いろいろ考えだすと眠れなくなるのですが、今日も自己分析です。
今回のことを布団のなかで、いろいろ突き詰めていくと
「そもそもモラハラってなんなん?」
「なんでモラハラする人がいるの?」
「なんでそんな人と結婚とかしちゃったの?」
という問いがループしだします。
モラハラって、支配して相手の尊厳を奪うことなのですが、肉体的な暴力ではなくて、言葉や態度で精神的に追い込むのが定石なので周りに気づかれにくいというのが、特徴のようです。
周りどころか、されている本人も気づかないことが多いようで、そもそもじゃあなぜ、モラハラ夫が量産されるのかというと、
・・・というかモラハラ夫は量産されているのか?
モラハラ ブログ で検索したら、まあまあ出ます。
いくつか読んだのですが、読んで感じたのは、
関係が決定的にこじれる決め手は「金銭問題」のよう。
夫が生活費を入れないだの、働かないだの、いつのまにか借金してただのが決定的な夫婦関係の分岐点。
そこまで来て妻側が、「あ、やべー」となって、別居や離婚に動きだします。
そんで抑圧された感情のアウトプット作業としてブログを書き出します。
(あとこうモラハラ被害者妻のブログって、夫への怒りがうずまいているから、私みたいにすごい共感できる人以外はしんどいかも)
とにかく、まあまあ「モラハラ日記」的なものは世にあふれていて、サクッと読むことができるありがたい時代なんですが、日本の夫婦の総数、離婚した総数の中での、モラハラに端を発する割合が、どれくらいをしめるかは実際には分かりません。
一方でリア充ファミリーブログもたくさんありますものね。
夫婦の実態なんて、文字では分からないって言ってしまえばそれまでなんですが。
ともかくも、正確なデータや数値が分からないですが、ある一定数は「モラハラ夫」が存在すると想定しましょう。
では、なぜモラハラ夫が一定数生まれたのか?
これも本当に謎なのですが、Joeさん曰くの「モラ家庭で育つと、加害者か被害者になりやすい」とすれば、
今一定数、モラ夫がいるんだから、その連鎖をどこかで断ち切らない限りは、延々とモラ夫は生産されるということですよね。
じゃあなぜ最初のモラ夫はモラ夫になっちゃったのか。生産されちゃったのか。
これもJoeさんのブログにあったのですが、
「まだ10歳の息子が父親に似てモラハラするようになった」という読者の投稿に対して、
Joeさんは、「“まだ10歳なのに”じゃない、“もう10歳なのに”ですよ」と書いています。
モラハラって2歳児の思考と行動なんだそう。
つまりは、幼いころは誰でも自分と他者(お母さんなど)の存在・人格の区別がついていないけれど、
成長過程で自分と他人が全くの別の存在で人格だという認識をもてるようになっていくんですって。
その成長過程をきちんと経ずに、自分と他者の区別がつかないまま大人になったのが「モラ夫」です。
自分と他者の区別がつかない=他者が意志ある別人格である認識ができない、ということ。
自分以外は他者であるという認識がないから、自分とは別の人格としての意志や存在を尊重できない。
他者は自分がコントロールできる支配のうちにあるものと認識する。
そして怖いことに、モラ夫に共依存する被害者も、まったく同じで「他者と自分の区別がついていない」んだそうです。。
夫も私も、どっちも幼いまま年だけ食って大人になっちゃんだねえ。。😢
モラハラ夫生産の根幹に、他者を認識する能力の発達に問題があったんだという発見は、私にとっては衝撃でした。
しかもとっても腑に落ちます。
他者を認識する能力が子供のころからの発達や成長過程にあるとすれば、やっぱり親から受ける影響が大きいのかもしれません。
じゃあ、親はどうやったら子供をモラハラ人間にせずに済むのか。
これは逆のことをすればいいってことですよね。
子どもを、自分の人格とは全く異なる、一人の人間として扱えばいいわけです。
それはいつの段階からか。
たぶん、はっきりと◯歳からというものはなくて、
「お母さんはピンクにしなさいって言うけど、私は黄色がいい」とか
「みんなはドッヂボールがやりたいっていうけど僕は部屋で絵を描いていたい」みたいな
「あれ?今までと違う?」「これはこの子の意志なのかも」みたいなときに、尊重した対応を積み上げていくことで
「他者は自分とは別人格」という事実が心の根っこにしみついていくのかなあ
…なんて思います。
その時に大事なのは、好きにすれば~?という放置ではなくて、これまで「ああしなさい、こうしなさい」と言っていた親が、今度は子供の話を聞く側にまわれるかって部分にも思います。
互いが対等で、尊重されるべき存在として。
もちろん子供は世間知らずではあるので、世間を渡るテクニック、ルールを教えていく「しつけ」は必要なのでしょうが「しつけ」と「意志の尊重」の分別は、自分が子育てをしていても、ちょっと難しい実感があります。
子どもの主張をワガママととらえるか、尊重すべき意志ととらえるか。
これはもう、対話を繰り返すなかで、どっちなのかをつかんでいくしかないのかも。
子どもって、言葉も知らないし表現が下手で不器用なので、ついイラってしちゃうんですよね。
でもすごーくすごーく辛抱して話を聞いてたら、ただの「いい加減」や「ズル」にみえることも
本人にとってはものすごい努力した上での「燃えつき」だったりする。
私が「それくらいできるっしょ」と思うことが本人には「120%の火事場のクソ力」だったりする。
それが分かったときに、「そ、そうだったのか・・・」とものすごい衝撃があったりして、いや子育てっておもろいやんと。
子どもからパッと出る言葉だけでは伝わらないことが多いんですよね。
理解にとっても時間がかかるなあといつも思うんですが、だからこそ、親も子供も自分の意志や気持ちの伝え方を覚えることも大事だし、そういう辛抱ならば、モラ夫への辛抱とは比べ物にならないくらいに価値があると思います。
でもこれ、モラハラ夫減らすには、突き詰めれば
親が辛抱を楽しめるような、ゆったりゆとりある子育てができてるか?
のびのび子育てできる、そんな社会が作られていますか?
ってことにつきると私は思うんですけどね。
そんな社会を作らにゃモラハラ夫はやっぱり再生産され続けると確信しています。
ということで、モラ夫や共依存の自分に辟易しながらも、自分が親としてモラ人間を再生産するかしないかを握る立場でもあるので、頑張るとすれば、子育てだなって思います。
「家事の平等」よりも。
うん。ちょっと納得できかねる無理やり感もあるけど・・・
そういえば娘が今日、めっちゃ話しかけてきました。
モラ夫よりは、分かりやすいです。