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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

夫と暴力とこの世の成り立ちのこと_ネガティブな自己分析シリーズ

✳︎夫への悪口が過ぎたので反省し加筆修正しました(*´ω`*)とはいえ書いてますのでそーゆーのがしんどい方は読まないでください。

 

また失敗しました。

別居中の夫です。

 

詳しくは複雑なので省きますが、子どものゲーム課金が話題の昨今ですが、似たようなことが我が家で起こり、ナゾの引き落としでもめています。

子どものことだからと夫に電話して直接話したけど、結果なんにも前向きな受け取り方をせず、自分の損失ばかり数えてます。(ように見える)

あげくに、俺のやり方にケチをつけるな

あんたは子どもを俺に押し付けて苦労してないから知らん

知らんくせに口出しすな

 

と、最終怒鳴り出しました。

 

てゆーか

こんなに久しぶりだけどやっぱり冷静に話せないんですよねえ。

そして夫は怒鳴りだすともう言葉が届かないし、私もうまく言葉が出ないのです。

ということで

理解できない人の

理解できない行動を

引き起こすネタを作ってしまいました。

できる限り関わるべきではなかったです。

 

しかし…なんでこうも私は怒鳴られると言葉がでなくなるのか。まあそれが向こうの望む通りの展開なんでしょうが。びびらせるという。

 

 

それは結局彼に恐怖を感じるからなんですよね。

つまり怖いから。肉体的にも腕力でも自分より圧倒的であると認識したら、人間こんなに萎縮してしまうんだなと。

 

だって最終勝てないですものね。

勝ててないですよ。いつだって。

一度たりとも。

素手では。

 

ただうちのお父さんとも怒鳴りあったことあるけど、こんな怖くなかったです。

殴られたことはないからか。

殴り合っても勝てそうだからか(笑)

やっぱり1回でも手を出す奴は信用ならんのか。

夫のことは心の底から信じてないからか。

何かが気に食わなくてもめるたびに「引きこもり」「無視」「離婚する」を持ち出されてきたからか。ドタキャンされてばかりいたからか。

 

家庭内にしろ家庭外にしろこの世に暴力というものは存在していて、その圧倒的な支配力を直接感じることで、惨めで救いのない気持ちになってしまうのです。

 

その結果私はあらゆる「暴力」的なものに、どんどん嫌悪感が募り、恐れと憎しみと拒絶と屈辱感と

社会への絶望

を感じるのです。

 

こんなんじゃ離れた意味がない。

 

そこでです。一つこのガクブルのメンタルをリセットするために、落ち着きを取り戻す思考作りのトレーニングとして、本当にこの世は絶望しかないのか。「この世の成り立ち」をおさらいしてみることにします。

 

この世の成り立ち。つまり人類はですね、なぜに自然界の「強いものが支配する」掟から脱して、法治国家を編み出したのか。

だって、いくら私が軟弱だとしても、今の社会は暴力をノーと捉えることが常識ではありますよね。

一応。

 

歴史的な視点でみると、長い人類史のなかでそれはごく最近の変化だとしても。

 

ダーウィンがどう見るか知らないけれど、もしこの暴力OK→暴力NOの変化が進化だとしたら、肉体的、力的支配の掟が今は許されないことだとしたら、なぜ人間はその道を選んだのか。

 

女性が不利な世界はまだまだ続いてはいるけれども、そういうことを抜きにしてそもそも神様は男性に力を与えて狩りをさせたし、女性には子育てをさせた、という人類史があるなかで、どうしてその自然界の掟から人類だけ「社会🟰支配構造の変化」を作ることになったのか。

なぜ人類はそれで他の生物より圧倒的に繁栄できたのか。

 

それは人類が集団行動をするようになったからでしょう。

暴力では数をまとめきれないから。

肉体的能力より頭脳の方が発達して

支配構造や社会的構造を成立させるに優ったから。

要は強いよりかしこいことの方が、より多数に対する支配力や統率力を発揮できたから。

 

むちゃくちゃ極端に単純化して言えばですが。

だとしたらです。

 

暴力に対して私ができることは

賢くあること。

賢くあるとはどういうことかというと

この世のあらゆるものを利用して

暴力の支配から逃れること。

 

そのためには知ること、行動することが大切。

 

あとね、「サピエンス全史」の上巻しか読んでないけど、そこで書いてあることで、おお!と私が思ったのは、この人類の集団行動には、親しみとか思いやりの行動があって、それが集団化をより強めたのではないなと。

つまり、人類の強さは、他者への親しみを伝える行為だとか思いやりだというわけですよね。

 



だとしたら、暴力に勝る強さは思いやり。

うーん考えさせられますけど、めちゃくちゃ救いがあります。

要は思いやりを感じないと人は集団ではいられない。暴力や恐怖では強固な集団行動はできないのです。

 

でも危機に直面したときに取るべき行動となると、それはもう草食動物と同じく、足早にトンズラすることだと思います。

暴力が届かない世界まで走って逃げろ!と。

そして暴力から離れた世界で、平和な世界で知り学び行動する。

 

つまり人類の進化の歴史を個人の歴史として歩む。

 

これまでは

何故にすぐ手が出るんだろう

すぐ怒鳴りだして威圧するんだろう

と思っていたんですが

人類史にあてはめると

そもそも生物の多くがそうやって生きながらえてきているのだから

そこに明確で個人的な理由はないのかもしれません。

ただプリミティブなだけで。

 

歳を取ったら昔を懐かしがるといいますが、最近の私は加齢に反比例してプリミティブを懐かしがる風潮が苦手になりだしました。

だって「昔」って女性にとっては理不尽だし不利なことの多いことったらないわけで。

それはともかく、男性のなかでも分かりやすい順列がつけられるのが肉体的支配力なんですが、その力がプリミティブを代表する一つであることが確かな限り、そうなるよなと。

 

だから、

暴力を嫌悪する思考は間違ってないし

逃避して忌避して遠ざける行動は正解。

 

むしろ自分が弱い立場だと早々に認識して

そうすべきですよね。

うん。

夫への接触は軟弱な私のおバカな行動だったと深く反省。

 

で人類史に話を戻しますが、そうは言っても人類はね、まだ暴力を全然拒絶はしていません。暴力に知恵を授けてより大規模に戦争🟰暴力を使って支配権を争っています。強い国が弱い国へ。

その中で結局酷い目にあうのは小さきものたち。

 

そう、社会は暴力をNOと謳っても、平和を掲げていても、現実にはここかしこに存在します。

 

一方で暴力にあらがう人もいます。

思いやりだって一人ひとりの小さなものを積み重ねたら暴力よりもきっとある。

人を想うことで始まるコミュ力や集団力で平和を勝ち取る歴史もあります。

 

逃げ足の力。

数の力。

対話の力。

そして「支配構造」からはみ出て「力」に頼らない価値観。考え方。

思いやることで生まれる人とのつながり。

 

自分を守る武器を持たないと。

個人的には

はみでる価値観→ここ伸ばしたい!

 

自分は暴力ではないものをどれだけ見つけることができるか?

自分は何を見て何を信じるのか?

 

何よりまず、逃げる。

そして別のものを作っていくのです。