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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

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タフラブ 絆を手放す生き方_心のバイブル

 

2022 信田さよ子 

バイブルと呼ぼうかと思っています。

タフラブ」(。・ω・。)ノ♡

 

タフラブって何かというと、「手放す愛」です。

著者の信田さんは、公認心理士、臨床心理士、いわばカウンセラーさんですね。

原宿カウンセリングセンターというところで顧問をされている大御所ともいえる方のようです。

何百とカウンセリングに来る人々を見て、信田さんがたどり着いたのが「タフラブ」です。

 

問題が生じた関係には、ちょっとお互い離れてみないか?というのがタフラブ

そうした方が、実は問題の根っこにある問題が解決したりするんだよと。

 

離婚という人生の大きな岐路が身に迫る今の私には実によかったです。

 

夫婦もそうだし、親子もそう。

特に親子がややこしいんだとか。

そういった悩みが私にもあるので、ふんふん私が思うことを論理的にまとめてくれてるーーー!!と感動した次第です。

 

そもそも「タフラブ」という概念は1970年代のアメリカで生まれます。

当時のアメリカでは、アルコール依存症という社会問題がありまして、そのなかで患者の家族が当人を構えば構うほど依存症から抜けれないという現実があったそうです。見捨てられない、でもどれだけ支えても酒がやめられないどころか状況は悪化して、家族は疲弊していきます。

 

それで依存症の家族を持つ人たちが自発的に集まって「どうしたものか」と考えた時に、「依存症は本人の問題で家族が抱えるものではない」という考え(事実)から、家族が当人から距離を置く、たとえば過剰な世話を焼かない、病院に行け、酒を止めろと言わない、などをしていったんですね。

そうするとなんと!自分から依存症治療に取り組み、依存症から脱する人が出てきた!

 

ということで、追い詰められた家族が知恵を絞って始めたのがタフラブなんですが、後追いで学者や医療界が「タフラブ」を科学的に分析し、薬物依存などの当事者を取り巻く対処のひとつの手法として広く認知されて行ったものだそうです。

 

で、1990年代くらいからは、依存症だけでなく、当時話題になりだしたDVですね。家庭内暴力の問題にもこれが取り入れられ、離れるべきなのに離れられない「共依存」的な関係を絶つための手法として大いに貢献したという話です。

 

いや、まったく知らなかったーーー!

そしてさすがアメリカ。

というのも、「酒とバラの日々」とか「リービングラスベガス」とか、アメリカ映画って結構、アルコール依存症をテーマにした映画があるんですね。それがなんでなんだろうとは思っていたんです。

 

で信田さんいわく、そもそもアメリカには「禁酒法」があって、不思議なものでその反動で違法なアルコール飲料に手を出す人が増えてアル中の人が増えたんですって。

だからアメリカにとっては「アルコール依存症」というのは時代を反映した社会問題だったんですね。

でさらに、アル中の人が増えた背景には、戦争があるんですね。

40年代の戦争といえば第二次世界大戦。70年代の戦争といえばベトナム戦争です。

 

ハンバーガヒル」「プラトーン」とかね「ランボー」もそうですね。観たらわかるように、軍人さんが帰国後に悲惨すぎる戦地体験を忘れられずPTSDになったりっていう。

そういう「お父さん、夫が病んでる」みたいな状況がありまして。

それによって平和で安全なアメリカでの暮らしであってもお父さんが大酒を飲んだり、うつになったりして暴れたり、暴言を吐いたり、働かなかったり、働けなかったり、自殺を図ったりなどなどの状況下で、戦争の被害者ともいえる彼らから、さらに被害を被る妻や子供が大勢いたわけです。

 

いつも思うんですよね。

トレイントレインだなと。

「弱い者たちが夕暮れさらに弱いものをたたく」です。

 

私が当事者として思うのは、夫のモラハラというのもそうなんですが、

夫婦の不仲(いさかい)を子供に見せてきた加害者としての自分もだし、

古い家父長制の固定観念から抜けきれない「世間」も、

この「タフラブ」という考え方、信田さんいわく「行動」ですね。

タフラブという考え方と行動が本当に必要だなと思います。

 

信田さんいわく、特に東日本大震災で「絆」が叫ばれだしたことがヤバいという話で、

この「絆」には、純粋な「つながり」という裏に、自己責任論が潜んでいるというね。

家族の絆に原点回帰するような潮流、「政府は関与しません」という責任転嫁の都合のいいスローガンになっちゃったんではという分析です。

で、そこにコロナがきて、今度は「距離をとろう」となったと。ただし「家族だけは密でOK」というこれはこれで「家族の絆」重視だよと。

 

まあそのあたりの理屈は、分かるような、分からないような気もするんですが、

とにかくですね。

家族、家族って言うけどさ(特に日本は)。

いっちゃん問題抱えてるのって「家族」だからね、というね。

「人間関係の事実(本質)を見ましょう」というのが根底にあります。

タフラブ」には。

 

自分と他者との関係の現実を見た時に、

家族はひとりの人間としての尊厳が守られている場所なのか。

親も子も夫婦も慈しみ合える居心地いい場所なのか。

「家庭内のことは不可侵」で見えなくなっていることはないか。

どこにあるのか分からない「あったか家族」がひたすら求められるのはなぜなのか。

 

このあたり、めっちゃ分かる!

過剰な幻想と理想を背負う「家族」にしばられ、現実は多くの人が不幸になってやしないかと。

 

でじゃあさ、「家族なんていらねー」「依存症の家族をほっとく」なんて、それって冷たすぎない?大人はまだしも子どもが捨てられたらどうなるの?家族はない方か幸せなの?

という発想も分かります。

信田さん曰くタフラブがいう「手放す」と、「見捨てる」は違うとのこと。

ここはすごく大事で、本書に出てくる例で分かりやすいのが、引きこもりの大人の息子を持つ夫婦の事例。

 

引きこもる息子をほっといたんですね。

それまでは父母は息子に干渉していたんですよ。ちょっと外にでない?働かない?

このままじゃ心配よ、このままじゃあなたはダメになってしまうよ、と。それで怒った息子がついに暴力を振るうようになってという危機的状況にあり。

 

で、信田さんのカウンセリングであれこれ働きかける(構う)のを止めて、そっと見守ってみましょうと。

実際に、この「構うのを止める」っていうのはなかなか難しいそうで(分かる…)

結構な忍耐力が必要とされるのですが、この親御さんはそれを頑張ってされました。

 

そうするとですね、息子が部屋から出てくるようになるんですね。で、食事を一緒にとるようになったんですって。

といっても、ここまでに1年以上の年月がかかっているわけですが(=゚ω゚)ノ

 

大事なのは、あれこれ言わない、構わないけど「あなたが話したい時には聞く」「助けが必要なときは相談に乗る」というスタンスは伝えておくこと。

それでいて、あなたの将来がどうとか、常識ではどうとか、ダメ出しとか、そんなことは一切言わない。ご飯を食べない、風呂に入らない、部屋から出ない、不潔で不衛生、一人で寂しい、そこは知りませんと。当人が背負うものなんだと。

 

で、信田さんが出したお題はもう一つ。夫婦で仲良くしてくださいと。笑って過ごしてくださいと。息子がどうしていようとも、私たちは関係なく楽しく過ごしているという姿を見せてくださいと。

 

これはね、シンプルに分かる!

誰がどうとか関係なく、なんだか楽しそうな場所があったら、やっぱり人間そっちに行きたくなりますものね。過剰に思い詰めた姿は、それがまた当事者を追い込んでいったりもする不思議。

 

でもこの「問題の当人」を手放す、見守るやり方は、理屈では分かっていてもなかなか難しいわけですよ。

信田さんのカウンセリングが大人の利用が中心だからか、子供の場合の言及がなかったんですが、私が思うには、愛着関係というのはやっぱり13〜14歳くらいまでは大事かなとは思います。

自分を隠さず安心して過ごせる場所、愛されていることがあからさまにわかる環境。

ただ信田さんが語るように、それが必ずしも血のつながりでなければならない訳ではないし、親子の愛着の関係も、大人側にまず、相手を1人の対等な人間として扱う姿勢があってこそです。

つまりそれこそがタフラブなわけです。

 

それは信田さんがさまざまな家族の問題を見てきたなかで、いちばん欠けていると感じたものなんだと思います。

1人の人間として認め扱う。

ここに大人も子供もないやね。

 

 

まあこんな風な「タフラブ」なわけですが、

この著作が実にためになった、実践していきたいというのはもちろんだし、

この本を読んだことで、離婚の社会通念による重い気持ちがものすごく軽くなったのは事実です。

今の行動は間違っていないと。

 

ほんとにね、日本だからか、どこでもそうなのか分かりませんが、いざ動こうとすると、「DVでもないのに」「子供のことを考えたら」っていう声にならない声みたいなものがうわ~~~っと押し寄せてきて、にっちもさっちも動けないみたいな感覚になるんです。

たとえば、離婚で大きな問題って財産分与なんですが。

「これまでのワンオペ育児家事の慰謝料」が請求できたらどんだけいいか、と思うんです。

でも法律に詳しい友達に相談したら、

「法律では、明確な証拠がない限りは勝てない」らしく、たとえば調停や裁判になった場合に、「日記で愚痴っているだけでは勝てないんだな」という事実にふんわりと落ち込むんですね。

 

「勝てない」というのは、「法律的には認めない」ということです。

法律は守ってくれない…というか、モラハラという苦しみや被害にまだ気づけていない、という感じ?

 

あるモラハラ被害の女性のブログでは、20年におよぶ夫からのモラハラとさらにDVにまでいっているのに、それで子供をおいたまま家を追い出されたのに、「子供を置いて家を出ている」という現実の事象を最重視されて、親権がとれてないんですね。

ケガの記録や暴言の録音、また実際の夫のおかしな態度の目撃者が沢山あるから全体には妻寄りで進むんだけど、最終的には一番望んでいた親権が取れないという。

 

それに「モラハラ 判例」でググってみても、そもそもそんなに出てこないです。

そして勝ったとしても50万とか100万とか?どうやって勝てたのかも分からないし(どっかで調べられるんでしょうか…)。

そもそもDVのように身体の明らかな被害ではなく、精神的な被害を証明するのが難しいから「モラハラ」という概念がじわっと広がっていると思うんですが、法廷でも聞き慣れないから、弁護士さんもあえて使わなかったり、まだまだって感じです。

 

「離婚」というだけでどっか「なるべく避けるのが正」という不文律があって、それがまだまだ司法の世界でも前提になっていて、女性や子育てする側の立場の弱さをカバーしてくれるようにはなっていないと思います。

父親がどれだけ子育てに、‘母親を支えながら’’参加してきたか?

親権、財産分与では8割くらいそこを重視してもいいと思うんですが?

 

こういう実際に何年もひどいめに合っている女性が親権を奪われたり、「あー日本っておせーなあ」という現実を知った時もなんだか底が見えない沼に落ちていく気持ちになるし、自分にあてはめたら、将来の経済的な不安含め、すべてがダメダメすぎて、なんにも前向きになる要素がないんです。

むしろ、ダメなところばかりが目について。

そんな日々の折、アマゾンのレコメンドに出てきた「タフラブ」を読んでみて、じんわりと思いました。

ダメじゃない。離婚は間違っていないと。

 

子どもたちには「家が増える」という風に伝えているんですが、それをどう受け止めているかは分からないですが、まず私自身が、「これで良かった」と信じないとですね。

 

とにかく「タフラブ」には忍耐がいる

特に日本では忍耐がいります。

これは間違いないです。

そもそも「タフ」ですしね。

tough =強い、固い、勇ましい、という意味もあるけど、厳しい、耐える、つらいって意味もあります。。

 

けれども、愛を手放すことは間違っていない。

手放すというのは言い換えれば、「他者」と「私」の境界をしっかり引いて、「他者」として認める、受け止めることなんだと思います。

それはとてもとても、一人の人間が今の時代を生きていくうえで大事なことだと思います。

 

あ、あと信田さんが書いていたことでもうひとつ印象的だったのがあって、

信田さんはカウンセリングでは「自己肯定感」という言葉は使わないそうです。

自己肯定感があろうとなかろうと、カウンセリングの成果や実際の利用者の変化にも、あまり違いはないそう。

それな。うっすら思ってました。「行動する」「行動を変える」という意味では、そうだなと。

 

※ただ信田さんは、「モラハラ」「自己肯定感」など最近のコトバを使いたがらない頑固さも感じるので、そこは年齢のせいもあるのかなとも(信田さんは70代でちょっとうちの母に似ている感覚な気がする)(*'ω'*)

でも言葉にはすべて、生まれてきた必然の背景ってのがあると私は思います☆

 

 

あ、それと、もうひとつ大事な「タフラブ」のポイントがありました!

それは「孤独」です。

タフラブな生き方はまた、孤独や寂しさがセットになっていると信田さんは語ります。

そらそうですね。

こういう風に他者と自分を線引きするということは、ある意味「独立宣言」であり、「孤独宣言」だから。

でも、思うんですよ。

どっちにしろ人って一人だよなと。

寂しいっていうのは、大人が背負う責任みたいなものだと。

大人が子供の分まで背負えることがあるとしたら、この寂しさなんじゃないかと。

でも子供に寂しさが分からないかってむしろ純粋に寂しがれるのが子供だとも思います。

私が子供の頃に、ひとり夕陽を見て感じた寂しさと、

私が一人で年老いていく孤独はそんなに違わない。

それを思い出したら、というか「そもそも人は孤独」という位置に立ったら、

そんななかで日々を生きている「人間」ってみんな優しいなあと思えてきたり。

寂しさとともに生きることも「タフラブ」のルール。