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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

自分の中に毒を持て_アバンギャルドに生きろと岡本太郎が叫ぶから

 

 

2017 岡本太郎 青春出版社

 

太郎さんが遺した「自分の中に毒を持て」を今になってやっと読みました。初版は1993年。文庫版がその後出て、さらに2017年、文庫版の新装版が出たそれです。

 

読みながらずっと心のど真ん中に、ぐわんぐわんズキズキ来ました。

 

もっと若いうちに読むべきだったかもしれません。でも今の社会だからこそ、今の私だからこそ、響いたことがあるとも思います。

 

ぐわんぐわん来たフレーズにマーカーでラインを引く作業も該当箇所が多すぎて、とりあえず折り目だけにしました。

 

大事な部分があまりに全体に及ぶので、そして、全体を通して読まないと真には理解できないだろうので、まず、今の私の「自分のなさ」「自信のなさ」にピシッと頬を打つかのように叱咤激励された、と感じた序盤の触りだけ引用します。

 

 そこで僕はそういう駄目人間、不安で、迷って、自信がない、何をしたらいいのか、てんでわからないあなたに提案する。

自分はそういう人間。駄目なんだ、と平気でストレートに認めること。

そんな気の弱いことでどうするーとクヨクヨしても、気は強くならない。

中略

つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約をうけないで生きていく。

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。

 

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それでいいんだ。また、それしかないんだ。 と。

 

太郎さんは一冊の本のなかで、その本意を語っていきます。

なぜ、そうなのか。

なぜ、そう言うのか。

 

岡本太郎が裕福な芸術一家に育ったからとか、才能がある非凡な特別な存在だからとか、そう言ってしまっては全くだめだと思います。

なぜって太郎さんがそういうものの見方を否定しているからです。

太郎さんの「与えられた環境」をルサンチマン的に注目するのではなく、太郎さんが幼きころから抱えていた苦悩をどのように克服したかを考え、自分へのフィードバックとして受け取らないと、たぶん太郎さんの言葉は届かないでしょう。

太郎さんの創造の出発点は、常に、社会への問題提起なのです。

 

まず太郎さんには、太郎さん自身がこの社会を生きるのにとても苦悩してきたという背景があります。太郎さんは、自分と社会をわけて捉えず、社会そのものを自身の経験に見ることで、さまざまに苦しみ、時に喜んできた人なのです。

 

苦悩は幼き子どものころから始まっていて、先生から理不尽に殴られる学校生活のなかでどうしても体制に馴染めなかったこと、小さき者がたった1人で、権威にとことん反してきたのです。

 

従わない

ということで

太郎少年は

何をそんなに守りたかったのか。

苦悩を抱き18歳にして放り込まれたのがパリ。当時のパリは第二次世界大戦の前の不穏な空気をまとっていました。そんななかで芸術家たちがつながり、カフェで議論し、戦争を断固拒否し、自由な人間たることを訴えていました。孤独に苦悩に満ちた青年が同じように苦悩する芸術家たちと出会ったことはどれほどの喜びだったか。

 

でもだからこそ太郎さんは、敷かれたレールの従属のなかで、自分で考えることも判断することもやめて平和で満たされているよりも、だれもが自分の選択に責任(苦悩)をもちながら制約なく生きられるように社会が変わらなければ意味がないと考えます。自分が幸せでも隣の人は苦しんでいるかもしれない。自分だけ幸せであることになんの意味があるんだろうと。

そんなことから太郎さんはソルボンヌ大学で、絵画そっちのけで哲学や民俗学を学びます。

 

そして発見します。

自分を認めさせようとか、社会にどういう役割をはたせるんだろうと、状況を考えたり、成果を計算するのではなく、その瞬間を無目的に、無償で、情熱を持って全存在で爆発する。

それがすべてだと---

 

太郎さんは、パリから開戦直前の日本にもどり、過酷な兵役を終え、平和になった戦後の日本で、アバンギャルドに芸術活動に邁進します。

 

絵画、陶芸、モニュメント、執筆。

「自分の中に毒を持て」も含めて岡本太郎は私たちに語りかけます。特に本書では、組織やシステムに組みされたなかでの安定や成功を正義とする戦後の日本の有様に対しての強い危機感が感じ取れます。

 

 

さて。

太郎さんが亡きあとの社会は。

2000年代を迎え、デジタルテクノロジーの台頭に私たちの多くは夢を抱きました。画一的に組み敷かれた会社という組織に従属しながらひたすら拡大と成功をめざす時代は終焉する。組織での隷属のもと安定した一生を送るという価値観から降りて、選択肢豊かな新しい人生感や価値基準が浸透して、これまでのような型通りの生き方やシステムからの束縛のない多様と寛容に満ちた世界がくると希望を感じました。

けれど今、眼にする世界はそうなっているのか。

結局テクノロジーが残したのは、権威への従属のもと安定と成功という敷かれたシステムをより強固にし、より人間を効率的に管理できる社会ではないか?

 

私自身、組み敷かれたシステムとそれに逆らえない「世間」をまざまざと体感しているところです。

テクノロジーの進歩は、私の仕事を今まさに奪いつつあります。そして何より、それにさからいなどせず受け入れることを「正」としてしまう、権威への隷属の無自覚や諦観。

 

だからこそ、弱き自分を認めながら、誰の目も気にすることなく、やってみようと感じる方向に動けという太郎さんのメッセージが、非常に胸に響いたのです。

 

上手いより下手が楽しいと。

成功ではなく失敗を選べと。

その方が面白いから。

生きていることだからと。

 

権力におもねるな。

苦しみながら自由を求めよ。

己の選択をアバンギャルドに楽しめと。

 

この先、自分が岡本太郎のように生きられるとは思いません。でも、刊行から30年以上の年月を経ても、全く古びない、厳しくあたたかく、熱量が高く激しいのに、現代的なコンプラやポリコレにも高い耐性を備えた普遍的な地球規模の眼差し。いや宇宙ですね。

 

もしかしたら、もしかしたら。

己を見失いながら、大海にたゆたう千切れかけのワカメな私でも、今より少しは太郎さんに近づいて、太郎さんのいう「幸福」ではない「歓喜」をつかめる瞬間がくるかもしれない。

 

私が将来の不安も、保身も、ルサンチマンも脱ぎ捨てて、真に歓喜できる生き方ができるかもしれない。

 

失敗を恐れてはいけない。

むしろ損な道を選ぶ。

それを苦悩のなかで歓喜する。

 

人と比較とかして落ち込むよりも、自由を求める行動を取れ!失う心配などせず開き直れよ、と。

 

 

今の社会だからこそ、岡本太郎の言葉が響く。

本当は太郎さんの願った自由な社会になっていれば良かったのだけど。

だけどくじけるなと。

クヨクヨするなと。

 

だったら、押し寄せる大きな波にくじけそうな自分と闘い、遠回りしながらでも信じたい方向に向かって苦しみながら生きて行った方がいい、きっと。

いつか死ぬまで。