なんで私の気持ちが分かるんだろう?
たまに小説を読んで思うことがあります。
この作家は私の過去を見てきたのかしら
と。
夜中になると目が8個あってしっぽが4本ある真っ黒な怪物に変身する僕。
なんですが、内容は中学校の学級カーストでの戦いの物語です。ネタバレしてます。
いじめってテレビのニュースやドラマみたいな分かりやすい形をとることはむしろ少ないんじゃないかと思うんですね。
その真のえげつなさは、見えないものに支配された教室の「空気」にあると私は思います。
「同じ」ノリであらねば続かない会話、狭い世界の独特なルール、カーストポジションでの振る舞い方、上滑りする騒がしさ…
はみ出してしまう人間には過酷な教室の日常。
「目をつけられない」ためにどれだけ巧みに気配を溶け込ませるか、息を潜めていられるか。
その「空気」を住野よるさんはこの作品で描きます。ナニコレ、超分かる!!
読む私はあの時の息苦しさがフラッシュバックして涙が出ます。
私は主人公のアッチーと同じように直接標的にはなっていなかったのですが、それだけにアッチーの「みんなとずれていく恐怖」も痛いほど分かります。
中学1年のとき、いじめられっ子のOさんに回ってきた、内容は忘れたけど悪口を書き込んだメモ用紙を私はOさんに渡さず握りつぶしました。
そしたら次の日から一部女子からの無視が始まりました。
一部じゃん…な話ですが、カーストにおいてトップにいる派手グループの指示に逆らうことは、教室での死を意味します。
クラスには小学校からの仲のいい友達もいたのですが、たまたまケンカしていて、また彼女は部活中心に人間関係を持っていたからか?私は頼りませんでした。
たったそれだけですが、私の日常は大きく様変わりしました。
それでも仲良くしてくれる目立たないグループには入れたけど、元々派手グループにいた私のプライドなんでしょか…ずっと、なんでこんなことされないといけないのか、悲しみと憎しみと寂しさとみじめさ、いろんなやりきれない気持ちで中学校生活を過ごしました。
私は人間として間違っちゃいない、正しい事をしているなんて正論は、教室ではゴミです。
人が怖くなりました。
無視は一部で留まり、クラス替えもあって、一時期の出来事で終わったけれど、もう私は明るく振る舞えなくなりました。
よくある話かもしれません。
でもそれから息を潜めて過ごした3年は生きてきた47年の中でも2度と味わいたくない最も辛い時期だったと今振り返っても思います。
だから、アッチーにはむしろ目覚めるの遅いなあとも思うし、ついにアッチーずれてしまったか…と同情も禁じ得ません。
ほんとの話、いじめの空気って気付かない(自覚ない)あるいは関心のない人も確かにいるんですよね…その中でどんどん気づいてしまう、気にしてしまう自分がしんどい、て分かる。
またこれ小説には出てこないけれど中学3年っつったら受験生なんですよね。こういう状況下で成績が下がったり、親からやいやい言われたりした日にゃ、もう。
大人になって思うことはいろいろあります。
まず、私の場合は第三の道を作れば良かったのかも。
部活もすぐ辞めて、ほかに人間関係が薄かったから余計に負に飲み込まれたのかもと。
部活でなくても、何か自分が好きに思えるモノや場所を作ることはとても大事だと思います。
大人になっても大事。
もう一つは、私はこれが何より大事だと思うんですが、生き抜くことです。
「よるのばけもの」で保健室の先生が言っているまさにそれです。今目の前にある辛さの中を生きている人間に、生き抜け!なんて、なんのなぐさめにもならない無責任なセリフです。
確かにそうです。なぐさめにはならないのです。
でも今私が確かに生きていて、あの辛い時期を超えて今があるのは、あの当時を生き抜いた自分のおかげです。事実です。
自分、ありがとう。
それを思うと、いじめられても学校を休まず、教室でおはようと声をかけ続ける矢野さんなんかは、もう人間の域を超えた神か?くらいにすごい人で。
もし現実に中学時代に矢野さんがいたら、私の中学校生活も全く違っていただろうと思う次第。
崇拝していただろな_:(´ཀ`」 ∠):
それもどうかって話だけど。
生き抜けば、いいことはあるのは確かで、私は高校3年の時に素晴らしい友人と出会えました。
まさに矢野さんみたいに芯のある強い友達です。
新しい出会い。それだけで世界は変わる。
でもまず生き延びねば。自分がどれだけ無力でも、抑圧に窒息しかけても、空気穴を見つけて生き延びる。
今の時代がまだ良かったと思うのは、学校に行かないという選択肢が、30年前より浸透していることです。
ほんとに。
言葉の通り、何がなんでも生き延びる。
そういう切羽詰まった3年間。
「よるのばけもの」の優れた点はもうひとつあって、それは「矢野さん」の描き方です。
矢野さんはまさに神がかった「いじめられっ子」なんですが、アッチーから見れば、だいぶクセのある人物なんですね。
話す言葉のイントネーションが変。人の話は聞かない。的外れに人に絡む。いつもにんまりしている。猫背。
ここにちょっとした「汚れ」だったり、「いい加減さ」だったりが入ったら、いじめの対象になりがちです。
世の中には「いじめられる方も悪い」という解釈もあって、たぶんその理由としてあげられるのは、その他大勢と異なる、その人のやっかいさ。
でも、たとえいい加減でもクセが強くても、人の話を聞かなくても、苦手だったとしても。
それを理由に敵意と悪意をぶつけていいわけじゃない。
そこに何の正しい解釈はないわけで。
相手が誰だろうと、飲みかけのコーヒー牛乳のパックを後ろから投げつけていいわけ、ないんです。先生にあげるプレゼントを踏みつぶしていいわけないです。
集団で無視をしていいわけもない。
住野よるさんはそこをよくわかっていて「なんの落ち度もないのに(いじめられている)」という冠を、矢野さんにはつけなかった、と私は思います。
クセがあるからって、大勢と違うからって、同じでないからって、「だから、なんだってんだ」って話です。
同じことをしていないと、同じ考えでないと、同じ格好でないと、安心できないことの底なしの怖さ。
じわじわと「他」を排除していく空気。
内容、時代、形、人間、すべて違っても、かつてのドイツにも、自分の通っていた教室にも、確かにあったんじゃないかと思います。
そしてその「違いへの嫌悪」は私の中にもきっとあります。
だから注意深くいなければいけません。
自分自身の「正しさ」にも。
ということで、住野よるさんに、またまたしてやられました。素晴らしい作家です。
余談:なんだか急に言っておきたくなったので。
生粋の陰キャだった私と中学生当時、友達でいてくれた、ちょっとヤンキーのRちゃん、幼馴染の腐れ縁で世話好きのCちゃん、同じくいじめられ対象だった足の細いEちゃん、頭がよくてかわいいのに野口さん(ちびまる子ちゃん)キャラのM、学校さぼりに付き合わせてばかりいたTさん。みんながいてくれて、私は生きのびれたと思っています。ありがとう。(※遺言ではありません('ω'))