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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

「紋切型社会」"異論"こそが私の翼

 

 

ライターの武田砂鉄さんによる、テンプレ化した現代的フレーズを批評して、日本の社会や現代文化を読み解く、みたいな本です。

 

帯にあるデュマゴ文学賞に惹かれたわけでなく、人から勧められました。デュマゴ賞ってよくわかってないし。

 

2015年初版刊行。話題だったようで、

素通りしたのは何故なのか。忙しかったのかな。

 

ちっとも知らずに、6年経ってしまいました。のれてない。

 

だからか、冒頭の章「乙武君」で、語られていることがなかなか頭に入ってこず、何がいいたいのかがよく理解できないまま章を読み終えて、…ああ、6年前だからかと。 

 

今だったらハンディキャップのテーマは乙武氏を選ばない気がするから。

それでもって砂鉄さんは、乙武君と川田龍平さんをめぐる、世間が呼び分ける「乙武君」「川田さん」の君・さんの呼び方の違いが、呼ぶ方と対象の距離感を表しているよね、という事例を引き合いに、社会的な障害者の位置付けみたいな話を絡めているのかなと見受けたんですが、そもそも私は逆で、「川田龍平くん」「乙武なんちゃら」と呼んでいたから、共感しにくかったです。

 

なぜ私の場合は「川田君」かというと学生時代に講演を聴きに行ったことがあるからなだけなんですが、やぱり本人を見たことがある、ナマで考えを語るのを聞いたことがある分だけ身近で、乙武さんは、下の名前の漢字が読めなかったから。

調べたら、洋匡=ひろただ さんでした。

あと、乙武氏に関しては不倫騒動があってから、著作よりも、もはやタレントというか芸能人としての認識が強いからかも。逆に川田龍平くんは芸能人ではない認識です。

※でも基本、有名人の不倫・結婚自体はほっといたれや派

 

で、不倫騒動っていつだっけ?と調べたら2016年で、不倫前と不倫後で、まあまあな認識の隔たりを感じ、「紋切型社会」初版発行は6年も前かあと遠い目になった次第です。

 

だものだから、この6年の月日にちょっと萎えたというか、もしかしてこの後続く各章も、2015年には膝を打つ言葉の選択でも、2021年の今には違和を感じてしまうかもと若干身構えてしまい、2回くらい寝落ちしつつ(最高の昼寝)読んだらば、面白かったです。

 

いくつか確かに違和感を拭えない部分はありました。たとえば、著者がかつてやった友人の石川くんのトイレ覗きエピソードは、東京オリンピックの辞任騒動を知る今となっては、だいぶ気まずい気分になります。

あと情熱大陸とか、そもそもあんまりみないよねっていう。

 

でも読み進めるうちに、ひざを打つものがたくさん出てきました。

砂鉄さんの独特な比喩や言葉選び、表現方法にはじめは頭が追いつかず、なんか難解だなぁとも感じたけれど、だんだんとクセになるというか、面白くなってきて、章を追うごとに、文脈パターンみたいなのが飲み込めてきて、旨みが出てきます。

 

特にラストまでの5章は、真骨頂じゃないかなと。

 

主題としては、「誰がハッピーになるのですか?」「逆にこちらが励まされました」と言った世間の共感圧力というか同調圧力というか、異論を排除する言葉選びに対する違和感だったり、「そうは言っても男は」や「若い人は、本当の貧しさを知らない」という古き因習の押し付けへのアンチテーゼだったり、「うちの会社としては」「国益を損なうことになる」というようないつのまにか個から全体主義に向かっていくような、抽象的すぎて責任所在が不明なワードの欺瞞などなどの重箱の隅をつつく感じです。

 

ライターの末席として耳が痛い章もあって、「読み手に優しく」なんて上から目線で、文章や言葉が分かりやすければいいのか?という問いかけには、自分は仕事としてそこを追求しまくってるなぁハハハー(=´∀`)と。しかも、結果分かりやすくなっているかも不明。

 

武田砂鉄さんはその他大勢の雇われコピーライターではなく、批評や異論を世に投じる役割として、つまり実名で活動するジャーナリストなライターで、ライターと一括りにいう中でも与えられた役割が全く違うという前提に立たなければだめです。

 

とはいえ、広告だろうと批評だろうと、マーケットコントロールみたいな価値観でやり過ぎると、結局なんにも届かないんじゃないか、という砂鉄さん的問いかけは自分の実感としてあります。真摯だからって届くわけでもないけど(*゚▽゚)ノ

 

昔、「広告批評」という雑誌があったんですが、それが面白くて、でも何年も前に廃刊しました。

 

「紋切型社会」に批評の対象として出てくる糸井重里さんも、かつては広告が何かを世に問いかける役割を一定の枠内でこそあれ担っていた時代の先駆者的存在で、今はそういう広告の先駆者たちが築いてきたものが、かつてほど光をあびず霧散してるとしても、きっとライターの心には武田砂鉄さん的社会の片隅をどうにか浮き彫りにさせようとする批評家の目もどっかにある、と私は思います。

思いますよ、砂鉄さん。

 

というか、砂鉄さんが言っていることは、だれもがある程度は思っていることなんじゃないかと。

その言葉自体というよりもその言葉を発するシチュエーションは、あれ?という違和感を感じるけど絶妙に「ちょっと待って今なんて?」と言い返すほどの重みもない感じではびこってしまうというか。

 

で、特に砂鉄さんが熱く語るのは、「異論」を煙たがる風潮ですね。

私も、異論を受け入れない風潮を感じます。

会社でも家庭でも半径5メートル以内でそれは起きています。

異論、難しいです。不毛な戦いにぐったりします。

 

最近通う英会話教室で、英語圏ネイティブの先生と話す機会ができてからは、日本って、対話の学習してないなぁとしみじみ思います。

対話をする、というのは異論=否定 ではないんですよね。自分の主張があって、人にも主張がある。

それが普通。争いやわだかまりにはそんなにならない。いや、なってしまっても気に病まない。

異論、反論繰り返せば、今までなかったサジェスチョンや発想が生まれる。

 

砂鉄さんが嘆くように、日本社会は確かに当たり障りないことの前提でまわります。いやまわっていた。コロナまでは。

 

大勢と同じであることに満足を覚えたり、目の前で起きていることに疑問を持たず、モヤモヤを上手くやり過ごす。

 

私はそれはそれで、弱い人間の生きる術じゃないかとも思うんです。

たとえば、原爆だとかアウシュビッツだとかの現実を、ずっと背負っているとしたらそれは想像を超えた生き地獄です。日曜だろうと昼寝も許されない気がしてきます。

 

だから私たちはどっかで真剣に向き合ったり、片一方で目を伏せたりしながら、ちょっとずつ指の隙間からのぞいては、「これだけは見逃さないでおこう」「今だけはしっかりつかんでおこう」ということをつかみとっていく。そういう訓練が必要なんじゃないかと。

 

それは森達也監督の「i 新聞記者」を見て感じたことでもあります。映像の中の望月衣塑子さんは、目の前の現実に怒りながら、そのあと子供と笑い、弁当をむしゃむしゃ食べていました。

 

社会に疑問をはさみ、怒りを持って突きつけるというストイックな行為を、まっとうなジャーナリストがどう自分のなかで咀嚼しているのかなあという、長年の疑問がありました。

望月さんは少なくとも、普通の人間でした。

あと杉山春さんも。児童虐待のルポ書いている人。あんなストイックなルポを書いた人は、テレビでは普通の優しそうなおばさんでした。

 

砂鉄さんがどういう生活をしている人なのかは分からないけれど、「誤解を恐れずに言うならば」の章を読む限りは、学歴コンプレックスに開き直ったりするくらいに、たいしてお金持ちでもない、もてまくるわけでもない、若者に人気のインフルエンサーでもない、ココイチで一人カレーを食っているような、一人間の日常を日常として過ごす人だったらいいのにと思っています。もしかしてもっと高尚なところを読者に感じてほしかったかもですが、しかも若干論点もずれているかもですが、ごめんなさい。

 

誰もが「それはおかしい」と声に出していいのならば、「それはAではない。Bじゃないか」と言っていいのならば、特別な声じゃなく、社会の片隅に生きる、生活する人の声であってほしい。そんなんいっぱいあるよ!半径5メートルにあふれてる。

 

砂鉄さんのステキな文章の引用します。

すっかり社会の片隅に目が届かない社会にある。むしろ、届かなくってよし、がそれなりにひとつの極論として立派に機能してしまっている。

あらゆるツールによってどこまでも可視化されていくくせに、社会の片隅は広がったままほうっておかれている。

 

本田は自身を拗ね者と呼んだが、今、拗ね者はひとまず腫れ物扱いにされる。大雑把につながっている人たちにとって、まったく悔しいことに、拗ね者は厄介を呼び込む存在と規定される。

悔しい。その場で起きていることが、舐められている。

中略

人の気分をうまいこと操作する言葉ではなく、その場で起きていることを真摯に突き刺すための言葉の存在は常に現代を照射し続ける。

いかに言葉と接するべきか、言葉を投じるべきか、変わらぬ態度を教えてくれる。言葉は今現在を躍動させるためにある。

 

特に「悔しい。その場で起きていることが、舐められている。」とか。

うわ分かる!と同時に、どちらかというと長いめの砂鉄さんのレトリックにあって、すごく短くちょこんと完結していて、ぐっときました。

 

 

2015年と2021年を隔てる大きな変化はやっぱり何よりコロナでしょうか。

コロナは社会の片隅の他人事を、事実として自分事に置き換えた出来事だったと思います。しかもまだまだ終わってない。

 

砂鉄さんが今、何を見ているか。どこが気になっているか。気になります。

最近なんか出してないかなあ?とサクッとググッたら、男性優位主義についての本を書いていました。そっちいったんだ!え、どんぴしゃ(*´▽`*)男性が書く男性優位主義、興味あります。

 

 

チャンスとお金が手に入れば、ぜひ読んでみたいと思います。