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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

the shape of water _孤独の隙間にみえるものを愛と呼びたい

 

2017 アメリカ 監督:ギレルモ・デル・トロ 主演:サリー・ホーキンス

 

未知なる生物との恋愛モノというくくりでは収まれない、ステキなお話でした。

ネタばれあり。

 

 

イライザは宇宙研究センターで夜勤の掃除婦をする、言葉を発することができない孤独な女性。

売れない絵描き&同性愛者の隣人ゲイルズ(おじいちゃん)、仕事仲間のアフリカ系ゼルダなど、60年代当時には「マイノリティ」としての立場に立つ、気のいい仲間たちに囲まれつつも、同じ日々の繰り返し。

 

そんなおり、彼女の勤めるセンターに夜中、密かにある「生物」が運び込まれます。アマゾンかどっかの川で捕らえられた「彼」は、半魚人風。意志は通じるし、言葉も理解しようとします。でもその異形の姿からひどい拷問をされ、非道な扱いを受けます。そんな「彼」に心を寄せていくイライザ。

 

イライザは「彼」をとても愛していき、このままでは殺されると知って、海に帰す計画を立てるのですが、最後に、ああ。。という。

 

決して哀しい物語ではありません。デルトロ監督は、未知の生物への愛へと向かわせるイライザの孤独を、どことなくおかしみを含んで描いていて、そこがとても好きです。

 

たとえば、片思いする男性の店で買った緑色のパイだらけのゲイルズの冷蔵庫、サラリーマンを解雇されて絵描きになったゲイルズのノーマンロックウェル的で家庭的な絵と売れない現実とのギャップ、薄い髪の毛への自虐突っ込み、イライザとゲイルズの2人の部屋それぞれに共有するアパートの半円の窓、友である2人の座ったままのタップダンス。 ゼルダと夜勤の仲間たちとの蓮っ葉な会話やトイレでの会話。またゲイルズもゼルダもイライザと会話ができる、つまり手話が使えるのです。

 

みんな貧しくて孤独だし地味だし、未知なる生物とイライザとのセックスを含む恋愛に注目がいきがちではあるんですが、私は俗っぽさは全然感じなくて、むしろパッとは気づかない程度に、たくさんの愛すべきものが散りばめられていて、全体にじんわりと暖かい気持ちになりました。

 

未知の生物とのセンセーショナルな恋愛ではなく、ただただ生きるものの孤独と、だからこそ通いあう心。

 

そこにほっこりしてしまう私もまた、きっと孤独なんでしょう。

 

つまり、私たちはみな各々にひとりぼっちなんだけれども、ひとりぼっちという名の列車に乗り合わせた隣人でもあって、「ああ、あなたも一人ですか、私もです」という、どこかの誰かへの、言ってしまえば人間以外のものも含めて、世界への慈しみみたいなものを感じるのです。

 

そういう気持ちを堂々と、愛と呼んでもいいのかもしれません。

 

 

おまけ(*⁰▿⁰*)

作中で「緑色のゼリーとかパイとか」を割と引っ張ってるんですが、私の妄想としては60年代を象徴するエレメントとして監督か誰かが「60年代といえば緑色のゼリーだよな」「だな。でもなんだってあんな緑色だったんだろうな」「いやーあれはフシギ。でもなんか気になるん分かる」みたいなことで出てきたのかなと思ったり。ほんとにどうでもいいですが。でもメロンソーダと違っておいしくもない気しますよね。 美味しくないもの、違和感への象徴か…いやでも映像が凝っているからもっと深い意味あるのかも。

 

もう一つおまけ。

作品はベネチア国際映画祭の金獅子賞、アカデミー賞も4部門で受賞しているそうです。

 

岡本太郎の頭の中_太陽の塔に入り未来を想う

 

岡本太郎著「自分の中に毒を持て」を読んで、「太陽の塔に行かねば」と感じたので、行ってきましたよ。

 

 

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なんと今は!

ほぼいつでも太陽の塔の中に、入れるのですよ。20年くらい前は、期間限定で公開されていて中に入る機会がごくごく限られていたのに。それで諦めたのに。

なんてありがたい2024年の万博でしょう。

いろいろありがとう。万博記念公園

 

一階からしか写真撮影できないので、吹き抜けを見上げるアングルしか撮れなかったですが。(500円払ってスマホケース借りたら何階からでも撮れる)

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下から上の階に向かって大木の枝分かれに従いながら生命の歴史を辿っていきます。

何年か前にメンテナンスと新しい空間のビジュアル作りもしたそうで、面白いフシギ空間に。

 

太陽の塔の内部見学は、人数制限がある時間枠ごとのネット予約制ですので、混み混みでよく見えなーいなんてことはなく、しっかり見れますよ。

 

太郎さん、よくもまあ50年以上も前に面白いこと考えたねえ。70年代に描かれた建築の流行りなのか分かりませんが、子どもの頃の私の原風景的な感覚として、70年代って未来を思い描く独特の近未来像があって、それって関西では割と多い安藤忠雄氏にみるようなモダニズム建築とかだったのかなあと、今になってうすらぼんやり思うんですが、太郎さんがどう見ていたかは知りませんが、やっぱり私には70年代の「近未来」を太陽の塔にも感じるんです。

 

太郎さんは生命の躍動を描く、モダニズム建築は合理性を追求する。一見相容れない感じだけど、「この時代のもの」にはなんとなく似た匂いがあって、それがなんなんだろうと考えています。

 

未来を信じていること?

 

いや建築もアートも全く造詣のないど素人の妄想に過ぎませんのですが。

 

それにしても、ちょうど桜舞い散る季節で、えらい数の人々が花見やらなんやらで賑わっていました。

万博公園ってこんな賑わうんだわぁと驚いたけれども、子どものころから万博公園はガラーンとしてるイメージだったんで、ごめんなさい。

でもそのガラーンとだだっ広い感じが好きだし、草花も好きだし、ミンパクも好きだし、全部好き(*´∀`*)

 

そういえば、吹田市万博記念公園ではなく、2025年の万博はどうなってるんでしょう。1970年と違って、経済が上手くいっていないときだからか、巨額の費用をかけることばかり注目されて中身の話が全然伝わってこないですが、70年のときのように並んでも見たいと思えるような、見るべきモノはあるんでしょうか。

未来を信じることができるんでしょうか。

費用が巨額になること自体が反エコロジーや反時代的にダメダメにも思うし…

税金だよねえ。福祉とか保障とかに使うお金は減らしてNISAとか投資とかおすすめしながら、そんなお金がありますのん?とか思っちゃう…

 

時期が近づいたらもっと、おお!という情報でてくるのかしら。

なんか遠い国の話みたい…

 

 

tsubatarou.hatenablog.com

 

多様性の科学_多様であることの価値を実例で理解する

 

2021年 

 

ここ5年くらいのなかで、「読む価値ある本」ランキングベスト5に踊りでました。

ブレイディみかこさんのいろいろな書物の次には来る勢いです(*´꒳`*)

ネタバレあります。

 

同時多発テロ911のCIAの失態、1996年に起きたエベレスト登山チームの凄惨な遭難事件、1978年のユナイテッド航空の飛行機事故、白人至上主義から脱却できたデレクブラックをはじめ、そのほかGoogleプラダの失敗エピソードやら、食事療法の平均値の罠など、実際の事件や研究をベースに、「多様性がいかに大事か」を根拠を持って分析し証明を試みています。

 

著者のマシューサイドさんがライターだからなのか、読み応えが抜群です。イギリス人著者の日本語訳本なので、多少の言い回しの翻訳的な面はあるけれども、比較的、肌感覚としては日本人の思考にも馴染める方ではないかと。いやむしろ、「忖度してしまう日本人」のために書かれているくらいのシンパシーを感じました。

 

一つひとつのエピソード自体が濃くて面白いという優れた一面があるんですが、何よりも、その優れた一面をも凌駕するマシューサイドさんの斬新な視点により、読者がこれまでにないような示唆に富んだ発見をもたらされることが最大の魅力でしょう。

 

多様性という概念はもはや新しくはないけれど、一般的に知られるエピソードや別角度からの研究を、「多様性」という切り口で分析し、多様性を無視したり見逃された結果、あるいは取り入れた結果による、根拠づけの試みは、これまでなかったのではないかとお見受けしました。

 

人間って、それを言うか言わないかで、たとえ生死がかかっていると分かっていても、立場を優先して自分の意見を表に出さない、そういう忖度を無自覚にしてしまう生き物なんだと改めて驚いたし(アメリカ人でさえ…)、逆に多様なパーソナリティやアイデンティティ、反逆者のアイデア、影の理事会を、柔らかい頭で取り入れることで、凝り固まった組織には出来なかった利益の創出や、損失の回避を成し得ているという事実にも大きな気づきをもらえました。

 

気づき以上に勇気も貰えたので、なんだかこの春の陽気も相まって気分も軽くなってきた、今日この頃です。

 

組織って難しいし、理不尽だし、ガッチガチだったりするけれど、それがなんぼのもんじゃいと、好きな方向を見て生きるかどうかは、おのれ次第。

あとバイアスに振り回されない、柔らかい頭でいるために、自分には馴染みのない世界にふれることの大切さ。目先の損得、人の目や忖度で判断しない思考、行動こそが斬新なアイデアや創造を生み出す機会となること。

 

ちなみにマシューサイドさんは、卓球の元イギリス五輪代表選手だったそうです。なんかよく分からないけどそれもすごい。

 

 

 

かがみの孤城(アニメ版)_こんな素晴らしい物語だったんですね

 

 

2022 かがみの孤城 アニメ劇場版

Amazonプライム無料

 

 

中学生の子どもが風邪ひいて解熱後、自宅安静でヒマそうなので一緒に観てみました。

 

姪っ子が中学生のときから辻村深月さんが大好きで、原作をオススメされてはいたものの、「ラノベかあ(表紙絵の印象より)」とたかを括り、読まずにいたんですが、またもイメージで失敗例。

 

めちゃくちゃ良かったです。

住野よるさんと同じパターンやん。

 

ネタバレあり。でもバラすと面白くなくなるパターンです。で何のことだったらまだ言えるかなと考えたけど、何言ってもバラしにつながる…でもそれだと感想も何一つ言えないので、本当は言わない方がいいけど、触りだけ。。

 

最初は、不登校らしき少女の、不思議の国のアリス的ファンタジーモノかぁと観ていたんですが、これはね…社会派ミステリーですね。(個人の見解です)しかもかなり佳作。

観ていくうちにだんだんいろんなことが分かってきて、伏線の張り巡らせ方、回収力がずば抜けて素晴らしかったです。

なんていうか、真っ当にキレイ。

 

だから、え?あ!みたいな驚きと発見でワクワクもできるし、不登校の子どもたちの背景にある、さまざまな大人社会の問題を実に上手く訴えていて、涙も出ました。

 

いや、とにかくうますぎる!

 

 

辻村深月さん、めちゃくちゃ興味湧いてきたので、読んでいこうかな(=´∀`)

 

 

ちなみにリアル中学生の息子はその後みた「金の国 水の国」のが面白かったそう。まあそれも良かったけども。これラブローマンスやで?分かってるんか?

うーん、いろいろですなぁ。

 

 



仕事選びのアートとサイエンス_chat GPTの向こう側へ

 

 

2019 仕事選びのアートとサイエンス

不確実な時代の転職探し 改訂「天職は寝て待て」山口周 光文社新書

 

山口さんが自分の転職から得た経験と知見から思索した、不確実な時代の枠組で考える転職の心構えと取り組む姿勢ですね。

アート、サイエンスは、要は心と行動てことだと思います。

 

履歴書の書き方だとか、面接の話し方だとか、そういうのより、まず大事なのは、まさにこれだなと思いました。

 

というのも、私の会社の部署異動の話をきっかけに転職サイトに登録したりして、にわかに転職活動の真似事をしてるんですが、正直。

全然やりたいと思えるものが見つからないです。

実際面接までは行って結果、不採用でしたが、でもそんなにがっかりもしてないし、むしろどこかほっとしてたりして。そんなで受かるわけなくない?とも思います。

 

ああ。やりたいことがない。

 

その理由はいろいろあると思うんですが、いちばんには、私がそこで働く姿や仕事してるイメージがわかない、あと、どうしても待遇を気にしちゃう、ってことかなぁと、うすらぼんやり考えています。

 

で、こちらを読み、転職って求人サイトとかエージェントに登録する以前に、もう始まっているというか、人生そのものやん、と。

 

転職は求人サイトの登録ではない。

どう生きたいのか、まず考える。

その上で、その生き方に見合った仕事を探す、という前提やなと。

 

でその方法も書いてくださっていて、生き方に見合った仕事に出会えるための「偶然」を作れる思考と行動を日頃からとっておきましょうと。

 

なるほどなぁ。

 

いわゆるチャンス?ご縁?

「偶然」に出会うには、こんなんできたらなあという憧れではなく、ずっとやってても楽しい、苦痛じゃないと思える好きを知る。

そして、今の仕事と丁寧に向き合うこと、英語勉強したり、本読んだり、ブレない自分の行動で信頼を得ていくこと、などなどにより、計画していくんだそう。

 

私もいま、まさにそれに気づいたタイミング。

求人サイトに登録しまくって、求人見まくって、あれれ?なんも食指が動かないぞとなって。

だからこの本を読んでるし、英検の勉強全く手についてないことをはたと思い出しました。

 

英語はまあ、「不確実な時代」の備えとしてTOEIC730レベルには、勉強した方がいいとの助言ですので、絶対でもないでしょうが、英語いるなぁという危機感は間違いでもなさそう。

レベルが低すぎ段階だけど。

 

そして、私の図らずも転職の活動として見合う行動と言えば、目の前の仕事を丁寧にしてきたつもりです。が、その結果、部署異動という。

でもこれも、山口さんいわくの結局「不確実な時代」ゆえなのも理解。

だって部署編成が変わる大きな理由の一つが会社がAIの導入を進めているからです。

 

私は、正直、去年アメリカで脚本家たちがデモしてる報道見ていても、あーそうなるよなー、もうそういう時代来ちゃったなぁ〜と感じてはいたし、潜在的にはもっと前から実際の仕事で、ChatGPT ではなくても(そんな存在はまだ知らなかった)、こういう量産型の原稿作りは、テンプレを作って型通りに作った方が効率がいいし、人間ができることは、企画とか仕組み作りとか、アイデアの大元作り、などじゃないのかとは思っていました。ライターでいうならその人にしか書けないこと、今までにないもの、発想の転換力や融合が必要だなとはうすら感じてはきたんです。AIが侵し得ないリアルな生身の空間で。

 

ただ、実際にこうやって、部署異動や転職活動の真似事をやっていて、そしてこの本を読んで、あいや、もはやそういう領域でも、足りないかもしれないと感じます。書くという仕事、ライターに縛られることすら、もうやってはいけないんじゃないかと。

じゃあライターやってて、文字を書くじゃない活かせるスキルって何?というのが問われている。

 

まあそーゆーことかもと。

もしかしたら、全然違う仕事なのかもしれないなあ…なんてことも可能性としてはあり得るなぁと。

はい。

 

出版印刷に関わるメディア業界は、かつて写植という仕事が絶滅しています。

イノベーションが起これば時代が変わり、価値が変わり、生活が変わり、仕事が変わる。

そんなことはもう昔っから繰り返されてきています。

 

それが悲しいとか悔しいとかは全く思わないけど、じゃあ何ができる、何を生み出せるんだと言われたら、はて?となるので、さらにさらに、熟考と日々の暮らしの不思議を探していかねばならんと感じています。

あと、憧れでない「好き」と。

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイ(劇場版)_おもしろすぎて、北海道すぎて、わくわくしたわよ

<本日は、おろちんゆースタイルの文体でまいります。>

※おろちんゆーは小中学生男子に人気のそこらへんの生き物を捕まえて料理するユーチューバーでお姉口調が特徴です。最近こればかり見させられています。

 

イオンシネマに息子ちゃんと「ゴールデンカムイ」観に行ったわよ。

二人ともアニメのファンファンなのよ。

ちなみにアニメの影響で去年、北海道にも行ったわ。

 

アニメが大好き過ぎた場合、劇場版実写作品となると、原作をどう生かし、どうアレンジしてくるか?で、見応えや感動のボルテージが上がるか下がるか、気になるところだわよね。

過去に観てきた「マンガ⇒実写劇場版」もいろいろなパターンがあったけど、結論を言っちゃえば…上がりまくったわ!!千円チャーシュー!

※千円チャーシュー⇒おろちんゆーがよく叫ぶフレーズ(意味は知らない)

 

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全員もらえるノベルティ?付き(๑>◡<๑)うらに野田サトル先生の4コマ漫画もついてるわよ(*´∀`*)

 

マンガやアニメが原作の場合って、「実写」だからこそのダメさと、良さが出てくると思うんだけど、完全に「実写の良さ」が勝っていたわね。

製作スタッフが「キングダム」メンバーだと何かでみかけたから、「ちょっと!その延長線上で作ってほしくないわ!」と思っていたけど、監督、脚本、スタッフ、演者、もろもろ含め、「頼まれたからつくりましたー」ではないわね。ちゃんと「ゴールデンカムイが好き」なのが伝わったわ。

2時間の長編なのに20分くらいにしか感じられないくらいあっという間で、「もう終わったの?まだ序盤でしょ?」ってびっくり。ここ最近のストレスのせいで見当識がおかしくなったかと、ちょっと焦ったわ。

 

あらすじはこれを読んでほしいわ。↓

 

tsubatarou.hatenablog.com

※といいつつざっくりあらすじをいうと、日露戦争で生き残った不死身の杉本という青年とアイヌの少女アシリパアイヌの隠された金塊を巡って、土方歳三一派や、陸軍で名を馳せる第七師団なんかと闘いながら北海道の各地で繰り広げる冒険活劇よ。

 

では独断と偏見でいくわね。

多少のネタバレありよ。

 

ここがいいわよ劇場版ゴールデンカムイ

①北海道の雪山で、動物たちと冒険活劇

これだけ雪山シーンばかりって、ロケはかなり過酷だったはずよ。

寒いし冷たいし、雪で動きにくそうだし、天候のコンディションもあるしね。でもそれだけの価値があるすばらしい世界観だったわ。

雪深い森の中でのクマとの格闘。

脱獄囚たちの追跡。

鶴見中尉率いる第七師団の面々との戦い。

巣穴にこもるクマに襲われたり、馬に乗って駆け巡るシーンなんかがめちゃくちゃ躍動的なの。動物の見せ方がすごく上手なのは、やっぱり「キングダムチーム」だからかしら。ドキュメンタリー作品のごとく徹底した現実感、リアリティの追求に、日本の実写映画製作の底力を垣間見せてもらった気分よ。「大画面で見る」価値を十二分に感じさせてくれました。

そういえば第七師団の隊員がクマに襲われるシーンは息子が隣の席で震えてたわ。この作品は12歳以下は鑑賞に大人の指導、助言が必要なPG12よ。

 

アイヌへのリスペクト

私は原作は読んでなくてアニメ視聴だけなのだけど、野田サトル先生の徹底した取材力と、アイヌへのリスペクトを実写版でどう「寸分の誤解なく」表現できるかは、大事なところだと思うの。

そもそもこの物語の舞台は史実に基づいてはいるんだけど、中身はフィクションだし、コンプラとかポリコレとか差別だとか歴史だとか、私なんかはそういう配慮は、意見を出し合って後からもめればいいと思うわけ。

ただ、配慮以前に「ゴールデンカムイ」の素晴らしい点は、「作品が伝えたいこと」の大切なひとつとして、アイヌ文化、カルチャーへのリスペクトがあるということなのよ。だからアイヌ文化の捉え方を間違うということは、原作の表現とメッセージを勘違いしている、となってしまう。そのうえで政治家の差別発言とか、今も残るアイヌの人の生きにくさだったりとか無視できないことも起こっていて、相当なナイーブな部分でもあるんだけど、私が観た限りでは、ものすごいリスペクトを感じました。

この作品を観た人がね、アイヌ文化に魅力を感じずにはいられないでしょうよ。

フィクション、物語っていうのは他人ごとを自分ごとのように、心をゆさぶる力があるのよ。

 

③原作に忠実

ていうか、私はアニメしか知らないんだけどね。

だからアニメと比べてとなるんだけど、言わせてもらうわ。

不死身の杉本って、ロシアとの戦闘でロシア人を殺しまくって帰ってきたわけ。まあ生き残るためなんだけどね。顔も傷だらけなのよ。

その杉本を演じるのが山崎賢人さん。彼はすごいわね。観ていたら杉本に見えてくる。でもそっくりそのままというのでもなく山崎賢人風味もあって、その塩梅がすばらしかったわ。アシリパ役の山田安奈ちゃんも、アシリパの変顔をしっかり作り込んでいたし、後半のアクションシーンなんかはめちゃくちゃかっこよかったわ。

そもそも「ゴールデンカムイ」ってクセの強い変態ばかりが出てきます。どのキャラも容姿やしぐさ、話し方からしてクセが強いんだけど、見事な再現ぶりよ。パーフェクトすぎて、小憎たらしいくらいよ。でもモノマネで終わらない、役者さんの持つ味が上手く馴染んでいる。それぞれの演出って、どうやったんでしょうね?そこはもうキリがないからナゾのままにしておくわ。

 

ただ原作者と映画制作者たちがちゃんとコミュニケーションが取れてて、通じ合えてるのは感じたわね。先日の某ドラマでの悲しい事件だったり、クリエイティブには、コミュニケーションがとても大事なんだと改めて思うわ。

 

ということで、実写劇場版、素晴らしかったわ。できれば臨場感あふれる劇場で観ることをおすすめするわ。

でも私、観終わるまで知らなかったけど、劇場版の内容は、アニメ&原作マンガでいうと序盤じゃないかしら。だからまた続編が登場するのではないかと思っているわ。

心配になって調べたら、続編はwowowでドラマ放送ですって!

eiga.com

 

加入してないから見れないじゃない!

 

 

おろちんゆー参照↓


www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の中に毒を持て_アバンギャルドに生きろと岡本太郎が叫ぶから

 

 

2017 岡本太郎 青春出版社

 

太郎さんが遺した「自分の中に毒を持て」を今になってやっと読みました。初版は1993年。文庫版がその後出て、さらに2017年、文庫版の新装版が出たそれです。

 

読みながらずっと心のど真ん中に、ぐわんぐわんズキズキ来ました。

 

もっと若いうちに読むべきだったかもしれません。でも今の社会だからこそ、今の私だからこそ、響いたことがあるとも思います。

 

ぐわんぐわん来たフレーズにマーカーでラインを引く作業も該当箇所が多すぎて、とりあえず折り目だけにしました。

 

大事な部分があまりに全体に及ぶので、そして、全体を通して読まないと真には理解できないだろうので、まず、今の私の「自分のなさ」「自信のなさ」にピシッと頬を打つかのように叱咤激励された、と感じた序盤の触りだけ引用します。

 

 そこで僕はそういう駄目人間、不安で、迷って、自信がない、何をしたらいいのか、てんでわからないあなたに提案する。

自分はそういう人間。駄目なんだ、と平気でストレートに認めること。

そんな気の弱いことでどうするーとクヨクヨしても、気は強くならない。

中略

つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約をうけないで生きていく。

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。

 

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それでいいんだ。また、それしかないんだ。 と。

 

太郎さんは一冊の本のなかで、その本意を語っていきます。

なぜ、そうなのか。

なぜ、そう言うのか。

 

岡本太郎が裕福な芸術一家に育ったからとか、才能がある非凡な特別な存在だからとか、そう言ってしまっては全くだめだと思います。

なぜって太郎さんがそういうものの見方を否定しているからです。

太郎さんの「与えられた環境」をルサンチマン的に注目するのではなく、太郎さんが幼きころから抱えていた苦悩をどのように克服したかを考え、自分へのフィードバックとして受け取らないと、たぶん太郎さんの言葉は届かないでしょう。

太郎さんの創造の出発点は、常に、社会への問題提起なのです。

 

まず太郎さんには、太郎さん自身がこの社会を生きるのにとても苦悩してきたという背景があります。太郎さんは、自分と社会をわけて捉えず、社会そのものを自身の経験に見ることで、さまざまに苦しみ、時に喜んできた人なのです。

 

苦悩は幼き子どものころから始まっていて、先生から理不尽に殴られる学校生活のなかでどうしても体制に馴染めなかったこと、小さき者がたった1人で、権威にとことん反してきたのです。

 

従わない

ということで

太郎少年は

何をそんなに守りたかったのか。

苦悩を抱き18歳にして放り込まれたのがパリ。当時のパリは第二次世界大戦の前の不穏な空気をまとっていました。そんななかで芸術家たちがつながり、カフェで議論し、戦争を断固拒否し、自由な人間たることを訴えていました。孤独に苦悩に満ちた青年が同じように苦悩する芸術家たちと出会ったことはどれほどの喜びだったか。

 

でもだからこそ太郎さんは、敷かれたレールの従属のなかで、自分で考えることも判断することもやめて平和で満たされているよりも、だれもが自分の選択に責任(苦悩)をもちながら制約なく生きられるように社会が変わらなければ意味がないと考えます。自分が幸せでも隣の人は苦しんでいるかもしれない。自分だけ幸せであることになんの意味があるんだろうと。

そんなことから太郎さんはソルボンヌ大学で、絵画そっちのけで哲学や民俗学を学びます。

 

そして発見します。

自分を認めさせようとか、社会にどういう役割をはたせるんだろうと、状況を考えたり、成果を計算するのではなく、その瞬間を無目的に、無償で、情熱を持って全存在で爆発する。

それがすべてだと---

 

太郎さんは、パリから開戦直前の日本にもどり、過酷な兵役を終え、平和になった戦後の日本で、アバンギャルドに芸術活動に邁進します。

 

絵画、陶芸、モニュメント、執筆。

「自分の中に毒を持て」も含めて岡本太郎は私たちに語りかけます。特に本書では、組織やシステムに組みされたなかでの安定や成功を正義とする戦後の日本の有様に対しての強い危機感が感じ取れます。

 

 

さて。

太郎さんが亡きあとの社会は。

2000年代を迎え、デジタルテクノロジーの台頭に私たちの多くは夢を抱きました。画一的に組み敷かれた会社という組織に従属しながらひたすら拡大と成功をめざす時代は終焉する。組織での隷属のもと安定した一生を送るという価値観から降りて、選択肢豊かな新しい人生感や価値基準が浸透して、これまでのような型通りの生き方やシステムからの束縛のない多様と寛容に満ちた世界がくると希望を感じました。

けれど今、眼にする世界はそうなっているのか。

結局テクノロジーが残したのは、権威への従属のもと安定と成功という敷かれたシステムをより強固にし、より人間を効率的に管理できる社会ではないか?

 

私自身、組み敷かれたシステムとそれに逆らえない「世間」をまざまざと体感しているところです。

テクノロジーの進歩は、私の仕事を今まさに奪いつつあります。そして何より、それにさからいなどせず受け入れることを「正」としてしまう、権威への隷属の無自覚や諦観。

 

だからこそ、弱き自分を認めながら、誰の目も気にすることなく、やってみようと感じる方向に動けという太郎さんのメッセージが、非常に胸に響いたのです。

 

上手いより下手が楽しいと。

成功ではなく失敗を選べと。

その方が面白いから。

生きていることだからと。

 

権力におもねるな。

苦しみながら自由を求めよ。

己の選択をアバンギャルドに楽しめと。

 

この先、自分が岡本太郎のように生きられるとは思いません。でも、刊行から30年以上の年月を経ても、全く古びない、厳しくあたたかく、熱量が高く激しいのに、現代的なコンプラやポリコレにも高い耐性を備えた普遍的な地球規模の眼差し。いや宇宙ですね。

 

もしかしたら、もしかしたら。

己を見失いながら、大海にたゆたう千切れかけのワカメな私でも、今より少しは太郎さんに近づいて、太郎さんのいう「幸福」ではない「歓喜」をつかめる瞬間がくるかもしれない。

 

私が将来の不安も、保身も、ルサンチマンも脱ぎ捨てて、真に歓喜できる生き方ができるかもしれない。

 

失敗を恐れてはいけない。

むしろ損な道を選ぶ。

それを苦悩のなかで歓喜する。

 

人と比較とかして落ち込むよりも、自由を求める行動を取れ!失う心配などせず開き直れよ、と。

 

 

今の社会だからこそ、岡本太郎の言葉が響く。

本当は太郎さんの願った自由な社会になっていれば良かったのだけど。

だけどくじけるなと。

クヨクヨするなと。

 

だったら、押し寄せる大きな波にくじけそうな自分と闘い、遠回りしながらでも信じたい方向に向かって苦しみながら生きて行った方がいい、きっと。

いつか死ぬまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずはボーっとする_ネガティブな自己分析

最近、ニュースアプリのメルマガで、高齢女性の貧困問題記事が送られてくることが多いです。

なんか落ち込む…でも気になる…

 

将来が不安です。

たぶんこれはもう、生活をともにするパートナーがいない40代以上くらいの庶民派はみんな思うんでしょうかね。

パートナーいても思う時代よね。

 

でも記事読んで、安心するのもあります。

私より大変な人がいる、と。

で、いろいろ記事見てて、その貧困高齢女性たちのその後の明暗を分けるのは、たとえば生活費が1000円しかないとかの時にフードバンクに食べ物もらったり、病気のときに医療費を借りたり、ガチでヤバってなったときに、助けを求める場所があるか、支援団体とつながれるかどうかかなぁという気もしました。

で支援団体と繋がれるかどうか、は結局、自分の貧困や人生を恥ずかしいと思うか、どうか?

なのかなと、今感じています。

 

自分の貧困を恥ずかしい、と思う人は、周りに知られないように振る舞うから、支援とつながる機会が極度に少ない。

だから助かるチャンスに気づかない。

 

あと、みんなアバンギャルドに生きて貧しくなったわけじゃなくて、どちらかというと会社や家族に対して従順にクソ真面目に生きてて、結果損をしている感じもしました。

 

ということは。

もちろんその人それぞれのいろんな状況があるから一概には言えないけど、結局人間を生かすも殺すも、価値観なんじゃないか、と思った次第。

 

お金、仕事、家族、人間関係、いろいろな側面で悩みは誰にでもあって、その時に何を大事にして、何を優先するか。

プライド、見栄、思いやり、合理性、ぬくもり、達観、悟り…

まだまだ悩んでいて、よーし今日は徹底的に、自分の将来のことを考えるぞ!と思うんですが、いざ考えだすと、睡魔に勝てず寝てしまいました。

 

夜早くに眠れるのは心身の健康の基盤として望ましいことだけど、朝早くに目が覚めて、そこからまた悶々と悩み出すので、なんか何もせずボーっとする時間欲しいな…

大切だな…と思います。

 

もしくはですね。

もう結局自分の価値観として、

将来のことなんて、

どーにかなるなるー(=´∀`)人(´∀`=)

という結論が出てしまったのかもしれないです。

気づかないうちに。

 

でもまだ足りないのは足りない気がしてます。

悩み抜くのに疲れてないから。

 

ということで、飽き飽きするまで悩んでいきたいと思います。

まずはボーっとせねば!

 

 

 

 

 

武器になる哲学_現実の人生でめっちゃタメになる哲学

 

 

2023 山口周 角川文庫

 

めちゃくちゃ、むちゃくちゃ。

面白かったです。

 

そっか哲学って、

なぜ私は生きているのか

それは私が考える生き物だから

 

みたいなね。

はあ、そうですか~…としか言えないような

答えになってんだか、なってないんだか、解釈はお任せします…というような、

あるいは、「とんちの限界を探れ!」みたいな。

そんな学問ではないのだ、と。

ちなみに上のやつは「われ思う、故にわれあり」(デカルト)ですね。

 

で、この山口さんの哲学入門書のいいところは、冒頭で山口さんご本人が語るように、この本が「主にビジネスで役立つ哲学」なことです。まあビジネスっていうか、自分たちの日常生活に取り入れられるよというさまざまな思考といいますか。

 

哲学、社会学、心理学、人類学、政治学、などの関連ジャンルを含めて「あの人のあの主張、研究成果は、実際に私たちの人生、生活でこう生かせるよね」という括り方でさまざまな哲学の論考を説明してくれています。

50も項目があるのですが一つひとつは4~5ページの簡潔な構成なので、読みやすいです。

ということで、そのなかで私が感銘を受けたり、気になったものをいくつかだけご紹介します。

以下ネタばれあり。

まず。

50の項目のなかでも、序盤の方で、めちゃくちゃ元気がでたのが

「06 自由からの逃走 エーリッヒ・フロム」

です。

「自由ってほんとにいいものなのか?」ということから入り、ヨーロッパでは16~18世紀に宗教改革ルネサンスを経て、日本では明治維新を経て、封建社会から解放されたとされる歴史ですが、その後、結局、「私たち自由になれましたか?」と。

フロムという社会学者・哲学者はちょうど20世紀を舞台としたドイツの人で、自由どころかナチスという恐ろしい独裁政権を生んでしまったドイツの暗黒時代を生きた人です。そういう背景もあって、「いや封建社会からの解放を望んで辿り着いたのがナチス全体主義)かよ」ということをですね。早い話、突きつけています。でナチズムを支持したのは、いわゆる下層・中流階級の普通の人々で、フロムはその普通の人々のもつ「権威主義的性格」を指摘しています。自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすく、またこういうタイプは権威に従属したがる一方で自分自身も権威になりたがる。という特徴があるそうです。

要は、自由ってのは、相当難しいものだと。なぜなら強烈な孤独と大きな責任が伴うからで、「はい今日からあなた、自由だよ」と言われても人間そうそう馴染めないものなんだなあということですよね。

で、ここまでだと、まあよくあるちょっとした保守的になりがちな大人たちへのお説教な感じなのですが、「じゃあどうしたらいいねん」という部分も書いてあって、そこを読んだとき、私は全身に稲妻が走ったんですよ。(ハードルをあげ切る大げさぶり)

フロムは、個人の成長、幸福を実現するためには、

自分自身を分離せず、自分自身でモノを考えたり、感じたり、話したりすることが重要であること、何よりも不可欠なのは「自分自身であること」について、勇気と強さを持ち、自我を徹底的に肯定することだ、と。

もうこの文章以上の何も出ないし、すぐにマーカーで引きましたよ。線。

証拠写真

ちょっと汚いけど、、、



で、すぐに上司に出す企画書を作り出しました。もうよく分からんけど、とにかく「現状を何もせずに受け入れる」のはやめようと。

まあそんなこんなで、前回書いた部署異動もろもろの出来事で、非常に暗い気持ちだったんですが、一気に「自分大好き」に気持ちがシフトしたという。

自分大好き、とはちょっと違うかもですね。

私は、自分がこんな自分自身であるから、損をしている。評価されない。と思っていたんですが、そうではなくて、「自分自身なんかまったく出してない」ということに気づいたんですね。だから、評価もくそも、まずは自分を出す必要があると。

「自分自身でいること」に勇気とか強さが備わっているかどうかも、よく分からないけど、結局はそれも思い込みというか、オプションというか、自分自身がこれが勇気だ、強さだ、私だ、と思えればいいわけで、自分が傷ついたり恥かいたりするだけで、誰にも迷惑もかけないし。ということに気づいたのです。

エーリッヒフロム。

ありがとう。(山口さんも)

 

このフロムの項目はすごくインパクトあったのですが、それ以外にもマーカーを引いたとこがあります。

「04 ルサンチマン フリードリッヒ・ニーチェ

ここを読んで自分のなかにある「ルサンチマン」が怖くなりました。

ルサンチマンっていわゆる、やっかみ、妬みを複雑な感情で包み込んだものというか、

ニーチェがいうには、人は「ルサンチマン」にとらわれた時の、危険な2つの反応があるらしいです。

ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属・服従する

ルサンチマンの原因となる価値基準を転倒させる

 

①は、たとえば高級ブランドのバッグを自慢する友達がうらやましくて、本当に欲しいわけではないけれど買っちゃう人。それも友達よりちょっといいやつを。

②は自分に劣等感を感じさせる強い他者を否定することで自己肯定する人。

この②はどういうことかというと、たとえば、わざわざ「高級フレンチVSサイゼリヤ」という図式を作ってサイゼリヤを選ぶのは、「サイゼリヤが好き」なのではなく、高級フレンチに行く=成功者に対するルサンチマンがあって、価値を逆転させることで自分の方が優位だと示したいから。

 

②のひねくれたやらしいタイプは私のことだと思って、ここの章を読むの苦々しい気持ちでいっぱいでした(;´Д`)

こういうマウント返ししてしまうというか、「モノの本質をわかってねーぜ」みたいな受け取り方で確かにルサンチマンの溜飲を下げること、よくあるなあと。

で、②の転倒パターンの人が自分のルサンチマンに対して、じゃあどうすればいいかというと、要は好きならば好きだけで、比較せんでいいやないの、と。

 

あと、②のルサンチマンは「じゃあフランス革命とかマルクスも全部、最終的にルサンチマンなわけ?」という語弊にもつながるので、なんでもルサンチマンで済ますのもどうかな、というのも山口さんは語っていらっしゃいます。

ただ、ルサンチマンは、非常に人の心をつかみやすくて、ビジネスとしては大いに利用できるわけで、消費活動ってほぼほぼこういうルサンチマンによって拡大してるんだと受け取れますよと。

自分はルサンチマンで消費するのか?それともルサンチマンを利用しビジネスするのか?

そう考えるとルサンチマンって、人間くさくてかわいらしいけど、でもめんどくさいところもあるから「少し距離を置いてたまにあう友達」くらいの感覚がよいのかなあと思います。

 

さてさて、最後に、私がもう一つマーカー引いたのがありまして。

「08 アンガージュマン ジャン・ポール・サルトル

です。

サルトルが提唱した「実存主義」は、この世界を創っているのは私たちなのだから、自分にも世界にも、自分は主体的に関わり、責任をもつべきだということなのですが、フロム同様、戦争だらけの20世紀を生きたサルトルは、その例として「戦争」をあげています。

私たちは戦争を外側からもたらされた惨事のように扱いますが、戦争に反対することも、兵役を拒否することもできたのに、それをせずに受け入れたのは自分自身じゃないか。だったら「戦争」は自分の選択肢なのだと。

そう言われたらぐうの音もでないのですが、私がサルトルアンガージュマンに感銘をうけたのは、そういう耳の痛い話ととらえたからではありません。

本来私たちは、自分の行動は「自由」であるのに、社会や組織に命じられた通りに行動する「クソ真面目な精神」を発揮してしまうとサルトルは指摘しました。

私たちの考える「成功」はいわゆる社会や組織に命じられるままに行動し、成果をあげることを指しているけれども、サルトルは「そんなものは何の意味もない」と言います。

自由であるということは、社会や組織が望ましいと考えるものを手に入れることではなく、選択するということを自分自身で決定することだ、とサルトルは指摘します。

これを私なりに解釈すると、できるだけアバンギャルドな道を選べということなのかなと。でも「自分で選択する」ということを自由の大前提におくことは、とても大事な視点だと思うのです。

私たちが、心から自分の意志で選択したものは、実は限られていて、親や誰かの助言やら、バイアスやら、無知や無自覚やら、臆病な保身から、そうそうできるものではない。

でも死ぬときに「自分で選んだ人生だった」と思いたい。

自由を求め突きつけられる孤独にも、責任にも耐えられる気はしないけれども。

そしてですね。

この本ではもっと後の章になるのですが、このサルトル実存主義をケチョンケチョンにしちゃったレヴィ・ストロースの「構造主義」も出てきます。

構造主義といえば、内田樹氏です。

内田樹師匠のエッセイは何冊か読んでいるのですが、構造主義をど真ん中にしたものはひとつも読んだことがなかったので、正直、全然わかっていない。

この本でも分かりませんでした。レヴィ・ストロースの項目は、「ブリコラージュ」をテーマにしているのですが、ブリコラージュとは、「いつ役に立つかわからないけど、とりあえず袋にいれておこう」という非予定調和の能力を指すそうです。

山口さんも本書で紹介していますが、サルトルがいうところの実存主義しかり、それはこの世界が「進化に根差している」という基点に立っていて、「未開の地より西洋が優れている」という優越感に結び付いている。対して構造主義は、世界は進化とかで前に進むものでなく、西洋だろうと未開の地だろうとそこに構造としてまずあるのだと。未開呼ばわりしてる時点で西洋視点ですしね。

構造主義はいわゆる「西洋がいちばんエライ」という西洋人の考えのアンチテーゼの要素があって、予定調和な「予測した目的のためのイノベーション」に対するアンチテーゼなんだと。

つまり、「役に立つ」とか「合理性」とか「生産性」とかそういう西洋的な価値観ではなく、「なんの役に立つか分からないけど、なんかある気がする」というざっくりとしたものが、自分や社会に結構な影響を与えたりするよと。

うーん、この世は結構もっとゆるふわっとした感じだよ?ってことかなあ。

でもやっぱりいまいち構造主義がつかめないので、また別途、何かしら読んでみようかしらと思います。

ということで、もっといっぱい発見や面白いものがあるのですが、特にマーカーを引きたくなったものをご紹介しました。

 

実は50の項目のなかには、「いやどういうこと?」というのもあったりしました。特に後半。「同質性」から生まれる差別を扱ったモスコヴィッシの項目とか、監視の圧力に言及したミシェル・フーコーの項目とか、正直、飛躍しすぎている気もしました。これはたぶん、内容の複雑さに対して、割いていいページ数が足りてない、言葉足らず感からじゃないかと思います。

 

でも「弁証法」とか「公正世界仮説」とか「悪魔の代弁者」とか「ナッシュ均衡」とかほとんど面白かったです。

あ、ナチスドイツのユダヤ人の大量移送の指揮を執ったアドルフ・アイヒマンの裁判記録「イスラエルアイヒマン」の作者で哲学者のハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」なんかは、目の覚める思いでした。フロムに似ているのですが、要は「悪って責任の所在を分からなくすることでフツーの人がするんだよ」というね。会社組織でも通じるテーゼ。

あ、「神の見えざる手」のアダム・スミスにもめっちゃ線引いてました。

私たちは「最適」になりたいのか、「満足」したいのか。ヒューリスティック(必ずしも正しくはないが直感で見つける経験則とか発見方法)な解を見つける柔軟性って大事だよねってやつです。

 

ということで、哲学初心者には「へー」「ほー」が盛りだくさんなので、盛りだくさんすぎて、一読では脳にインプットが行きわたらないので、何回も繰り返し読もうと思います。心が迷った時のバイブルとして。

巻末に「読みやすい哲学書」ガイドも付けてくれているので、いつかそれも読みたいな(∩´∀`)∩

 

 

 

 

 

 

 

いっちゃんあかんやつになってます_ネガティブな自己分析シリーズ

最近の私はとにかく「自分がない」気がしています。

どこからともなく不安の波が押し寄せて、右からの荒波と、左からの荒波とに、ザパァンザパァンゆられてるだけの千切れた昆布。もうちぎれまくって本体がなくなりそう。

 

こーゆー時はとにかくネガティブな段階から自己分析するのが、大切なのです。

なぜなら、どうしたって前向きになれないならとことん落ちて、開き直ることで前に進んできた気がするから。なんとなく。

 

ということで、まず、何が不安なんか、ですね。

おのれは。

 

それは明白。

将来なんです。

将来が不安。つまり子どもの学費。老後。

少子高齢時代の先の見えなさ。

流行りの積み立てNISAとか投資信託とかに乗っかれていない置いてけぼり感。

そもそも資産運用に向いていない性格。

てか資産なんかないわけで。

 

だからそんなこんなの将来の不安解消には、貯めるより、稼ぐチカラが必要だなと、思うんですが、この稼ぐチカラももっと自信がないのです。

 

そこにきて、部署異動の話が出ており、それがまあ全然私の畑違いの業務というか、お払い箱的な?気がする仕事。

 

もう会社を辞めた方がいいのか、生活のために我慢すべきか、何が正解なのかも全く判断がつかないし、さらに実は密かに転職活動しているのですが、ある会社の面接で思った以上に評価してくれていい感触だったんですが、働き方の面で折り合いがついてなくて、これまたどうしたものかと。

私は残業ができないし(これはもう絶対譲れないので)、できればリモートワークがよいのですが、なかなかもう、リモートワークは減ってきてるようです。

 

リモートワーク、ラッシュに乗らなくていいし、仕事終わったらすぐ家事できるし、ラクチンでいいんだけどなー。

 

でもいまこれを書いてて、まあまあ贅沢な悩みなような気もしてきました。

 

だけど、もう50になるというのに、本当に自信がないのです。ぐずぐずしてても毎年しっかり老いてるわけで、体力の衰えへの焦りもあります。

 

そうか、不安は自信のなさからきているのかも。

 

私に何ができるんだろう。

求人の応募資格欄みてたら、足りないスキルばかりで、なんにもできない気がしてくるし、じゃあ一から学ばせてください〜ってゆースタンスが許されるのはせいぜい30前半までだろうし、残業もできないし、その割に年収にむちゃくちゃこだわってしまうのは、子どもの進学費用を貯めないとダメだから。

 

書いててただのわがままな気もしてきました。

何かを得るには我慢も必要。

よく聞くフレーズです。

 

でも心からそう思えないといいますか、どれを優先しても、後悔しそうな気がして、なんにも動けないのです。

そしたら周りが波風立てて、そこで踏ん張る足場ができぬまま、消えそうになりながらかろうじてゆーらゆーら揺られている感じです。

 

もしかしたら、今は流されるままでもいいのか?

 

今ってなんなんだ?

 

何の選択を私は迫られているんだ?

 

私はとにかく、自分の選択をこれで良かったと思いたいです。

だけど、良かったと思えるかどうか、分からないじゃないですか。

もしかしたら、間違えてしまうかもしれないじゃないですか。

 

自分で選ぶ人生こそが「自分を生きる」ことだとは思います。

自分で選択して判断すること。

 

でもいざその必要に迫られたとき、なんにも選べないし決断できやしない。

動けもしない。

 

 

私は何かを見逃しているのでしようか。

ただ人生とは、これが正解だと自信持って進めるわけではないのだとしたら、頼るべきものは何か?

 

よく考える、しかない。

ゆられながらも、振り回されず、どうしたら自分が納得できるのか?

 

納得ポイントはどこなのか?

 

ということで、とりあえず

答え探しに哲学書でも読もうかな…

 

 

 

…なんにしても離婚に関しては全然迷わなかったのになぁ。