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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

人生とはカラメルのないプリンです

 

「君の膵臓を食べたい」は読んでなくて、浜辺美波ちゃんの映画は観ました。

 

結論。ネタバレあり。

めちゃくちゃ良かったです。

 

今回はもうすぐ入院の娘のために、軽い一冊を探して、いつものようにまず自分で読んでみたんですが、住野よるさん、良かったわあ〜(о´∀`о)

 

ラノベ上等なつもりで読んだんですが、期待?を裏切る巧みさと深みがありました。

 

オチはだいぶ最初に気づいたんですけどね?( ̄∀ ̄)←自慢

 

小さな伏線に気づいたりするのも読書の楽しさ。

 

住野さんの文章、初めてですがリズミカルで小気味いいです。するする入ります。

 

主人公は小学生女子で、一人称で書かれていて、まんま小学生が作文書いてるみたいな文体で進みます。

絶妙におとぎ話ぽい「ですます調」と、男性女性のステレオタイプな口調の違いを意図的に分けて書かれた会話部分、物語が現実と夢の狭間な感じを上手く溶けこませています。

 

この主人公の小学生なっちゃんは、本が好きで、友達がいないです。

 

大人の言動や自分が不思議に思うことへの好奇心と追求が強くて、ちょい屁理屈をいうタイプ。

 

でもクラスで弱いものイジメをする男子を論破するような強くてカッコいい女の子でもあります。

 

こまっしゃくれていて、子供の頃の自分に似ているなぁと共感しながらも、当時の自分にはなかったなっちゃんの強さに憧れも抱きました。

 

でもなっちゃんは私以上に友達がいない。

なんせ、口が立つし、ちょい上から目線(笑)。

 

後半、アバズレさんになっちゃんの短所をずばり当てられて、なっちゃんは雷に打たれたように衝撃を受けますが、似ている私も同じように衝撃を受けました。

いやでも確かに。

 

アバズレさんはなっちゃんの大人の女友達。

木の家に住むおばあちゃんも。

 

物語の主題はなっちゃんが国語の授業でやっている、幸せとは何か?を考えるというそのものでしょう。

 

大好きな大人の友達たちとのやりとりのなかで、なっちゃんは幸せを探していきます。読みながら一緒に自分も幸せが何かを考えます。

 

主人公とともに歩いていきながら読書できるのは、いい擬似体験であり、思考のトライ。

 

子供の頃の私は、誰からも好かれること、友達がいっぱいいること、それが正しい「私」のあるべき姿と思ってきました。成長するにつれて、そうできない自分がそれに相応しい要素がないんだと気づき、そんな自分が好きになれなかった。私を認めてくれない周りを憎み見下し、憎んでいた周りの誰よりも自分が好きになれなかった。18歳でやっと、息苦しいのはなんだそういうことかと気付きました。

 

でもなっちゃんは自分の鼻持ちならなさを指摘されても、友達とぶつかっても、クラス中から無視されても、自分を嫌いには思わなかったんですね。

 

ここが何より大事な部分で、周りからの評価で自己判断を左右されない、なっちゃんの思考の深さ、住野さんの思考の深さです。

 

誰からも、好かれなくていい。

たった一人でいい。

目の前の大事な人だけはきちんと理解したい、味方でいようと。自分自身も含めて。

 

いま大人になってそれができているかと言われたら私にはまだまだで、人生とは、大事なものを見極め選びとっていく枝分かれの旅だなぁと感じます。

 

「人生とは」はなっちゃんの口ぐせです。

 

人生はカラメルのないプリン。

カラメルがイヤなら最初からカラメルいれなくていいじゃん。

 

日常のお菓子がたくさん出てくるのも、なんだかホッとします。

 

ライトなはずのラノベに、いや単に表紙がアニメイラストだからそう解釈していますが、ラノベではないかもです。いやでも読みやすさと主人公の年齢で言えばラノベかもしれない。

 

どっちでもいいけど、読めば深くてどっしりおはぎな住野よるさん作品でした。小豆がスッとする甘さの。

 

また住野作品、ぜひ読もうっと。

海の上からみる「人間たち」

 

三人の夫(字幕版)

三人の夫(字幕版)

  • クロエ・マーヤン
Amazon

 

前情報見たけど、いうほど、というか全然エロくなかったです。

 

でも家族で観るのはやめとくべき(о´∀`о)

 

物語だけでいうと、海の上で暮らす過剰な性欲をもつムイが父や年老いた夫に売春させられてて、ムイを好きになった客の青年が地上にムイを連れ出したけど、馴染めなくて結局海上生活に戻って売春するしかない、みたいなところですが、エロいとかより、底辺の暮らしをよくこれだけカラッと描けたなあと。

 

香港で貧困層のさらに貧困といわれる海上生活者というのがイメージがつかなかったですが、実際にはこんなにカラッとはしてないんでしょうね。

そこは映像のマジックというか、何を描くか、というフルーツチャン監督の意図なんだけど。

 

全体には見やすいし、理解しやすいし、いろいろ頑張っても空回りする底辺の暮らしを、空回らせながらも全く希望がないわけでもないラストだったかなと思います。

 

特に役者さんが全員とてもいいです。

ムイ役のクロエマーヤンさんは、役のために14キロ太ったらしくまたこう、それがムイという存在を絶妙に際立たせる効果が確かにあって。

 

フルーツチャン監督が何をいいたいのかは、本当のところ分かったのか分からないですが、ただ人間の尊厳とは何かは考えさせられます。

 

字面でも実際にしても、ひどい暮らしといえるムイの、香港の海を走る船の上での凛とした美しさ。

きらびやかな香港の大都会のきらめき、ディズニーランドの花火、海に暮らす彼らしか見れない景色。

 

映し出された香港の夜景はただただ美しく。

 

ムイたちの位置が自分の立ち位置でないことに、果たして本当に安心していいのか。

自分の日常の隣にある全くの異世界に、さああなたは何を見る?と。

 

フルーツチャン監督が描くムイは、決して虐げられた者の表情はしていません。

 

そこに生きる人がいる現実をフィクションでどう掬い取るかは、受け取るかは、見る側に委ねられています。

 

海の上だからこその、競争のアウトサイドだからこその、ゆるやかさとあやうさ。

 

ムイのこの先にずっと、凛とした孤高の尊厳を奪う出来事が来ないことを祈りたいです。

 

 

生きづらさやら貧困やら。いろいろひっくるめたうえで、第三の道は可能か「他者の靴を履く」ブレイディみかこ

 

 

 

他者の靴を履く 2021 ブレイディみかこ

 

 

第3の道。

 

というものがあればいいなぁと思っています。

 

既存のものではない、新しい選択肢。指針。あるいは人生。

 

初めてのアナキズム入門というには、理解がまだまだでしょうが、

本書はエンパシーとは何か?を探究しつつ、アナキズムを謳うエッセイです。

 

内容は「エンパシーとは何か?」を入り口にしています。

 

アナキズムもエンパシーも、これまでの自分の人生にほぼ登場してこなかった言葉なので、むしろアナキズムって訳せば無政府主義

「若者が斜に構えて既存社会を否定しながら一匹狼を気取る」あるいは「テロとか暴力につながりやすい人」みたいなイメージでしかなく。

 

エンパシーにいたっては、何それ?状態なのですが、そんな私にみかこさんがいうには、それが「他者の靴を履く」ことなんです。

 

エンパシーはヨーロッパでは非常にポピュラーな考え方らしいです。

多様な解釈も歴史的背景もあるので複雑なんですが、私の解釈でシンプル化すると、他者への「共感力」です。

 

この「エンパシー」は「シンパシー」と混同されやすいけど、実は全然違うらしいです。日本では同じ「共感」と訳されることも多いそうで。

 

で。どう違うかというと、シンパシーは自然とできる気持ちとか気分のシンクロみたいなもの。

エンパシーは自分とはかけ離れたものにも意識的にする想像というか。

私はそんな理解をしましたが、本当にそれで合っているかは読んでもらうとして。

 

さらにエンパシーは大きくは二つくらいに分けることができまして。(本では細かくいろいろ出てきたけど省略)

 

ひとつは、自分と共通することがある、距離が近い他者の状態や感情に、自然と共感できるエモーショナル・エンパシー。元から人間に備わっている共感する性質。シンパシーに近いっすね。

 

もうひとつは、相手との共通点や距離に左右されずに、自分の意志や努力で、他者を「もし自分があの人だったら」と感じてみるコグニティブ・エンパシー。

こっちは性質ではなく、後から身につける「能力」です。

 

ほう。

 

エンパシーというワードは耳馴染みなかったものの、この2つのエンパシーの違いは確かに感じてきたなぁ!と実感があります。

 

たとえば子育てしている私が、子育てしている友達や女性の日常を想像するのと、シリアの難民のおじいさんの暮らしを想像するのとはどちらがやりやすいかって、そら前者です。

 

でも「コグニティブ・エンパシー」は、後者をやってみることで、要するにそれが、「他人の靴を履く」という例えになっているわけです。

 

で、みかこさんはこの「コグニティブ・エンパシー」の方に注目して、いろいろ考察を重ねていくんですね。

 

で、みかこさんいわく、コグニティブ・エンパシーは備わっているものではなくて、後から身につけていくものなので、その能力をみがく機会や教育って大事だよっていう。

 

これ本当、納得です。

 

で。

 

いよいよ「アナキズムがどう関係すんだ?」って話、これ本当に、後半でやっと気づいたんですが、要は、みかこさんはアナキストなんですよ。

 

で、その研究みたいなのをやっていて、いろんなアナキズムを研究している社会学者や哲学者の文献を引用されています。

 

もうね、最初、その学者さんたちのダレ?感というか。まあまあ理解に時間かかりました(;^_^A

 

ただ後半に入り!

「みかこさんは、エンパシーとアナキズムのことを話したいんだ」とやっと合点して、点が線となってからは、ぐいぐい引き込まれ(だいたい理解が遅いから、後半からぐいぐいが多いよね・・・)、慧眼しきり。

 

そして私がたどり着いたのは「アナキズムっておもろいな」ということです。

 

みかこさんの考えるアナキズムは要は、既成のシステムに頼らない「人とのつながり」を重視した考え方なのだと思います。

たとえば、政府が今やっている経済政策、社会制度と保障対策などが十分なものとは言えない場合。

地べたの市民運動や底辺から生まれた助け合いみたいなものが威力を発揮するような社会。

コロナがそうですよね。

子ども食堂ができて、フードバンクができて、とか。

ちょうどみかこさんもイギリスでコロナを体験して、失業者とか困っている人があふれるなかで、市民の助け合いを体験したようで、そこに地べたの「底力」を感じたそうです。

 

で、みかこさんが言うには、そこにはコグニティブエンパシーが必要で、総じてアナキック・エンパシーというのもが大事だよと。

 

「桃から生まれた桃太郎が鬼を退治しました」くらいに、かなりざっくりした説明なので、詳しくは読んでくださいとしか言えないんですが、ここが大事!と思ったポイントをあげます。

 

生き残れ!地べたの者たちよ

私たちは基本、似た環境や同じ境遇だった場合にシンパシーを抱くけれども、そうではなくて、むしろ敵対していたり、嫌いだったりする人に対しても意識的に共感することは可能なのです。

たとえば私がトランプ元大統領を嫌いだとして、でもトランプ大統領だって、家族はいるし、子供に幸せになってほしいという気持ちは同じだろうし、子育てに悩み、眠れない日だってあるでしょうよ。

 

そういう感じでしょうか。

 

ちょっとウソっぽい例になりましたが(´∀`*)

 

この究極の例として、みかこさんは金子文子さんの獄中エピソードをあげています。

金子文子さんは大正時代のアナキストらしい(ウィキペディアより)です。

で、文子さんは自分がひどい目にあうなかで、獄中の看守の暮らしを想像するんですよね。

 

「塩からきめざしをあぶるよ 女看守の暮らしもさして 楽にはあらまじ」

 

という言葉を残しています。私を見張るあなたの暮らしも質素で楽ではないんだろうねと。

まあ私はこの金子文子さんの言葉以上に、金子文子さんという人を知って、衝撃を受けたんですが。みかこさんがなぜ、金子文子さんという大正時代の女性を本に登場させてきたかというと、「女たちのテロル」という自著に書いてたようです。

 

で、この金子文子さんの話が要所要所に出てきます。

これが・・・インパクトすごい。文子さんは日本で生まれた朝鮮人で、まあいわゆる差別もだし貧困もだし、虐待もだし、そういう過酷な幼少期を経た結果、アナキストになるわけです。そして文子さんは若くして獄中死するんですね。

壮絶です。

 

でもみかこさんが語るのは、そういう壮絶さ=アナキスト ということではなく、「他者の靴を履く」文子さんなんですね。

 

みかこさんは、通俗的固定観念アイデンティティにしばられない、想像力豊かな文子さんという人の根底には楽天性があったと言っています。

 

私が読後に強く残ったのは、ひとつにはこの「楽天性」。

過酷な人生を送ってきた人が、生きるために身に着けた、明るさというか、光への気づき。

でもこれってすごい大事だなあと。

 

この過酷な状況下での楽天性なんですが、誤解されがちな「どうにかなるなる~」という無責任ではないんです。

なんというかな。自分を信じる力というのかな。

「どうせ無理だ」という状況のなかで、ナニクソとあきらめないというと「根性」なんですが、そうではなくて、「絶望だと思っていたそこに、愛すべきものがまだあった」みたいな気づきができることです。

心の柔らかさですね。

だから、文子さんがやったような、まったく異なる他者への共感、コグニティブ・エンパシーは、他者のためではなく、自分がこの楽天性を持つための大切な要素とでもいいますか。

 

みかこさん曰く他者への共感ができるということは、利他主義ではなく、利己主義でもあると。

つまり、共感は、「誰かのために」もあるけれども、同時に「自分のため」でもあるんだよと。

 

日本でいう「情けは人のためならず」ですね。よく誤解されている「ことわざ」の例題で出てくるやつ(*´▽`*)

 

「人に情けをかけるのが大事なのは、他者のためではなく、かけた情けが自分にめぐりめぐってくるからだよ」っていう意味ですよね。

でも同時に、人のためでもある。どっちもある。というのがみかこさんの主張です。

 

つまりみかこさんのいうアナキックエンパシーとは。

どうしようもない政府や社会システムの限界のなかで、地べたの自分たちが生き残るのに必要なのは、このコグニティブな想像力、エンパシーと、既成のものにとらわれない自由な生き方じゃね?と。

言いたいのではないかと解釈しています。

 

ということで「生き残るために必要なもの」

他者への想像力、楽天性、とらわれない自己&自分の選択

 

「プリズンサークル」と赤ちゃんプログラム

みかこさんは、コグニティブエンパシーを実践で取り入れる動きをいくつか紹介してくれています。

そのひとつとして、坂上かおり監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」も例に出しています。(プリズンブレイクではありません)

 

prison-circle.com

これはコグニティブエンパシーを受刑者の更生プログラムに取り入れた島根県の刑務所のドキュメンタリーです。

「島根あさひ社会復帰促進センター」という刑務所では、受刑者同士の対話を通して、犯罪の原因を掘り下げる「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを、日本で唯一導入しています。

 

このTCでは、受刑者が被害者の家族の役を演じるそうで、このことから被害者の立場を想像する=他者の靴を履く を実践しています。ようやく被害者の気持ちを想像する→犯した罪を理解するという作業を行なえるようになったという受刑者が多数出たそうで。

でも、導入がなかなか広がっていかないそうなんですが、欧米で広がっているこの「TC」を、よもや日本が取り入れたこと自体に、みかこさんは驚いたそう。

 

分かる。日本てね。。。なんでもね、遅いし、カタイ。

 

で、この「プリズンサークル」絶対見たい!!と思い上映状況調べたけど、近郊でやってるとこなし。(初公開は2019年)自主上映会とか各地でぼちぼちやってるようなんですけどね。。

Amazonプライム、有料でいいからやっておくれよ。。

 

 

 

もうひとつは、みかこさん在住のイギリスの「ルーツ・オブ・エンパシー」。これは赤ちゃんを囲んで、その気持ちを小中学生が語り合うというもの。

ボランティアの赤ちゃんとお母さんを招いて、緑色のブランケットを敷いて、赤ちゃんをそこに寝そべらせ、みんなで囲んで「赤ちゃんは今どういう気持ちでしょう」というのをやるそうな。

これで大事なのは、赤ちゃんの気持ちを想像するよりも(それは兄弟とかですでにできている子どもも多いのではとみかこさん談)、それを「話し合う」ということではないかと、みかこさんは言います。

 

学校のなかで子供たちが「彼彼女が今どういう気持ちか」などと話し合う機会はあるだろうか?と。「感情を表現すること」「解決策を話し合うこと」は非常に大事で、しかも進んで言う気になる環境を大人が用意する必要があると話します。

 

キーワーカーとブルシット・ジョブ

コロナ禍でイギリスで注目されたのは、スーパーの店員さんやタクシーやトラックの運転手さん、医療従事者、福祉・保育所・学校の先生で、彼らをキーワーカーと呼ぶそうです。

 

日本じゃそこまで取り上げられてないですが、でもピンとはきます。テレワークとかできない、みんなの生活に必要なことをしている人たち!なわけですね。

 

でも往々にして肉体労働や低賃金の労働だったり、階級システムが根強く残るイギリス社会のいわゆる労働者階級である労働者をキーワーカーとしてたたえよう〜という動きがあるというのは、さすがにイギリス!です。

日本ってそんなのなかったですよね。

一方、デヴィッド・グレーバーさんという社会人類学者が書いた『ブルシット・ジョブ』という本が話題になったと。

 

 

ブルシット・ジョブとは、いわゆるホワイトカラーの仕事です。

「ホワイトカラーの仕事のほとんどは無意味だ!」と言ったのが、このデヴィッド・グレーバーさんなんですね。

 

で、このホワイトカラーがコロナという有事の際に、本当に役に立ってないよねwみたいなことで、がっかりされたという。

 

そういうことをみかこさんは紹介しているんですが、すごいおもしろいなあと。

センセーショナル!

まさかの価値観の転換ですよね。

でもみかこさんは、あくまで「地べた視点」なんですね。

グレーバーさんが出版したのは2018年ですが、まさにこのことがコロナで証明されたなと。

主にイギリスのですが、経済についても結構突っ込んで書かれています。

 

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ということで、盛沢山の発見と気づきと慧眼の本だったです。

そして、第三の道ですよ。

 

みかこさんが主に語るのは日本じゃないイギリスの事情です。

でもイギリスだってヨーロッパだって、同じように虐げられている人、社会的に弱い立場の人、貧困、差別、他者への視点の希薄さ、異なる世界同士の対話のなさ・・・日本と同じように問題なんだなという発見がありました。

 

このことの発見は私には大きくて、なんでも欧米がいいってするのでもなく、人間社会の共通課題なんだなということ。。

 

でもそこで、声を上げることや地べたの暮らしに視点を落とす、自分の生活に照らし合わせることの意味なども深く考えされられました。

 

みかこさんは、そういうごったごたのカオスの世の中にも、生きてく術はあるといいます。

 

アナキズムとは、結局なんなのか。私たちの社会にあると思っているような「中心部」など、実は実体がなく、個々の動きがつらなって、補いあって全体を作っているというのが社会だと、伊藤野枝さんは語ったといいます。

 

伊藤野枝さんは、金子文子さんと同時代の同じような生きざまの女性なんですが、私も実は栗原康さんの本は読んでいて野枝さんは知っていて、野枝さんについてはまた書きたいと思います。

 

 

 

人同士で、組織で、垂直ではなく「水平」でつながる方が社会はよくなるよいうみかこさんの考えは、常々私も思ってきたことで、

ああ、だから私は管理されるのが嫌いなんだな、

私もアナキストの気があるなあと、読んで思いましたww

 

もちろん既成のシステム、政府に地べたからモノを申していくのはとても大事。

そこから逃れて、勝手に生きていくことは現実できないから。

でもそこには覆らない大きな壁もあるし、どうしようもない現実もある。

 

でもそこで別の視点に立ってみる。

自分自身のなかで精神の自由を試みてみる。

 

つまり、私が思う第三の道とは、既成概念、固定観念、そういったものを取り払って、他者を想像しながら、水平な視点で日常をおくること。

 

自分の人生で実践するということです。

 

もしかしたら、何かを選択するときに、私自身が本当は望んでいないのに自分をしばっている判断があるかもしれない。

そして勝手にがっかりしているかもしれない。

だとしたら、自分が自分をまずは自由にしてあげる。

 

最初は「アナキズム~?」と思ったけど(∩´∀`)∩スミマセヌ

自分の可能性をとても強く感じられた読後感でした。

 

 

※余談ですが、日本のアナキズムの初心者に向けたいならば、帯とか序文とかで説明をつけたほうがいいと思います。日本じゃ「アナキズム」が変なイメージのインパクトあるから避けたのかなあ。

これは30年以上前に日本を飛び出し、イギリスで庶民の暮らしを体験してきたブレイディみかこが、「他者の靴を履く」=他者を想像するエンパシーという能力と、既存のシステムにとらわれないアナキズムが溶け合った先の地平に生まれる社会と個人の生き方を指南した書である。

 

勝手に解説文考えました

投票券なくしました

総選挙の投票の入場券が見当たらないです。

 

ちらしと一緒に捨てたかなぁ涙

 

投票 券 なくした でググッと調べたら

別に券なくても会場行ったら投票できるらしいです。

 

と栃木県の選挙管理委員会ホームページに書いてましたので、栃木県とは縁もゆかりもないですが、気にせず投票行こう〜と思います(*´꒳`*)

 

あと、各党の公約調べたけれども、分かりやすいのがなかなか見つけられなかったから、

夫婦別姓だけ、どうかなって調べたら、

鴻上尚史さんの裁判官で、現行の夫婦は同性であらねばならないという制度を合憲とするか違憲とするか別れてるから考えてね、という記事みて、

これだけは参考になるなと。

 
いつも総選挙のときに裁判官をマルペケするやつがセットになってる、アレか!と。

そいや20代のときは、アレの意味が分からんかったよなぁと。

 

とりあえず99%が有罪の刑事裁判の実情はおかしいのは分かるので、ペケしていたけど。

 

で今回、夫婦別姓オッケー判断の人は、

宇賀克也裁判官、草野耕一裁判官、三浦守裁判官の3名(宮崎裕子裁判官は残念ながら定年退官されたようです)

てことなので、この裁判官はマルしよう(^_^)

 

で、議員と比例です。

とりあえず話題の選択制夫婦別姓制度でしょ

あと貧困と子育て。

でもまあまあどこも前向きな事ゆーんですよね。

ただ経済、経済ゆーてたのがコロナ禍の今回は、与党も福祉重視寄りに寄せてる気するし…

 

再分配とか、意味が全然分からないわけじゃないけど、で具体的に何をして再分配するんすか?

ってマニフェスト読み込まないかんのー?となり。

 

ということで、具体的に何をするか明確にメディアが書いている、とかキャッチーで分かりやすい言葉で訴えているか、とかがもうすごい大事になってくるんですが、

国全体に、選挙をわかりやすくしたいという感じがないのがね…

選挙権というものは、一般市民が必死に勝ち取ってきたものだろうに、戦後は、行かなくてもどうにかなるから感をふくらましてきた訳で。

 

「行ってもなんにも変わらない」という考えは、結局、政府の手のひらで転がされてるとは思うんです。

そんな考え、「幸せごっこ」してきた日本だけじゃないかなと。

たとえば、自分が投票しても結局、与党が勝つやんとか、よう分からないけどじじばばにだけ人気のおっちゃんが毎回通るよね、みたいなのは、そらあるんですよね。

 

小選挙区制だから1人しか当選しないし、モチベ下がります。私も。

でもある時気づいたんです。

 

えー落ちたけど、20万人もこの人に投票したんかーと。

てことはです。

私以外の199,999人もガクーとしてるんだなぁと。

 

たとえば田舎なんかはほんとに100人とかの差で勝ったり負けたりしましよね。

だから、選挙結果って本当の民意の結果、ていうより、この負けたけど、こんだけ当選したあなたではない人を選びました、ということを公表する意味もあると思います。

 

あと問題は、やっぱり、分かりにくいのと、面白くなさ。

ググッたら、グラフとか表にしてくれてんですが、逆に中身が薄くて似たり寄ったりに見えちゃう。

400字くらいでまとめてんのないかな。

 

あと、メディアのこう日和見な感じ?

あれがいちばん、面白くないというか、くだらない感を感じます。

そんな表層的な質問じゃなく、核心ついた質問してよと。

 

そんななら、最初からひいきがすごいメディア同士を見比べて論調を比較する方がよっぽど面白いというか。

 

そもそも、政党も。

勝ちたいとかでなく、いや勝ちたいだろうけど、負けた後の戦略も提示してみればと。

 

でもって、私がきっと面白いだろなぁと思うのは、選挙以外で制度を改善させていく戦略じゃないかと思います。

 

かつてドイツではゲッペルスが強烈にインパクトある分かりやすさでナチスに政権取らせました。

分かりやすさ、インパクトは、ある意味では支配のプロパガンダになり得る。

その怖さと表裏一体だから、私たちが何をどう見分けるかは、簡単ではないです。

残念ながら政治は難しい面があります。

法律を変えたりすることはそもそも法律知らないといけない訳で、法律難しいし。

でも結局、自分がいちばん必死こいてる部分に、自分たち視点でどんな対策を考えてくれているか。

なのは間違いない気がします。

 

自分や隣人の日常や心配ごとに乗るかそるか。

子育てしたなら子育て中みんなだし、学費に苦しむなら学生みんなだし。

病気だったら、失業したら、落ちこぼれたら、離婚したら… 

先日読んだ中山七里さんの「護られなかった者たちへ」の世界がリアルに想像できちゃう…

なんかもう今の日本がなのか、コロナだからかなのか、自分がそういう追い詰められ精神だからか、なのか分からないけど、生きていくって恐怖。

 

だからとりあえずできることとして、自分は投票行かねば。

 

どうしたら何があれば世の中もっと良くなるんだろう。

 

 

 

アラフィフからの楽しい英語のお勉強

 

 

 

英会話教室に通い出しました。

子供ではありません。

私です。

 

中学までは英語が好きだったけれども高校英語で挫折したのと、会社がコロナで危機に陥って転職もリアルな問題化しての、でも今の自分じゃ市場価値少ない…という危機感やらなんやらで、

いっちょ自己投資しようと。

 

一年前から英会話アプリやってて、インプットばかりでアウトプットがない虚しさもあり。

 

まあでもアレです。

下手の横好きがなまじのにわか勉強で、どないかなる話でもないので、ひとつのライフワークだとおもっています。

 

いちばんの動機は、日本以外の価値観を知りたい、ってところかもしれません。そこにはきっとなんかがある!みたいな。

 

ちなみに英会話教室の先生はイギリス人。

英語ネイティブと話すだけでテンション上がってます。キャーキャーのミーハーでもありつつ(*´∀`)♪

アプリ効果か発音は褒められてます(´∀`*)

5年前くらいはアールとエルの発音ができてないって知り合いのフランス人に注意されたのに。

 

ちなみにスピークバディというアプリです。

毎月1,980円も投資。高いよね。

リクルートのスタサプくらいな価格ですが、中身を比較してないから分からないけどお得なんはどっちなんだろう。

本当は500円くらいのがあったらいいのに。。と思います。

 

で、投資もしちゃってるし、それでミーハーだけでもあかんので、目標が欲しいなと、英検を目指すことにしました。

 

よーしまずは準二級!

 

3級は中学時代にとってたから、あれから30年以上経つけど、準二級くらいならまだ行けるはず〜と赤本を書店で買って(´∀`*)

 

しかーし。

準二級の過去問やってて、愕然とした自分の「英語できてない感」と「なんかむずい感」…

筆記は一応合格ラインの解答率なものの、なんかほぼ「勘」なんですよね。。

単語と文脈で。

だから知らない単語がキーワードの問題はもうお手上げ。

 

というか、勘はやっぱりいかん、と。

で、エッセイ。英会話の先生に見てもらったら、まあ悪くはないけど、文章足りてないと。

50センテンス以上の長い作文書かなきゃ、やぱり基本的にダメらしい…

 

でリスニング、これメッタメタ。全然聴き取れてない(涙)。

でもやってみて気づいたことも。

リスニングってめっちゃ集中力いるんですが、睡眠が足りていて疲れてないときは、まあまあ聴き取れてる!

でも疲れてたり、他に気になることがあると、耳に入らない。

会話が早い!もっとゆっくり話して〜とめちゃくちゃ感じます。

 

あと、アプリ毎日やってると耳慣れして、聴き取りやすくなる気します。

逆に「今週はしんどいから英語ちょいやめとくー」みたいな時期はもう全然聴き取れないです。

 

つまり。

毎日英会話聴く、てのが大事だなぁと。

あーだから皆んな留学すんだなぁと。

毎日英語につかってたらそら耳慣れるなぁ。

何語でもそうなんだろなぁと。

 

という事で、赤本は開かない日が多くても、アプリで10分でも英会話聴く、話すってのが意外といちばん役だってる気がする今日この頃です。

 

ちなみに英会話教室は正直モチベ維持な感じです。

先生は英語と日本語ミックスで話すので多分30%くらいしか会話が通じていません(笑)

それがストレスじゃないのはミーハー心が上回っているのと(好きって大事ね)、47歳というなんのプレッシャーもない立ち位置からな開き直り、だからってなんだっつうんだ、みたいな図々しさなんでしょうかね。

でもたまに通じてウッレピーと舞いあがってます。

まあでもモチベ維持も大事。

 

今のところ、楽しくやってるんで頑張る予定(*´∀`*)

 

 

あ、あと準二級は面接もありますウフフ

恐怖しかない(=´∀`)人(´∀`=)

 

ヴェノム 新作公開前に1作目がプライム無料

 

 

2018年

12月に続編が公開みたいですね。

だからプライム無料になってたんでしょうか〜

 

思ったより、チャラい仕上がりで気軽に観れました(*゚∀゚*)

マーベルってアメコミだから、でもアメコミって主人公がだいたいついてない、非ヒーローで、なんらかの外的要素でヒーロー化する、そのあたりが人気のヒケツかと思うんですが、ヴェノムももれなくそうでした。

でも

地球外生命体が寄生する。

これはまさにジャパニーズコミックじゃないですか。

 

名作。

ミギーとヴェノムの寄生の仕方が似ています。

落ちこぼれ同士がつながって、肉体を超えてシンパシーで繋がる、てのも。

 

主人公がオンライン動画のジャーナリストなんですが、クビになってたけど、頑張って欲しいなあ。

 

トムハーディの映画をひとつも観てないことが発覚。いろんな演技ができるらしいですが、何観たらいいのかしら。

マッドマックスでも見よかな…

 

 

 

 

 

アンという名の少女シーズン2 始まったよ(о´∀`о)

 

アンという名の少女 シーズン2 DVDBOX

アンという名の少女 シーズン2 DVDBOX

  • エイミーベス・マクナルティ
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また始まりました。

NHKで、アンという名の少女。

シーズン2です。

ネットフリックス製作。

途中でもめてシーズン3で完結らしい!

 

ちょうど一年前にシーズン1について書いてました。

 

 

原題は

Anne with an E 

 

アンの「私はただのアンじゃなくて、お尻にEがつくアンですのよん!」っていう、一見しょうもないこだわりのステキさを表したタイトルです。

 

やっぱり面白いなぁ。

 

ルーシーモンゴメリさんが書いてから100年以上経ってるんですが、びっくりしますね。

まだ面白いし、40過ぎて観て面白い。

 

アンのやらかしを観ていると娘を思い浮かべます。

 

アホだし、分かるし、なんかじんわりきます。

 

こういうじんわりって、なんかふとした場面にあるんですよね。

 

アンが学者を装った詐欺師の青年にしつこく質問して鬱陶しがられてたりとか(アンは詐欺師とは知らずにただただ好奇心で喋り倒す)、おっさんの恋路のお節介して全然怒らないマシューを怒らせたりとか、自分はブスだと悩んでどツボしでかしたり、いやアレはアンを見下すイケすかない奴らが酷いけどね。

 

でも100年以上前の14才の日常がなんでこんな面白いのか。だから何だと言われてもこうだと言えない、内側から温かくなるものをくれるのか。

 

ふと目を覚ました時に、横で子供がぐうすか息して寝ているのを見て、ふんわりした気持ちになるのと似ているというか。

上手く言えないけど、生きてて良かったなぁというか。

 

そんなんがうっすら詰まっています。

 

人間には、一つの優れた能力があって、私ならどんな天才頭脳より、そっちを持っていたいなぁと思うんですが、

それは、小さな、どうでもいいような、しょうもないことや物に興味や想像力を持つ能力です。

 

アンは孤児院で過ごした過酷さから逃れるために想像力を発揮して、想像の世界に入ることで現実を生き抜きますが、現代でいうと、たとえばみうらじゅんさんなんかはその代表格ですよね。

 

 

 

見仏記なんかは、奈良でショーがあって20年くらい前に見に行きました。いとうせいこうさんとの絡み方がまた良かったですよ。ずっと爆笑してました。

結局、人類が生き残るための能力って、ビジネスの才とか、富とか支配力じゃなくて、アホみたいな好奇心と想像力なんじゃないかなぁと思うんですよね。

 

 

アンとみうらじゅんがつながるとは…

100年という悠久の時をこえて…

疲れたわ、と捨てゼリフをはいて旅立つ姿に憧れて

 

 

キャロル 2015

 

観たかった映画やっと観た〜の映画です。

 

ケイトブランシェットが美しいとかは、今私にとっては、まあそんな問題ではなくて、と言ってしまうと半分台無しなくらい映像の美しさに価値あるものの。

 

私的には1番は

 

出会い、愛し、別れ、ってだけを人は何故に物語るか。

 

だなぁと。

 

ワンシーンの、その時の、感情に寄り添ってしまいます。

あ、2人は結局別れてないけど

 

普通に羨ましいです。

 

だって、キャロルは離婚したいけど、夫さんがあれやこれや策略して、それが疲れたわ〜と言って、2週間のドライブ旅行に出ちゃうんですよ?

彼女連れて。

 

旅って普通にバカンスもだし、疲れても行くし、逃避でも行くし、とにかくなんでもありなんですよね。

いつ行ってもいいし、人生が旅でもいい。

 

それが旅の良いところ!

 

なんで私や夫はそれをしないのか?

 

せめて2泊3日でいい!

ワハハ〜って馬鹿面さげて貧乏旅したいです。

 

西へ!っつって

 

Go west ! Yahoo! 

 

Go West

Go West

 

気ままなバケーション(*´∀`)♪

 

 

 

あと離婚調停のシーンもいいです。

 

あそこまでは正直、金持ちマダムの気まぐれ火遊びな空気もなきにしもあらずに思っていた部分もあったけど、キャロルは真面目?に生きての結果、夫との争いをやめることを選んだんだと理解しました。

 

この映画の描く恋愛は1950年代のアメリカの同性愛ですが、偏見や差別とかに絡めた他者の眼が一切なくて、キャロルとテレーズの2人の恋愛に関して社会の中の位置付けは一切描かれていません。

キャロルが心理療法にかからされて?いたり、ちらりとのぞかせてはいますが。

でもあくまで自分中心の個人の恋愛物語。

 

でも、だからこそ。そこにある人間の感情の揺らぎに、性差の境界がないことが感じられます。

 

そして私も疲れた自分を旅立たせたいなぁコンチクショウとつくづく思いました。


せめて隣の県でもいい〜

 

 

 

「護られなかった者たちへ」日本はもう先進国じゃないの?

 

 

映画化で知り、初めて読んだ中山七里さん。

これ以外も映像化されてますね。

 

すごく良かったです。

ミステリ小説でありながら、生活保護制度や申請を採択したり、ケースワーカーとして調査する福祉保健事務所の実情や仕組みがよく分かります。

 

ズバッと社会の歪みを伝えています。

緻密な取材や知見が行き届いているからか、描写が丁寧です。

 

中山七里さんの、社会への憤りや思いも、ひりひり伝わります。

 

餓死したけいばあちゃんのお腹からティッシュペーパーが大量に出てきたとか、やるせないです。

 

自分のおばあちゃんを思い出しました。

それに、母や自分の行き先も。

 

この世に生きるとはなんなのか。

 

社会の仕組みが全然良くならないのは何故なのか。

 

窓口で生活保護の申請書をたたき返されたら、私はどうすればいいんだろう?

 

もちろん、黙っておめおめと帰りはしないけど(今ですら)、法律を盾に出されたら、押しても引いても受理されないならば。

うちの母なんかはほんと、けいおばあちゃん的に、「お役人は絶対。逆らわない。ありがたがる」考えのタイプだから、余計心配。

 

今の時代、子育てするなかで、特に保育所入所の時の経験を通して、木で鼻を括ったような役所とやりあうには正直、本音で言ってしまえば、分からないことは何度も聞いて、こいつやっかいなヤツくらいにならないとあかん、と思ってきました。論理的な面でも。

 

でもどうしようもない壁があるならば、その壁はなんなのかを見極めないといけません。

 

不正受給が何故生まれるのか、何故本当に必要な人のもとには届かないのか。

 

貧しい者と富む者。なぜ犯罪が起きるのか。

 

利根のセリフが心に刺さります。

 

要は国や行政が予算をつけてない。だから、切り捨てなきゃならない人がいる。

予算がないのは何ゆえか。国がそれ以上は必要ないと判断したから。

 

日本は決して社会保障や福祉が豊かな国じゃないという事実。

戦後復興のなかである程度は育ってきた、「言っても先進国だしー」みたいなイメージというか「住みやすい国」の自負がわずかにあったですが、今やかなり落ちぶれちゃったんですね。

グラフでみるこれからの医療_6章_1_日本の社会保障の水準を比較してみましょう

こんな古いデータでも、社会保障給付費がアメリカ、フランス、イギリスと比べてダントツに低い!

北欧と比べたらいわずもがな。

なんで?

 

2020年度の年金制度指数は39ヵ国中、33位やて…

「年金制度が優れている国」ランキング! 1位は「デンマーク」 日本は?【2020年度版】(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース

 

少し昔、日本が外資企業買収したりしてブイブイ言ってたのがもう恥ずかしい感じ。

 

日本は今、どこに向かってるんだろう…

 

 

そして現場に苦悩が生まれる。

 

なんか森友事件も思いだしました。

全然違うけど、現場の人間の苦悩という意味では。

 

 

 

また、ミステリとしても、趣向が凝らされているというか、良かったです。あれ思い出しました。

 

フランスのミステリ作家ピエールルメートルの「その女アレックス」。

全く関係のないような、ふたつの視点で物語が進み、物語だけでなく人間像を逆転させていく、というやつ。

 

読み始めと時空感飛ぶ、どんでん返し。

 

 

ということで、中山七里さん良かったです。

他も読みたくなりまさした。

 

こういうのが小説や映画を超えて、ルポやドキュメントで、さらに自分の身近な問題として認識が広まればいいなぁと思います。

 

映画はプライム無料になったら観たいと思います(´∀`*)

 

 

 

「紋切型社会」"異論"こそが私の翼

 

 

ライターの武田砂鉄さんによる、テンプレ化した現代的フレーズを批評して、日本の社会や現代文化を読み解く、みたいな本です。

 

帯にあるデュマゴ文学賞に惹かれたわけでなく、人から勧められました。デュマゴ賞ってよくわかってないし。

 

2015年初版刊行。話題だったようで、

素通りしたのは何故なのか。忙しかったのかな。

 

ちっとも知らずに、6年経ってしまいました。のれてない。

 

だからか、冒頭の章「乙武君」で、語られていることがなかなか頭に入ってこず、何がいいたいのかがよく理解できないまま章を読み終えて、…ああ、6年前だからかと。 

 

今だったらハンディキャップのテーマは乙武氏を選ばない気がするから。

それでもって砂鉄さんは、乙武君と川田龍平さんをめぐる、世間が呼び分ける「乙武君」「川田さん」の君・さんの呼び方の違いが、呼ぶ方と対象の距離感を表しているよね、という事例を引き合いに、社会的な障害者の位置付けみたいな話を絡めているのかなと見受けたんですが、そもそも私は逆で、「川田龍平くん」「乙武なんちゃら」と呼んでいたから、共感しにくかったです。

 

なぜ私の場合は「川田君」かというと学生時代に講演を聴きに行ったことがあるからなだけなんですが、やぱり本人を見たことがある、ナマで考えを語るのを聞いたことがある分だけ身近で、乙武さんは、下の名前の漢字が読めなかったから。

調べたら、洋匡=ひろただ さんでした。

あと、乙武氏に関しては不倫騒動があってから、著作よりも、もはやタレントというか芸能人としての認識が強いからかも。逆に川田龍平くんは芸能人ではない認識です。

※でも基本、有名人の不倫・結婚自体はほっといたれや派

 

で、不倫騒動っていつだっけ?と調べたら2016年で、不倫前と不倫後で、まあまあな認識の隔たりを感じ、「紋切型社会」初版発行は6年も前かあと遠い目になった次第です。

 

だものだから、この6年の月日にちょっと萎えたというか、もしかしてこの後続く各章も、2015年には膝を打つ言葉の選択でも、2021年の今には違和を感じてしまうかもと若干身構えてしまい、2回くらい寝落ちしつつ(最高の昼寝)読んだらば、面白かったです。

 

いくつか確かに違和感を拭えない部分はありました。たとえば、著者がかつてやった友人の石川くんのトイレ覗きエピソードは、東京オリンピックの辞任騒動を知る今となっては、だいぶ気まずい気分になります。

あと情熱大陸とか、そもそもあんまりみないよねっていう。

 

でも読み進めるうちに、ひざを打つものがたくさん出てきました。

砂鉄さんの独特な比喩や言葉選び、表現方法にはじめは頭が追いつかず、なんか難解だなぁとも感じたけれど、だんだんとクセになるというか、面白くなってきて、章を追うごとに、文脈パターンみたいなのが飲み込めてきて、旨みが出てきます。

 

特にラストまでの5章は、真骨頂じゃないかなと。

 

主題としては、「誰がハッピーになるのですか?」「逆にこちらが励まされました」と言った世間の共感圧力というか同調圧力というか、異論を排除する言葉選びに対する違和感だったり、「そうは言っても男は」や「若い人は、本当の貧しさを知らない」という古き因習の押し付けへのアンチテーゼだったり、「うちの会社としては」「国益を損なうことになる」というようないつのまにか個から全体主義に向かっていくような、抽象的すぎて責任所在が不明なワードの欺瞞などなどの重箱の隅をつつく感じです。

 

ライターの末席として耳が痛い章もあって、「読み手に優しく」なんて上から目線で、文章や言葉が分かりやすければいいのか?という問いかけには、自分は仕事としてそこを追求しまくってるなぁハハハー(=´∀`)と。しかも、結果分かりやすくなっているかも不明。

 

武田砂鉄さんはその他大勢の雇われコピーライターではなく、批評や異論を世に投じる役割として、つまり実名で活動するジャーナリストなライターで、ライターと一括りにいう中でも与えられた役割が全く違うという前提に立たなければだめです。

 

とはいえ、広告だろうと批評だろうと、マーケットコントロールみたいな価値観でやり過ぎると、結局なんにも届かないんじゃないか、という砂鉄さん的問いかけは自分の実感としてあります。真摯だからって届くわけでもないけど(*゚▽゚)ノ

 

昔、「広告批評」という雑誌があったんですが、それが面白くて、でも何年も前に廃刊しました。

 

「紋切型社会」に批評の対象として出てくる糸井重里さんも、かつては広告が何かを世に問いかける役割を一定の枠内でこそあれ担っていた時代の先駆者的存在で、今はそういう広告の先駆者たちが築いてきたものが、かつてほど光をあびず霧散してるとしても、きっとライターの心には武田砂鉄さん的社会の片隅をどうにか浮き彫りにさせようとする批評家の目もどっかにある、と私は思います。

思いますよ、砂鉄さん。

 

というか、砂鉄さんが言っていることは、だれもがある程度は思っていることなんじゃないかと。

その言葉自体というよりもその言葉を発するシチュエーションは、あれ?という違和感を感じるけど絶妙に「ちょっと待って今なんて?」と言い返すほどの重みもない感じではびこってしまうというか。

 

で、特に砂鉄さんが熱く語るのは、「異論」を煙たがる風潮ですね。

私も、異論を受け入れない風潮を感じます。

会社でも家庭でも半径5メートル以内でそれは起きています。

異論、難しいです。不毛な戦いにぐったりします。

 

最近通う英会話教室で、英語圏ネイティブの先生と話す機会ができてからは、日本って、対話の学習してないなぁとしみじみ思います。

対話をする、というのは異論=否定 ではないんですよね。自分の主張があって、人にも主張がある。

それが普通。争いやわだかまりにはそんなにならない。いや、なってしまっても気に病まない。

異論、反論繰り返せば、今までなかったサジェスチョンや発想が生まれる。

 

砂鉄さんが嘆くように、日本社会は確かに当たり障りないことの前提でまわります。いやまわっていた。コロナまでは。

 

大勢と同じであることに満足を覚えたり、目の前で起きていることに疑問を持たず、モヤモヤを上手くやり過ごす。

 

私はそれはそれで、弱い人間の生きる術じゃないかとも思うんです。

たとえば、原爆だとかアウシュビッツだとかの現実を、ずっと背負っているとしたらそれは想像を超えた生き地獄です。日曜だろうと昼寝も許されない気がしてきます。

 

だから私たちはどっかで真剣に向き合ったり、片一方で目を伏せたりしながら、ちょっとずつ指の隙間からのぞいては、「これだけは見逃さないでおこう」「今だけはしっかりつかんでおこう」ということをつかみとっていく。そういう訓練が必要なんじゃないかと。

 

それは森達也監督の「i 新聞記者」を見て感じたことでもあります。映像の中の望月衣塑子さんは、目の前の現実に怒りながら、そのあと子供と笑い、弁当をむしゃむしゃ食べていました。

 

社会に疑問をはさみ、怒りを持って突きつけるというストイックな行為を、まっとうなジャーナリストがどう自分のなかで咀嚼しているのかなあという、長年の疑問がありました。

望月さんは少なくとも、普通の人間でした。

あと杉山春さんも。児童虐待のルポ書いている人。あんなストイックなルポを書いた人は、テレビでは普通の優しそうなおばさんでした。

 

砂鉄さんがどういう生活をしている人なのかは分からないけれど、「誤解を恐れずに言うならば」の章を読む限りは、学歴コンプレックスに開き直ったりするくらいに、たいしてお金持ちでもない、もてまくるわけでもない、若者に人気のインフルエンサーでもない、ココイチで一人カレーを食っているような、一人間の日常を日常として過ごす人だったらいいのにと思っています。もしかしてもっと高尚なところを読者に感じてほしかったかもですが、しかも若干論点もずれているかもですが、ごめんなさい。

 

誰もが「それはおかしい」と声に出していいのならば、「それはAではない。Bじゃないか」と言っていいのならば、特別な声じゃなく、社会の片隅に生きる、生活する人の声であってほしい。そんなんいっぱいあるよ!半径5メートルにあふれてる。

 

砂鉄さんのステキな文章の引用します。

すっかり社会の片隅に目が届かない社会にある。むしろ、届かなくってよし、がそれなりにひとつの極論として立派に機能してしまっている。

あらゆるツールによってどこまでも可視化されていくくせに、社会の片隅は広がったままほうっておかれている。

 

本田は自身を拗ね者と呼んだが、今、拗ね者はひとまず腫れ物扱いにされる。大雑把につながっている人たちにとって、まったく悔しいことに、拗ね者は厄介を呼び込む存在と規定される。

悔しい。その場で起きていることが、舐められている。

中略

人の気分をうまいこと操作する言葉ではなく、その場で起きていることを真摯に突き刺すための言葉の存在は常に現代を照射し続ける。

いかに言葉と接するべきか、言葉を投じるべきか、変わらぬ態度を教えてくれる。言葉は今現在を躍動させるためにある。

 

特に「悔しい。その場で起きていることが、舐められている。」とか。

うわ分かる!と同時に、どちらかというと長いめの砂鉄さんのレトリックにあって、すごく短くちょこんと完結していて、ぐっときました。

 

 

2015年と2021年を隔てる大きな変化はやっぱり何よりコロナでしょうか。

コロナは社会の片隅の他人事を、事実として自分事に置き換えた出来事だったと思います。しかもまだまだ終わってない。

 

砂鉄さんが今、何を見ているか。どこが気になっているか。気になります。

最近なんか出してないかなあ?とサクッとググッたら、男性優位主義についての本を書いていました。そっちいったんだ!え、どんぴしゃ(*´▽`*)男性が書く男性優位主義、興味あります。

 

 

チャンスとお金が手に入れば、ぜひ読んでみたいと思います。