて、開き直ることで前に進んできた気がするから。なんとなく。

 

ということで、まず、何が不安なんか、ですね。

おのれは。

 

それは明白。

将来なんです。

将来が不安。つまり子どもの学費。老後。

少子高齢時代の先の見えなさ。

流行りの積み立てNISAとか投資信託とかに乗っかれていない置いてけぼり感。

そもそも資産運用に向いていない性格。

てか資産なんかないわけで。

 

だからそんなこんなの将来の不安解消には、貯めるより、稼ぐチカラが必要だなと、思うんですが、この稼ぐチカラももっと自信がないのです。

 

そこにきて、部署異動の話が出ており、それがまあ全然私の畑違いの業務というか、お払い箱的な?気がする仕事。

 

もう会社を辞めた方がいいのか、生活のために我慢すべきか、何が正解なのかも全く判断がつかないし、さらに実は密かに転職活動しているのですが、ある会社の面接で思った以上に評価してくれていい感触だったんですが、働き方の面で折り合いがついてなくて、これまたどうしたものかと。

私は残業ができないし(これはもう絶対譲れないので)、できればリモートワークがよいのですが、なかなかもう、リモートワークは減ってきてるようです。

 

リモートワーク、ラッシュに乗らなくていいし、仕事終わったらすぐ家事できるし、ラクチンでいいんだけどなー。

 

でもいまこれを書いてて、まあまあ贅沢な悩みなような気もしてきました。

 

だけど、もう50になるというのに、本当に自信がないのです。ぐずぐずしてても毎年しっかり老いてるわけで、体力の衰えへの焦りもあります。

 

そうか、不安は自信のなさからきているのかも。

 

私に何ができるんだろう。

求人の応募資格欄みてたら、足りないスキルばかりで、なんにもできない気がしてくるし、じゃあ一から学ばせてください〜ってゆースタンスが許されるのはせいぜい30前半までだろうし、残業もできないし、その割に年収にむちゃくちゃこだわってしまうのは、子どもの進学費用を貯めないとダメだから。

 

書いててただのわがままな気もしてきました。

何かを得るには我慢も必要。

よく聞くフレーズです。

 

でも心からそう思えないといいますか、どれを優先しても、後悔しそうな気がして、なんにも動けないのです。

そしたら周りが波風立てて、そこで踏ん張る足場ができぬまま、消えそうになりながらかろうじてゆーらゆーら揺られている感じです。

 

もしかしたら、今は流されるままでもいいのか?

 

今ってなんなんだ?

 

何の選択を私は迫られているんだ?

 

私はとにかく、自分の選択をこれで良かったと思いたいです。

だけど、良かったと思えるかどうか、分からないじゃないですか。

もしかしたら、間違えてしまうかもしれないじゃないですか。

 

自分で選ぶ人生こそが「自分を生きる」ことだとは思います。

自分で選択して判断すること。

 

でもいざその必要に迫られたとき、なんにも選べないし決断できやしない。

動けもしない。

 

 

私は何かを見逃しているのでしようか。

ただ人生とは、これが正解だと自信持って進めるわけではないのだとしたら、頼るべきものは何か?

 

よく考える、しかない。

ゆられながらも、振り回されず、どうしたら自分が納得できるのか?

 

納得ポイントはどこなのか?

 

ということで、とりあえず

答え探しに哲学書でも読もうかな…

 

 

 

…なんにしても離婚に関しては全然迷わなかったのになぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来世紀ブラジル_人間ってネットにはないことが8割

 

1985年 イギリス 監督テリーギリアム

 

AIの普及や技術のニュースなどを見るたびに、最近私が思い出すのがこの映画です。

 

コンピュータによって徹底管理されたディストピアを描く作品で、初見はいつ頃かなあ。

大学生くらいかなぁ。20代とかの若い頃だったとは思います。

 

公開は1985年。当時は小学生だったのでリアタイでは全然知らないです。

 

が、今、AIやらchatGPTやらが、実際に自分に関わりを持つようになってですね。

私はそれ自体が悪いことだとか良いことだとかはあまり関心なくて、ただまあもうそうなるんだろうなあという感覚ではあったんですが、ここ最近急にですね。

 

こわ!と思うようになりました。

 

それは、chatGPTで作った文章が支離滅裂だったとか、そんなバカな!な虚偽の歴史を語るとか、そんなことでなくて、いやそれも真偽を別ソースから探せない世代が増える将来的には怖い話だけれども、使途不明金が発覚したからです。

 

…まあ子どもが知らぬ間に使ってたんですけど。

怖いのは、いつのまにか金を使ってしまえるキャリア決済の仕組みおよびセキュリティ感覚の希薄さと、何よりそこに「人がいない」ことです。

 

アップルに問い合わせたら、電話に出ないということはなくて難しい用語などは使わずにいろいろ調べてくれたんですね。

だけども、じゃあ電話番号が漏れたりした場合に第三者からの引き落としをどう防げばいいですか?と聞いた時に、

  • キャリア決済に制限かける
  • 電話番号をかえる

という提案をされました。さらに暗証番号とかもちろん変えて当然として。

いやこれ自体も適切な回答でなんら問題はありません。

でもなんかモヤモヤしてて、未来世紀ブラジルのテーマ音楽が頭になりだしたんです。

 

ブラジィール♩と…

 

誰もが知るアクアレーラ・ド・ブラジル(ブラジルの水彩画)ですね。おそらくこの映画のテーマとはかなり離れた極地から生み出されただろうあの陽気なサンバの名曲。

 

で、最近chatGPTとかですね。触れる機会があって、ああそうかと。

 

どこにいっても個人情報を要求されることが怖いんだと。

 

個人情報の漏洩がたまにニュースになりますが、もうなんか、それはもはやあって当然くらいな気もするんです。だって、システムとかアプリの開発って最初から完成したものなんかほぼなくて、開発側はバージョン上げていくんですね。

でもユーザーはいわば未完成なものを使ってるけれども、そんなことはもはや問題視せずにいて、もう世の中そんな感じなんですよ。

子どもの世代なんかはもっとそう。

だからそれよりも私が怖いのは、

何をやるにしても

ネットだと個人情報を求められる

ってことです。

数々のID、数々のパスワード、数々のメールアドレス、数々のクレジットカード、数々の生年月日や性別や居住地域、家族構成、収入。その登録。

 

どんどんそれが増えていく。

 

そしていつのまにか、それがないと、なんにもできなくなるんです。

 

物を買うのはもちろん、

サブスクやらSNSなどやら。

公共料金の支払いやら。

困ったときの問い合わせやら。

 

はたと、自分の現状をみて、もはやネットに支配されている。

AmazonGoogleやインスタやサブスクが2割程度からいつの間にか8割くらいに私の日々を占めてきているなと。

 

だから未来世紀ブラジルの管理社会を今、為政者が実現しようと思えばできそうだなと。

 

個人情報さえ掴めば、人を操れますよね。

 

で。です。

これを最早当たり前になってなんにも感じないことが一番怖いのかもしれないので、我に返らねばとなんとなく思っています。

 

もう私には、私自身の人生にデジタルが生み出すライフスタイルをなくすことはできません。

でも、じゃあ本当の私がそこにいるかというと。

生身の私は日々、朝ご飯を食べて、歯医者に行って何故か焼き芋の匂いの充満する歯医者さんの待合室に座って順番を待ち、帰りにキャベツが高かったからと別のスーパーにいき100g89円の鶏むね肉に喜んでキャベツではなく白菜を買い、子どもとyoutubeみて笑って、風呂に入って、朝はお布団がぬくすぎて出られなくなっています。

 

そーゆーのは、ネットは知らんですよね?

私が書かない限りは。

そして書かないことがほとんどで。

私のほとんどを生成するネットやアプリにはない生きた私を、私は大切にしなければいかんなあと。

ネットやアプリに書き込んだ個人情報にはない、瑣末な自分の日々のおかしみを、なくしては、いけない。

楽しいことも辛いことも。

 

それを無くさないことが、優先することが、管理社会へのアンチテーゼなんではないかと。

未来世紀ブラジルにならないための策なんではないかと。

生身の人間ではない個人情報の集大成でしかない

おまえさんに何が分かるんだ?と。

 

ということで、気軽になんでもほいほいダウンロードして登録しないように気をつけたいと思います。特にポイ活。

ドラッグストアでアプリ探して開くの面倒だし。

 

 

✳︎ちなみに映画の感想ですが、独特。

尺が長いし、テリーギリアムの世界って急にどした?みたいな虚実混同スタイルでもあるし、80年代の映像なので、なんだこれ?って思う人もいるとは思うんですが、いや私もその1人ですが、この映画のディテールの一つひとつの不可思議さが割と明確に残像として残っていて、そして何より、80年代にこの作品を作る先見性ですね。

私が2020年代に、ぼんやり考え出したことを40年前にすでに、ほらみろよ、言わんこっちゃないと言わんばかりの、予知夢的な感じを2時間かけて教えてくれます。ブラックコメディとかシュールとか超えてなんかもう頭がカオス。

で、こーゆー映画を作るに至ったテリーや、製作会社とかね、そーゆーのがやっぱり奇跡的だと思うし、訳の分からないものにお金をかけるということ自体が私はステキなことだと思うし、無くしてはならない生身の人間ゆえの偶発性やダイナミズムだとも思うので、最終的に、だから映画は面白いと伝えたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

実録!離婚調停①弁護士なしで調停したよ_ネガティブな自己分析シリーズ

今回は、離婚調停のために家庭裁判所に行ってきたので、そこで学んだことをご紹介したいと思います。

 

行く前から気が重くて仕方なかったのですが、行った結果。

 

ますます気が重くなりました。

 

ああ。調停よ。いったいお前に何の意味があった・・・

今回は初めての離婚の財産分与調停について、記録しときたいと思います。

 

私が調停にいたったのは、夫と離婚の財産分与面で折り合いがつかなかったからなのですが、調停って、申し立てると調停委員が夫婦の間に立ってもめごとの調整を図ってくれるというウワサじゃないですか。ウワサというかそれが調停の存在意義というか、そういう役目を負う機関なはずです。確か。

で、弁護士はお金がかかるのでつけていません。まあこれが後から「弁護士に頼めばよかった・・・!」ということが何度も起こってしまうのですが、でも今のところ、付けずでもよかったのかもとも思います。まだ結果でてないけど。

 

とりあえず1回目の調停では、それぞれの財産や収入を開示して、「ほなどこで折り合いつける?」というのを探っていくのだと思っていました。

落としどころを当事者同士じゃ模索できなかった人たちが調停委員さんに間に立ってもらって、互いの話を聞いて「じゃあこういうのはどうですか?」みたいにすすめるという感じで思っておりました。

まあそこは確かにその通りだったのですが、その調停委員さんが折り合わせるための中身がですね。思っていたのとなんだか違いました。

 

まず、私側の財産分与の不服に対して「普通はこうしますよ」と。

で養育費に関して「うちの家裁ではね、通常こうしてますよ」と。

 

なんだろう。

調停委員さんからのお言葉は、「普通は」「うちの家裁では」ばかりで、法律の根拠の部分がよく分からないのです。

なんというか、離婚後の経済事情を左右する大事な決断内容に対して「普通とかそちらの事情は知らんがな」とね、感じてしまうんですよね。

切羽詰まった身としては。

 

そして、これは私の想い過ごしかもですが。

早く終わらせたそうな雰囲気を出してくるといいますか。

だから「普通」の型にはめようとするのか?と邪推。

 

さらにです。これが一番「どうなん?」と思ったことなのですが、

「夫さんがこの件に関してこういう要望があるので、あなたにLINEを送ると言っていますので、お返事してください」と。

え!

夫婦間のコミュニケーションでヤバイことなってるから調停委員さん挟んでるのに!

なぜ勝手にLINEでやりとりOKみたいなことに!!

と。

でですね(夫要望に対して)

「それはできません」

と言ったら

「え」

と。男性女性のお二人とも。(調停員は男女ペアなのです)

「じゃあ、ご自身で夫さんにお断りのお返事してください」とな。

いやだから、そういうお断りとかして、感情的な攻撃的な言葉や態度が折り重なって、心が疲弊して、話し合いが進まず、これじゃラチあかん!となって調停をお願いした次第なのです。

 

なのに、また結局自分たちでLINEしあうっていうのが調停ってことなの??と。

 

なんというか調停委員さん、、人と人をつなぐの。。下手じゃない?

 

いや私が世間知らずなだけなのか?

調停は法律に長けた人に介在してもらうんだよね?

それより実は「見合いを勧める親戚のおじおば」の離婚バージョンみたいな感じに進むのか?

当事者間で話せばなんとかなるって結論なの?

 

なのに、本来の意味すら私は知らず、勝手に「法の名のもとで当事者間をとりなして公平な取り決めが促進されるもの」と思い込んでいただけなのか?

 

ぬぐい切れない不安が募り、なんだか混乱してきたんです。

 

とりあえず「調停委員」ぐぐってみました。

 

そしたらいろんなことが後から分かりました。ダイジェストに驚いた2つ。

 

・調停委員さんは法律の専門家ばかりではなく、社会的地位が高かったり社会的な信頼ある立場の普通の人も多い(定年退職した校長先生だとか、地域の自治体の役員やっていただとか、そういう社会的信頼を得ている一般人)。

・業務委託的に依頼されていて、報酬はさほど多くない(ボランティア感覚)

調停委員 | 裁判所

 

つまり調停委員さんは、法律のプロではなくて、一般の方が多いらしい上に、法律に疎い人もいるって話で。

まさかの!

ここは明治時代の村役場か!

 

なかにはですね、「女性が家庭の仕事をするのは昔から当然のこと」みたいなことを言われたり、差別的なことを言われたことがあるなど、個人ブログにはあったりして。

でも…ありそうやんこれは本気で。

と思ってしまえる自分の経験からの実感。

 

少なくとも、私の場合は、期待していた「シングルマザー予備軍に優しく寄り添う感じのステキな調停委員さん」ではないことは確かでした。

 

なので「夫婦間ではラチあかんし調停してみよっかな」と軽く思っている方(軽くするものでもないだろうけど)、ぜひ再考ください。

 

あと、弁護士!

本当なら調停についてきてほしいところですが、お金がかかります。

だから30分5500円でもいいです。

1回弁護士には相談しておきましょう。

法テラスに電話したら、弁護士協会を紹介してもらえます。

弁護士協会で当番の弁護士さんが的確な調停での対応を答えてくれます。

「普通は」とかではなく、ちゃんと法律上でのお話をしてくれます。

何もないよりは、1回だけの相談でもいいです。

私は1回相談しといて本当によかったです。

こんなにありがたいとは考えもしませんでしたが~

※収入次第では確か無料で相談ができます(年収いくら以下なら無料とかあるのですが、具体的な上限年収を忘れました。地域によっても違うかもしれませんので法テラスで聞いてみてください)。

 

でもまだ1回目。

次は次でどう出てくるのか、もうなんだか逆に楽しみです。

 

新しい生き方に向けて!やってみよう離婚★まずは困った、金がない_ネガティブな自己分析シリーズ

 

腰痛をきっかけに家事ができなくなり、さまざまな夫婦の亀裂が浮き彫りになって、上野千鶴子的「ありのままの私で生きる!」目覚めと、加齢による不調の焦りから離婚を口走ってもた…弱き自分よ…という自己分析からほぼ1年半!

 

えー

気づかぬうちに1年以上。

時が過ぎゆくのってめっぽう早いですね。

誰も気にしていないとは思いますが、あれから離婚問題がどうなったか、今何をめざしたいのかを自分のために記録したいと思います。

 

あれから、離婚を前提にお付き合いというか別居しています。

夫が家を出て18歳の上の子も自身の選択で一緒についていきました。

✳︎ちなみに夫と上の子は我が家からチャリで10分かからない所に住んでいます。

 

もう一年前になりますが、離れた当時はつきものが落ちたかのように、人生がポジティブに感じました。

これ強がりじゃないのです。でもじゃあ何が変わったかって、本当に気持ちなだけです。

「私は誰にも支配されていないし、体裁を気にせずに生きればいいんだ」と思えたとたん、生きる気力がわいてきたといいますか。

 

そんな選択肢もあったんだ。

自分で生きていけばいいだけなんだ。

と。

 

で、1年経って最近は?というと、

お金の心配ばかりしています。

これぞザリアル。

 

家計簿つけだしたら、だいぶヤバいことに気づきました。

教育費、老後。

教育費、老後。

教育費、老後。

そのループ。

要は先のための貯蓄がないのです。

財産分与で査定額の半分を夫に渡して現在のままの住まいを手に入れたので、預金もすっからかんだし、児童扶養手当みたいな行政からのひとり親補助金も収入的にギリギリなさそうだし、出費にも無頓着だったから、なんとなくピンチです。

ていうか、もっといろいろ考えておけば良かったよ…

無頓着すぎだよ自分…。

 

 

で不安になっていろいろ調べたら、

下の子を大学に行けるようにしておくとしたら、4年生大学って私立だと400万円くらいかかるらしいし(国公立でも200万くらい)、60歳の定年退職時の単身者の平均預金額は800万円くらいだそうで、それでも足りないからパートしたりして65歳までをやりすごす必要があり、その後支給されるはずの年金も生活のすべてをまかなえるほどにはもらえない時代到来なので、NISAやらiDeCoやら信託やら利回りがよいもので少しでも蓄えを増やす賢い投資をしないといけない。

 

つまり、今後10年くらい以内で必要になる1200万円がない上に、その先の老後の資金も全くないって話なんだから、もうこれ路頭に迷うだけな人生やん(=´∀`)人(´∀`=)

 

などなど先を心配しだすと夜も眠れません。

 

私自身もですが、いろんな社会保障の充実ぶりが日本の良さであるとは思うんですが、少子高齢社会に突入した今、そしてこの先一体、この国はどうなるんだろう。

 

とりあえず、あとしばらくは家計簿を見つめ続けることにします。

 

 

✳︎娘について

元々口うるさい母はずうっとうっとおしがられていたんですが、別居してしばらく経つと、今度はパパと揉めてばかりのようで、何度かうちにも家出?してきました。

 

もう18だけどまだまだメンタル的自立には程遠い彼女は、一体どこに向かうのか。上の子が父との暮らしを選んだ当初は悲しくて仕方なかったけど、ていうか、娘と信頼関係が築けなかった現実をなかなか受け入れられなかったけど、でも今はいろんな意味で一度離れてみて良かったんだと思います。

さびしんぼうがいつか自分の足で立てるようにゆっくり見守っていければなぁ。

 

 

 

 

 

 

すばらしき世界_すばらしき役所広司さん

 

すばらしき世界 2021 西川美和監督

 

久しぶりに邦画を観たからか、役所広司さんだからか、めちゃくちゃ良くて、泣きました。

 

殺人の罪で13年間の刑期を終えて出所した男の社会復帰の物語です。

シリアスとコメディのバランスが絶妙。

役所広司もだし、橋爪功、仲野太賀、北村有起哉、六角精児。敬称略。

絶妙な塩梅でできる演者たちが揃い踏み。

梶芽衣子さんも良いです。

少しネタバレあり

 

復帰も何も元反社だから、いわば社会経験ゼロといいますか、唯一できるのはムショで覚えたミシンでの縫製で、そんな内職は見つからないし、運転免許も切れてるし、短期ですぐ手が出ちゃうしでね。

でも弁護士さんも奥さんも、生活保護の担当さんも取材したいというライターも、スーパーの店長もみんないい人たちで、そういった関わる人たちに少しずつ支えられて、なんとかかんとかゆっくり社会復帰をめざしていきます。

 

だけど世間の理解はなかなかないし、身体も悪いし、免許もとれないし、思うようにはいかなくて、一回もうダメだと反社の兄さんに頼るんですね。で反社の兄さんは歓待してくれて世間よりよっぽど優しくて。

あわやヤクザの世界に戻るのかと思いきやギリギリのところで、カタギの世界との繋がりを取り戻します。

 

重いテーマですが、人が立場や過去にとらわれず人を信じる姿を描いていて、これもまた一つのリアルだと私は思いました。

 

キモは、ヤクザよりも空が広く見えるというカタギの世界でも、現実には理不尽がたくさんあって、そこにどう向き合うか。

 

すばらしき世界はどっちなのか

はたまたそんなものは結局存在しないのか

 

西川美和さんの映画は鶴瓶師匠の「ディアドクター」が印象的でしたが、主人公が憎めなくておかしみがあるあたりが共通点でしょうか。

山田洋次的な感じもします。

ヨーロッパ的な雰囲気もあるかも。

はみ出したりしくじったりした人をふわ〜っと優しく包み込む印象。

 

 

 

 

 

夫と暴力とこの世の成り立ちのこと_ネガティブな自己分析シリーズ

✳︎夫への悪口が過ぎたので反省し加筆修正しました(*´ω`*)とはいえ書いてますのでそーゆーのがしんどい方は読まないでください。

 

また失敗しました。

別居中の夫です。

 

詳しくは複雑なので省きますが、子どものゲーム課金が話題の昨今ですが、似たようなことが我が家で起こり、ナゾの引き落としでもめています。

子どものことだからと夫に電話して直接話したけど、結果なんにも前向きな受け取り方をせず、自分の損失ばかり数えてます。(ように見える)

あげくに、俺のやり方にケチをつけるな

あんたは子どもを俺に押し付けて苦労してないから知らん

知らんくせに口出しすな

 

と、最終怒鳴り出しました。

 

てゆーか

こんなに久しぶりだけどやっぱり冷静に話せないんですよねえ。

そして夫は怒鳴りだすともう言葉が届かないし、私もうまく言葉が出ないのです。

ということで

理解できない人の

理解できない行動を

引き起こすネタを作ってしまいました。

できる限り関わるべきではなかったです。

 

しかし…なんでこうも私は怒鳴られると言葉がでなくなるのか。まあそれが向こうの望む通りの展開なんでしょうが。びびらせるという。

 

 

それは結局彼に恐怖を感じるからなんですよね。

つまり怖いから。肉体的にも腕力でも自分より圧倒的であると認識したら、人間こんなに萎縮してしまうんだなと。

 

だって最終勝てないですものね。

勝ててないですよ。いつだって。

一度たりとも。

素手では。

 

ただうちのお父さんとも怒鳴りあったことあるけど、こんな怖くなかったです。

殴られたことはないからか。

殴り合っても勝てそうだからか(笑)

やっぱり1回でも手を出す奴は信用ならんのか。

夫のことは心の底から信じてないからか。

何かが気に食わなくてもめるたびに「引きこもり」「無視」「離婚する」を持ち出されてきたからか。ドタキャンされてばかりいたからか。

 

家庭内にしろ家庭外にしろこの世に暴力というものは存在していて、その圧倒的な支配力を直接感じることで、惨めで救いのない気持ちになってしまうのです。

 

その結果私はあらゆる「暴力」的なものに、どんどん嫌悪感が募り、恐れと憎しみと拒絶と屈辱感と

社会への絶望

を感じるのです。

 

こんなんじゃ離れた意味がない。

 

そこでです。一つこのガクブルのメンタルをリセットするために、落ち着きを取り戻す思考作りのトレーニングとして、本当にこの世は絶望しかないのか。「この世の成り立ち」をおさらいしてみることにします。

 

この世の成り立ち。つまり人類はですね、なぜに自然界の「強いものが支配する」掟から脱して、法治国家を編み出したのか。

だって、いくら私が軟弱だとしても、今の社会は暴力をノーと捉えることが常識ではありますよね。

一応。

 

歴史的な視点でみると、長い人類史のなかでそれはごく最近の変化だとしても。

 

ダーウィンがどう見るか知らないけれど、もしこの暴力OK→暴力NOの変化が進化だとしたら、肉体的、力的支配の掟が今は許されないことだとしたら、なぜ人間はその道を選んだのか。

 

女性が不利な世界はまだまだ続いてはいるけれども、そういうことを抜きにしてそもそも神様は男性に力を与えて狩りをさせたし、女性には子育てをさせた、という人類史があるなかで、どうしてその自然界の掟から人類だけ「社会🟰支配構造の変化」を作ることになったのか。

なぜ人類はそれで他の生物より圧倒的に繁栄できたのか。

 

それは人類が集団行動をするようになったからでしょう。

暴力では数をまとめきれないから。

肉体的能力より頭脳の方が発達して

支配構造や社会的構造を成立させるに優ったから。

要は強いよりかしこいことの方が、より多数に対する支配力や統率力を発揮できたから。

 

むちゃくちゃ極端に単純化して言えばですが。

だとしたらです。

 

暴力に対して私ができることは

賢くあること。

賢くあるとはどういうことかというと

この世のあらゆるものを利用して

暴力の支配から逃れること。

 

そのためには知ること、行動することが大切。

 

あとね、「サピエンス全史」の上巻しか読んでないけど、そこで書いてあることで、おお!と私が思ったのは、この人類の集団行動には、親しみとか思いやりの行動があって、それが集団化をより強めたのではないなと。

つまり、人類の強さは、他者への親しみを伝える行為だとか思いやりだというわけですよね。

 



だとしたら、暴力に勝る強さは思いやり。

うーん考えさせられますけど、めちゃくちゃ救いがあります。

要は思いやりを感じないと人は集団ではいられない。暴力や恐怖では強固な集団行動はできないのです。

 

でも危機に直面したときに取るべき行動となると、それはもう草食動物と同じく、足早にトンズラすることだと思います。

暴力が届かない世界まで走って逃げろ!と。

そして暴力から離れた世界で、平和な世界で知り学び行動する。

 

つまり人類の進化の歴史を個人の歴史として歩む。

 

これまでは

何故にすぐ手が出るんだろう

すぐ怒鳴りだして威圧するんだろう

と思っていたんですが

人類史にあてはめると

そもそも生物の多くがそうやって生きながらえてきているのだから

そこに明確で個人的な理由はないのかもしれません。

ただプリミティブなだけで。

 

歳を取ったら昔を懐かしがるといいますが、最近の私は加齢に反比例してプリミティブを懐かしがる風潮が苦手になりだしました。

だって「昔」って女性にとっては理不尽だし不利なことの多いことったらないわけで。

それはともかく、男性のなかでも分かりやすい順列がつけられるのが肉体的支配力なんですが、その力がプリミティブを代表する一つであることが確かな限り、そうなるよなと。

 

だから、

暴力を嫌悪する思考は間違ってないし

逃避して忌避して遠ざける行動は正解。

 

むしろ自分が弱い立場だと早々に認識して

そうすべきですよね。

うん。

夫への接触は軟弱な私のおバカな行動だったと深く反省。

 

で人類史に話を戻しますが、そうは言っても人類はね、まだ暴力を全然拒絶はしていません。暴力に知恵を授けてより大規模に戦争🟰暴力を使って支配権を争っています。強い国が弱い国へ。

その中で結局酷い目にあうのは小さきものたち。

 

そう、社会は暴力をNOと謳っても、平和を掲げていても、現実にはここかしこに存在します。

 

一方で暴力にあらがう人もいます。

思いやりだって一人ひとりの小さなものを積み重ねたら暴力よりもきっとある。

人を想うことで始まるコミュ力や集団力で平和を勝ち取る歴史もあります。

 

逃げ足の力。

数の力。

対話の力。

そして「支配構造」からはみ出て「力」に頼らない価値観。考え方。

思いやることで生まれる人とのつながり。

 

自分を守る武器を持たないと。

個人的には

はみでる価値観→ここ伸ばしたい!

 

自分は暴力ではないものをどれだけ見つけることができるか?

自分は何を見て何を信じるのか?

 

何よりまず、逃げる。

そして別のものを作っていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画スパイダーマン_お正月の深夜テレビ放送から3シリーズを通してみてみる

お正月の深夜のテレビ放送の映画を見る。というのが私のお正月スタイルのひとつです。

 

tsubatarou.hatenablog.com

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そんなこんなで2024年のお正月、深夜にやっていたスパイダーマン

テレビでは初代3部作とアメイジングシリーズの2つを連夜やっていて、私は過去に初代の第一作は何回も観ていたので、飛ばし。初代の2からアメイジングシリーズまでを録画して観ました。

でもスパイダーマンの映画は、マーベル版シリーズもあります。それも観ないとスパイダーマンは語れない?ということでマーベル版は追加でプライムで視聴。

 

一番最初は、サム・ライミ監督のスパイダーマン3部作ですね。トビーマグワイア主演。

初出は2004年。

 

次にアンドリューガーフィールドが主演したアメイジングスパイダーマン。2012年からの2部作。エマストーンも出ています。マーク・ウェブ監督。

 

 

で一番新しいのがマーベル(MCU)が製作したスパイダーマン ホームカミングをはじめとする3部作。トムホランドがピーターパーカー(スパイダーマンの少年)役で2017年公開。

21年に公開された「ノーウェイホーム」は、アマゾンプライムでまだ有料なので見ていません。400円を出すか出さないか迷ったあげく。

 

 

これを延々と見続けたのは、スパイダーマン通になりたかったわけでは全然ないのですが、これだけシリーズ化するってやっぱり魅力があるってことで、その魅力を知りたいと思った次第です。

 

でも正直、テレビで正月やった2シリーズはすでに過去に全部観ていたことに観てから気づき。

それを全然覚えていないってことは、そんなに印象なかったんだろうとは思うんですが、改めてマーベル作品もふくめ通して観てみて、いや魅力があるのは分かりました。

ただし、、まあ当たり前っちゃ当たり前ですが

スパイダーマンが敵と戦って勝つ」

という大筋はどれも共通しております。

特に悪役との戦いシーンは、自分がアクションにそもそも興味がないから寝ちゃったりもしてしまいました。戦いシーンが終わったらすっと目が覚めるという「うまいことできている自分」にわれながら感心しつつ。

 

そう。

そもそも私はアクション映画、好きじゃないんです。

じゃあダメじゃん(;´∀`)

でもでもです。

だからといって「しょうもな!」とは全く思わなかったんですね。

むしろ面白かったです。

ということでアクション映画が好きじゃない私による

 

ここがいいよスパイダーマン

をお送りしたいと思います。

一部ネタバレあり。

 

1.いけてない主人公ピーターパーカーの成長物語

いろいろ映画化もされているアメコミ作品を全然知らないんですが、確かスーパーマンのクラークケントも性格優しめの冴えない新聞記者かなんかだった気がするので、「主人公が弱め」というのはアメコミ界の王道なのかもしれないですね。

スパイダーマンであるピーターは10代なので、学校のヒエラルキーの最下層だったり、一部の生徒からからかいを受けていたり、もちろんケンカも弱いし、女子にももてないし、でも頭は良くて成績はいい「理系ガリ勉」みたいな感じです。

これは基本どのシリーズも共通です。だってそこがやっぱり魅力だと思うんですよ。

スパイダーマンも、要は少年誌で展開されているような少年の成長物語なんです。コミックを読む読者層が自分事としてとらえることができる設定ですよね。

 

特にマーベルの描くスパイダーマンシリーズは、コメディの要素が強く、ダメなピーターパーカーが等身大に人間くさく、実に面白いです。深夜放送のテレビ放映って基本吹き替えなので、吹き替え版で観てたんですが、吹き替えの翻訳家のセンスもありますよね、きっと。めっちゃセリフ展開が面白いです。

トビー、アンドリュー、トムと歴代ピーターを演じる役者さんはそろって小柄でなんとなく雰囲気は似てて(でも顔立ちとか体つきは全然違う)、だけどマーベル版のピーターであるトムホランドは3人のなかでは一番特徴のない顔立ちというか、パッと印象に残らない感じです。でもだからこそ余計に、ピーターの地味な冴えないキャラに合っているのかもと。

※もちろんトムホランドは全然イケメンですよ。そら。そういう役作りに合っているという意味。

 

とにかくスパイダーマンの何が魅力かって、それはもうスパイダーマンである高校生ピーターパーカーそのものだと思うので、シリーズの3人ともにその後も活躍されているポテンシャルの高いいい俳優さんだし、ピーターのキャラがあってこその少年から大人への成長だったり、「ヒーローとは強さより心が大事」っていう部分にもつながっていくので、そこに共感や魅力を感じないと、全然面白くないんではないかと思います。

 

2.スパイダーマン=蜘蛛男だからこその活躍

これも「そらそうだろう」と言われたらそれまでですが、スパイダーマンはなんでスパイダーマンになったかというと、実験にされていた特殊な蜘蛛にかまれたりしてスパイダーマンになります。これはうろ覚えですが?3シリーズともに共通だったと思います(むしろはっきり覚えてないってどういうこと)。

だからスパイダーマンの並外れた身体能力の基本は、蜘蛛と同じように壁をつたうことができたり、蜘蛛の糸を出したりできることなんですよね。蜘蛛の糸はピーターが自分で化学薬品で作ってた気もするけど。化学に強いピーターが、蜘蛛の特色を採り入れることで、NYのビルの谷間を飛び回ったり、高いビルを這い上がったりという、スパイダーマンならではの、スパイダーマンだからこその動きを実現しています。

でもね、ビルの谷間を糸を出して飛び回るのはよいとして、スパイダーマンが全身タイツで壁を登っていく姿、かっこいいのでしょうか?

そう。私は逆にそこがスパイダーマンの魅力だと思うのです。

だって、蜘蛛ってそもそも「かっこいい昆虫」でもないし、どっちかというと気味悪く思われたりもします。

それを人間と融合させるって発想そのものがすばらしくないですか?

カフカの小説「変身」から着想を得ている「ザ・フライ」とか有名ですが、要はあの路線というか。

 

 

だからなんていうのか、そもそも「かっこよくないもの」をね、取り入れてるんですよね。冴えないピーターといい蜘蛛といい。

かっこいい虫、たとえばクワガタとかカブトムシとか、そういう人気昆虫ではないんです。バッタからきてる仮面ライダーとも、そこが違う。

身近な昆虫としてハエでもよかったけど、そうするとさきほどの「ザ・フライ」のホラーになってしまうので、「蜘蛛」ってすごいバランス感覚に優れた発想だと思うんです。アイデア勝負のアメリカっぽいですよね。

で、その「実際かっこいいか~?」というスパイダーマンが活躍して「キャー♪スパイディー♪」と女子から黄色い声援を受けたり、子どもからあこがれの存在に見られてヒーローになっていくっていうのが、シンプルに面白いと思いました。

 

3.映画内の女子の扱いの変遷から時代を読み取れる

これは上野千鶴子氏を心の師とあおぐ私だからっていうのだとは思うので、おまけ的な要素です。

サムライミ版はまだ2000年代初頭だからか、登場する女子がキャーキャー要員です。

ヒロイン役のピーターのガールフレンド、MJ役のキルスティン・ダンストもキャーキャー言っています。あとキルスティン版はなんか、妙に色気があります。

トビーマグワイアのピーターも3シリーズの中ではいちばんシリアスというか、影があるので、他シリーズに比べてアダルトな雰囲気があるんですよね。そのなかで、まだまだ女子は「ただ助けられる存在」の域を脱していません。

で、マークウェブのアメイジングシリーズでは、ヒロインのエマストーンにこのキャーキャー要素が一切なくなります。それだけではなく、エマストーンは、「助けられる存在」を超えた「活躍さえする存在」になっています。でも、私は2の結末がどうにも好きじゃないので、マイナス1。

なんにしろアメイジングシリーズ初出は2012年なので前シリーズ最後作公開の2007年からの5年間のあいだに「世の中のジェンダー感覚・常識」が変わったのをスパイダーマンの変遷で見て取れるのが、面白いです。

そして最新のマーベル版では、ヒロインに限らず、登場する人物の人種の壁がぐっと低くなって多様性豊かなメンツになっています。ヒロインも有色人種で、2作目のファーフロムホームの主役のトムホランドとヒロインのゼンデイヤはプライベートでもカップルなんですって。

ゼンデイヤは黒人と白人のミックスで、歌手としても知られる存在。美人さんで、トムより長身ですが、とっても仲が良いようです。

Something New

Something New

  • Hollywood /Republic Records
Amazon

 

ジョンワッツ監督によるマーベル版は、そういう「今どき」全開だし、他のシリーズと違って大きくコメディに振り切っているので、私としても一番笑っておもしろく観れました。そしてハリウッドはいつも、しっかり時代を牽引しているなあと感心します。

 

ほかにも「CG頑張りました」から、映像美への挑戦に変わりゆく映像技術の変遷だったり、敵役のキャラデザインの凝り具合が作品ごとに差がありすぎな気がしたり、マーベルだからってアイアンマンとか出す必要そんなになくない?とか、悪役の悲哀がジョーカーの悲哀と同じだなぁと感心したり、いろいろ思ったんですが、どのシリーズもそれぞれテーマが違っているし、どれもそれぞれの魅力があって面白いです。

そして、上に挙げた、というか原作から連綿とぶれずに続く「ピーターは基本冴えない」「蜘蛛がヒーローだよ」という、この2つを絶対的な根源としていることで、スパイダーマンをシリーズを超えて優れたエンタメとして成立させていると私は思います。

 

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