作者買いしました。
凪良ゆうさん。「流浪の月」良かったので。
「流浪の月」とはなんだか違いました。
1ヵ月後に惑星が地球にぶつかり滅亡する。
その時に日本で暮らす5人の物語です。
私がいちばん最初に浮かんだのは「アイアムアヒーロー」という漫画です。
これはいわゆるゾンビ化の世界崩壊の物語。
怖かったなー…映画化もされてましたね。
何が怖いって、結局滅亡とか崩壊する世界って、暴力に溢れちゃうんですよね。
で、その暴力が自衛手段として肯定されていくわけですよ。だってやらなきゃやられるわけですから。
だからね、人って絶望したら、地球自体はまだぴんぴんしていても、人間さまが自ら崩壊していくし、自ら滅亡の道を歩み始めてしまうんだなぁと。
悲しいです。とことん。
でも「アイアムアヒーロー」は滅亡はしなくて、生き延びてやる!っていう希望があるんですが、「滅びの前のシャングリラ」は、完全、希望を失ってしまっている事実を前提としています。
それが故に読む方も、最後に惑星が地球からそれるかも?などの大どんでん返しを期待したりもするんですが、そーなる感じもなく崩壊した社会の暴力が加速していきます。
じゃあどこにシャングリラ=理想郷があったのか。
私ならもう出てきて次のページで死んでるキャラです。1ヵ月の最初の1週間と生きていれない気がしますね。すぐ心がやられちゃいます(´∀`*)
きっとスーパーで買い物した帰りなんかに襲われて。食べ物とか電池やらカセットコンロを奪われて、刺されて道端に転がってるはず。
そんなくらいに、暴力社会を生き延びれる気がしないし、自分のバイタリティも希薄です。
そんなびびりでバイタリティのない私は、この作品に正直、いくつか微妙に違和感がありました。
一つには私がお気楽な考え方なだけなのかもしれないですが、私が思う終末世界は、この物語ほどシンプルに絶望が蔓延している世界ではない気がしています。
いくら何万メガトン級の惑星がぶつかるって聞いたとしても、人類の多くはその事実を受け入れないのではないかと思うから。
たとえば「デイアフタートゥモロー」という映画では、これも人類が滅亡に向かう話なんですが、滅びの前に異常気象が続くんです。
それが故に人々は最期を迎える前にすでに数々の天災に巻き込まれていて、絶望的な展開を身に染みて体験しているんです。
かたや、「滅びの前のシャングリラ」は、地球滅亡を知る場面がニュースでしかないんですよね。天候が秋なのに急に雪が降って氷点下に変わったり、竜巻起こったり、空に惑星が浮かんでいたりは全然せず、政府発表やメディアのニュースの情報だけを発端にひたすら人々が絶望していって社会とルールが崩壊していきます。
そんなメディア通じたものだけを信じる人ばかりかなぁ…と。
人間は割とリアルに実感する自分事ではないことにはお気楽な部分があったり、特に日本はことなかれ的な面があるので、見て見ぬふりと言いますか、作中にも出てきますが、横で誰かが殴られていても、誰も助けないみたいになるわけで、そーゆーいざという時ですら他人事として捉えがちな面があるのに、ニュースを鵜呑みにして絶望一色にってならない気がするんですよね。
それがいいのか悪いのかはともかく。
もちろん世の中は間違いなく平時より荒むには違いないんですが。
もう一つには、ポジティブな社会的活動が描かれていないところです。
いま、コロナ禍という現実社会も、失業や貧困が増えています。日々の閉塞感もあいまって、ゆるゆると人類を蝕んでるようで不安になります。
その中で、プラスへ向かおうとする活動もあります。フードバンクが地域のあちこちで生まれてたり、支援策が打たれたりのニュースもあります。
人類は滅亡や斜陽を前に"個"の要求ばかりでなく、かたや作中に出てくるアブない信仰宗教のようなネガティブなものだけでもなく、社会としてのポジティブな動きもあるんじゃないかなぁ。と。
平和ボケと言われたらそれまでですが。
あともう一つ。
まだあるんかい。
いちばん分からなかったのは、この物語が終末の暴力社会を描くことで何が言いたかったのか?の部分です。
私がこの物語に「アイアムアヒーロー」の既視感を感じたのは、平時には冴えなかった若い男子が、有事を迎えて女子を守り活躍するって展開です。
なんだろう。語り手は4人いて男性だけでなく女性パートもあるっちゃあるんですが、男女別なくその全部が暴力をあまりに自然に受け入れすぎというか、暴力世界ってのはつまり、考えることやコミュニケーションや他者への信頼を奪われた圧倒的なチカラで支配される世界な訳で、それが突如起こる。
つまり戦争状態と同じです。
誤解を恐れず書くならば、長く平和が続いていた日本が1ヵ月たたずして、シリアの内紛時みたいな状態になると想像することができますか、という厳しい問いかけがそこには生まれてきます。
そこの説得力?
シリアのニュースを私たちがどれだけ切羽詰まって感じているか、そこに暮らす人たちが何を思って日々を生きているだろうと想像するのに似ているといいますか。
戦時中の日本でもいいです。空襲や沖縄の地上戦でもいいです。
つまり、とてつもなく複雑で難しいんですよ。
暴力社会で絶望の中の希望を、想像するのも描くのも。
平時には冴えなかった男子の有事ヒーロー化物語が嫌いな訳ではなく、「アイアムアヒーロー」なんかは世界も人間も、とても丁寧に描かれていて素晴らしい作品で、むしろ優れた作品もたくさんあると思ってはいます。
ただ今回、「流浪の月」からの作者買いだったわけで、あれ?私は既視感のヒーロー化男子が読みたかった訳じゃないけども…と正直違和感がぬぐえず。
人間の絶望と希望の奥行きと複雑さと底なし具合とそれを想像する難しさと息苦しさを文学だからこそどう描くか、そこすごい大事だと思います。
でも、そういった登場人物にシンクロして、息苦しくなるような、自分に返ってくるようなケツの座りの悪さ、居心地の悪さ、苦々しさみたいなのが全然なくて。
あまりに登場人物たちの行動に迷いがなくて、人間らしさを奪われていく恐怖がなくて、なんも考えない世界にすぐに染まってしまえば絶望しないで済むのか?そう言いたいのか?と読んでいて分からなくなってきて。
いろんなこと考えながら読んでいたら、よく分からないうちに世界は勝手に絶望して、勝手に混沌として、で「絆を取り戻した家族愛」みたいなものに割と強引に結論として引っ張り上げられてしまったと言うか。
どこに絶望を感じ、どこにシャングリラ=理想郷=希望を感じたら良かったのか、私にはいまいち、すんと胸に落ちるものがなかったです。
早い話、あんまノレなかったんかな…
という屁理屈の文句ぽいことも思うんですが、そんな気難しい話じゃなく、終末エンタメとして楽しみたい!という目的ならば面白いでしょうし、今ある平和な世界で当たり前の大切さに気づかせてくれる、ってことで良いのではというならば、まあそれはそれで有りなのかな(^_^*)
<追記>
最期の、何故に主人公たちの暴力をすぐ受け入れる姿に関して、後から、主人公たちは、いじめや親からの虐待や芸能界の搾取とか、すでに平時に厳しい現実を生きている人間だから、有事に活躍した…みたいなことで、すんなり有事の暴力社会を受け入れた体なのかな?とぼんやり考えました。
それでいうと、思い出したのは村上龍さんの「半島を出よ」。
過酷すぎる人生を背負ってきた少年たちが北朝鮮の潜入部隊と闘う、ぐわんぐわん来る物語。
すべてにおいて深く唸らせる物語です。