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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

生きづらさやら貧困やら。いろいろひっくるめたうえで、第三の道は可能か「他者の靴を履く」ブレイディみかこ

 

 

 

他者の靴を履く 2021 ブレイディみかこ

 

 

第3の道。

 

というものがあればいいなぁと思っています。

 

既存のものではない、新しい選択肢。指針。あるいは人生。

 

初めてのアナキズム入門というには、理解がまだまだでしょうが、

本書はエンパシーとは何か?を探究しつつ、アナキズムを謳うエッセイです。

 

内容は「エンパシーとは何か?」を入り口にしています。

 

アナキズムもエンパシーも、これまでの自分の人生にほぼ登場してこなかった言葉なので、むしろアナキズムって訳せば無政府主義

「若者が斜に構えて既存社会を否定しながら一匹狼を気取る」あるいは「テロとか暴力につながりやすい人」みたいなイメージでしかなく。

 

エンパシーにいたっては、何それ?状態なのですが、そんな私にみかこさんがいうには、それが「他者の靴を履く」ことなんです。

 

エンパシーはヨーロッパでは非常にポピュラーな考え方らしいです。

多様な解釈も歴史的背景もあるので複雑なんですが、私の解釈でシンプル化すると、他者への「共感力」です。

 

この「エンパシー」は「シンパシー」と混同されやすいけど、実は全然違うらしいです。日本では同じ「共感」と訳されることも多いそうで。

 

で。どう違うかというと、シンパシーは自然とできる気持ちとか気分のシンクロみたいなもの。

エンパシーは自分とはかけ離れたものにも意識的にする想像というか。

私はそんな理解をしましたが、本当にそれで合っているかは読んでもらうとして。

 

さらにエンパシーは大きくは二つくらいに分けることができまして。(本では細かくいろいろ出てきたけど省略)

 

ひとつは、自分と共通することがある、距離が近い他者の状態や感情に、自然と共感できるエモーショナル・エンパシー。元から人間に備わっている共感する性質。シンパシーに近いっすね。

 

もうひとつは、相手との共通点や距離に左右されずに、自分の意志や努力で、他者を「もし自分があの人だったら」と感じてみるコグニティブ・エンパシー。

こっちは性質ではなく、後から身につける「能力」です。

 

ほう。

 

エンパシーというワードは耳馴染みなかったものの、この2つのエンパシーの違いは確かに感じてきたなぁ!と実感があります。

 

たとえば子育てしている私が、子育てしている友達や女性の日常を想像するのと、シリアの難民のおじいさんの暮らしを想像するのとはどちらがやりやすいかって、そら前者です。

 

でも「コグニティブ・エンパシー」は、後者をやってみることで、要するにそれが、「他人の靴を履く」という例えになっているわけです。

 

で、みかこさんはこの「コグニティブ・エンパシー」の方に注目して、いろいろ考察を重ねていくんですね。

 

で、みかこさんいわく、コグニティブ・エンパシーは備わっているものではなくて、後から身につけていくものなので、その能力をみがく機会や教育って大事だよっていう。

 

これ本当、納得です。

 

で。

 

いよいよ「アナキズムがどう関係すんだ?」って話、これ本当に、後半でやっと気づいたんですが、要は、みかこさんはアナキストなんですよ。

 

で、その研究みたいなのをやっていて、いろんなアナキズムを研究している社会学者や哲学者の文献を引用されています。

 

もうね、最初、その学者さんたちのダレ?感というか。まあまあ理解に時間かかりました(;^_^A

 

ただ後半に入り!

「みかこさんは、エンパシーとアナキズムのことを話したいんだ」とやっと合点して、点が線となってからは、ぐいぐい引き込まれ(だいたい理解が遅いから、後半からぐいぐいが多いよね・・・)、慧眼しきり。

 

そして私がたどり着いたのは「アナキズムっておもろいな」ということです。

 

みかこさんの考えるアナキズムは要は、既成のシステムに頼らない「人とのつながり」を重視した考え方なのだと思います。

たとえば、政府が今やっている経済政策、社会制度と保障対策などが十分なものとは言えない場合。

地べたの市民運動や底辺から生まれた助け合いみたいなものが威力を発揮するような社会。

コロナがそうですよね。

子ども食堂ができて、フードバンクができて、とか。

ちょうどみかこさんもイギリスでコロナを体験して、失業者とか困っている人があふれるなかで、市民の助け合いを体験したようで、そこに地べたの「底力」を感じたそうです。

 

で、みかこさんが言うには、そこにはコグニティブエンパシーが必要で、総じてアナキック・エンパシーというのもが大事だよと。

 

「桃から生まれた桃太郎が鬼を退治しました」くらいに、かなりざっくりした説明なので、詳しくは読んでくださいとしか言えないんですが、ここが大事!と思ったポイントをあげます。

 

生き残れ!地べたの者たちよ

私たちは基本、似た環境や同じ境遇だった場合にシンパシーを抱くけれども、そうではなくて、むしろ敵対していたり、嫌いだったりする人に対しても意識的に共感することは可能なのです。

たとえば私がトランプ元大統領を嫌いだとして、でもトランプ大統領だって、家族はいるし、子供に幸せになってほしいという気持ちは同じだろうし、子育てに悩み、眠れない日だってあるでしょうよ。

 

そういう感じでしょうか。

 

ちょっとウソっぽい例になりましたが(´∀`*)

 

この究極の例として、みかこさんは金子文子さんの獄中エピソードをあげています。

金子文子さんは大正時代のアナキストらしい(ウィキペディアより)です。

で、文子さんは自分がひどい目にあうなかで、獄中の看守の暮らしを想像するんですよね。

 

「塩からきめざしをあぶるよ 女看守の暮らしもさして 楽にはあらまじ」

 

という言葉を残しています。私を見張るあなたの暮らしも質素で楽ではないんだろうねと。

まあ私はこの金子文子さんの言葉以上に、金子文子さんという人を知って、衝撃を受けたんですが。みかこさんがなぜ、金子文子さんという大正時代の女性を本に登場させてきたかというと、「女たちのテロル」という自著に書いてたようです。

 

で、この金子文子さんの話が要所要所に出てきます。

これが・・・インパクトすごい。文子さんは日本で生まれた朝鮮人で、まあいわゆる差別もだし貧困もだし、虐待もだし、そういう過酷な幼少期を経た結果、アナキストになるわけです。そして文子さんは若くして獄中死するんですね。

壮絶です。

 

でもみかこさんが語るのは、そういう壮絶さ=アナキスト ということではなく、「他者の靴を履く」文子さんなんですね。

 

みかこさんは、通俗的固定観念アイデンティティにしばられない、想像力豊かな文子さんという人の根底には楽天性があったと言っています。

 

私が読後に強く残ったのは、ひとつにはこの「楽天性」。

過酷な人生を送ってきた人が、生きるために身に着けた、明るさというか、光への気づき。

でもこれってすごい大事だなあと。

 

この過酷な状況下での楽天性なんですが、誤解されがちな「どうにかなるなる~」という無責任ではないんです。

なんというかな。自分を信じる力というのかな。

「どうせ無理だ」という状況のなかで、ナニクソとあきらめないというと「根性」なんですが、そうではなくて、「絶望だと思っていたそこに、愛すべきものがまだあった」みたいな気づきができることです。

心の柔らかさですね。

だから、文子さんがやったような、まったく異なる他者への共感、コグニティブ・エンパシーは、他者のためではなく、自分がこの楽天性を持つための大切な要素とでもいいますか。

 

みかこさん曰く他者への共感ができるということは、利他主義ではなく、利己主義でもあると。

つまり、共感は、「誰かのために」もあるけれども、同時に「自分のため」でもあるんだよと。

 

日本でいう「情けは人のためならず」ですね。よく誤解されている「ことわざ」の例題で出てくるやつ(*´▽`*)

 

「人に情けをかけるのが大事なのは、他者のためではなく、かけた情けが自分にめぐりめぐってくるからだよ」っていう意味ですよね。

でも同時に、人のためでもある。どっちもある。というのがみかこさんの主張です。

 

つまりみかこさんのいうアナキックエンパシーとは。

どうしようもない政府や社会システムの限界のなかで、地べたの自分たちが生き残るのに必要なのは、このコグニティブな想像力、エンパシーと、既成のものにとらわれない自由な生き方じゃね?と。

言いたいのではないかと解釈しています。

 

ということで「生き残るために必要なもの」

他者への想像力、楽天性、とらわれない自己&自分の選択

 

「プリズンサークル」と赤ちゃんプログラム

みかこさんは、コグニティブエンパシーを実践で取り入れる動きをいくつか紹介してくれています。

そのひとつとして、坂上かおり監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」も例に出しています。(プリズンブレイクではありません)

 

prison-circle.com

これはコグニティブエンパシーを受刑者の更生プログラムに取り入れた島根県の刑務所のドキュメンタリーです。

「島根あさひ社会復帰促進センター」という刑務所では、受刑者同士の対話を通して、犯罪の原因を掘り下げる「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを、日本で唯一導入しています。

 

このTCでは、受刑者が被害者の家族の役を演じるそうで、このことから被害者の立場を想像する=他者の靴を履く を実践しています。ようやく被害者の気持ちを想像する→犯した罪を理解するという作業を行なえるようになったという受刑者が多数出たそうで。

でも、導入がなかなか広がっていかないそうなんですが、欧米で広がっているこの「TC」を、よもや日本が取り入れたこと自体に、みかこさんは驚いたそう。

 

分かる。日本てね。。。なんでもね、遅いし、カタイ。

 

で、この「プリズンサークル」絶対見たい!!と思い上映状況調べたけど、近郊でやってるとこなし。(初公開は2019年)自主上映会とか各地でぼちぼちやってるようなんですけどね。。

Amazonプライム、有料でいいからやっておくれよ。。

 

 

 

もうひとつは、みかこさん在住のイギリスの「ルーツ・オブ・エンパシー」。これは赤ちゃんを囲んで、その気持ちを小中学生が語り合うというもの。

ボランティアの赤ちゃんとお母さんを招いて、緑色のブランケットを敷いて、赤ちゃんをそこに寝そべらせ、みんなで囲んで「赤ちゃんは今どういう気持ちでしょう」というのをやるそうな。

これで大事なのは、赤ちゃんの気持ちを想像するよりも(それは兄弟とかですでにできている子どもも多いのではとみかこさん談)、それを「話し合う」ということではないかと、みかこさんは言います。

 

学校のなかで子供たちが「彼彼女が今どういう気持ちか」などと話し合う機会はあるだろうか?と。「感情を表現すること」「解決策を話し合うこと」は非常に大事で、しかも進んで言う気になる環境を大人が用意する必要があると話します。

 

キーワーカーとブルシット・ジョブ

コロナ禍でイギリスで注目されたのは、スーパーの店員さんやタクシーやトラックの運転手さん、医療従事者、福祉・保育所・学校の先生で、彼らをキーワーカーと呼ぶそうです。

 

日本じゃそこまで取り上げられてないですが、でもピンとはきます。テレワークとかできない、みんなの生活に必要なことをしている人たち!なわけですね。

 

でも往々にして肉体労働や低賃金の労働だったり、階級システムが根強く残るイギリス社会のいわゆる労働者階級である労働者をキーワーカーとしてたたえよう〜という動きがあるというのは、さすがにイギリス!です。

日本ってそんなのなかったですよね。

一方、デヴィッド・グレーバーさんという社会人類学者が書いた『ブルシット・ジョブ』という本が話題になったと。

 

 

ブルシット・ジョブとは、いわゆるホワイトカラーの仕事です。

「ホワイトカラーの仕事のほとんどは無意味だ!」と言ったのが、このデヴィッド・グレーバーさんなんですね。

 

で、このホワイトカラーがコロナという有事の際に、本当に役に立ってないよねwみたいなことで、がっかりされたという。

 

そういうことをみかこさんは紹介しているんですが、すごいおもしろいなあと。

センセーショナル!

まさかの価値観の転換ですよね。

でもみかこさんは、あくまで「地べた視点」なんですね。

グレーバーさんが出版したのは2018年ですが、まさにこのことがコロナで証明されたなと。

主にイギリスのですが、経済についても結構突っ込んで書かれています。

 

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ということで、盛沢山の発見と気づきと慧眼の本だったです。

そして、第三の道ですよ。

 

みかこさんが主に語るのは日本じゃないイギリスの事情です。

でもイギリスだってヨーロッパだって、同じように虐げられている人、社会的に弱い立場の人、貧困、差別、他者への視点の希薄さ、異なる世界同士の対話のなさ・・・日本と同じように問題なんだなという発見がありました。

 

このことの発見は私には大きくて、なんでも欧米がいいってするのでもなく、人間社会の共通課題なんだなということ。。

 

でもそこで、声を上げることや地べたの暮らしに視点を落とす、自分の生活に照らし合わせることの意味なども深く考えされられました。

 

みかこさんは、そういうごったごたのカオスの世の中にも、生きてく術はあるといいます。

 

アナキズムとは、結局なんなのか。私たちの社会にあると思っているような「中心部」など、実は実体がなく、個々の動きがつらなって、補いあって全体を作っているというのが社会だと、伊藤野枝さんは語ったといいます。

 

伊藤野枝さんは、金子文子さんと同時代の同じような生きざまの女性なんですが、私も実は栗原康さんの本は読んでいて野枝さんは知っていて、野枝さんについてはまた書きたいと思います。

 

 

 

人同士で、組織で、垂直ではなく「水平」でつながる方が社会はよくなるよいうみかこさんの考えは、常々私も思ってきたことで、

ああ、だから私は管理されるのが嫌いなんだな、

私もアナキストの気があるなあと、読んで思いましたww

 

もちろん既成のシステム、政府に地べたからモノを申していくのはとても大事。

そこから逃れて、勝手に生きていくことは現実できないから。

でもそこには覆らない大きな壁もあるし、どうしようもない現実もある。

 

でもそこで別の視点に立ってみる。

自分自身のなかで精神の自由を試みてみる。

 

つまり、私が思う第三の道とは、既成概念、固定観念、そういったものを取り払って、他者を想像しながら、水平な視点で日常をおくること。

 

自分の人生で実践するということです。

 

もしかしたら、何かを選択するときに、私自身が本当は望んでいないのに自分をしばっている判断があるかもしれない。

そして勝手にがっかりしているかもしれない。

だとしたら、自分が自分をまずは自由にしてあげる。

 

最初は「アナキズム~?」と思ったけど(∩´∀`)∩スミマセヌ

自分の可能性をとても強く感じられた読後感でした。

 

 

※余談ですが、日本のアナキズムの初心者に向けたいならば、帯とか序文とかで説明をつけたほうがいいと思います。日本じゃ「アナキズム」が変なイメージのインパクトあるから避けたのかなあ。

これは30年以上前に日本を飛び出し、イギリスで庶民の暮らしを体験してきたブレイディみかこが、「他者の靴を履く」=他者を想像するエンパシーという能力と、既存のシステムにとらわれないアナキズムが溶け合った先の地平に生まれる社会と個人の生き方を指南した書である。

 

勝手に解説文考えました