書くことは癒し。まったりシングルマザーの映画・読書・日々のこと

シングルマザーになりました。50代は60代をどう生きるかを考えていきたいと思います。読書や映画感想と仕事や子育て、離婚やモラハラについても思いついたら。

対峙_被害者と加害者の親。その対話が導く先

 

対峙

対峙

  • リード・バーニー
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対峙 原題 MASS

2020 アメリ

ネタばれあり

 

アメリカの作品です。

 

後半、涙がとまらなくなりました。

見終わって、すっと救われたような気持ちになりました。

 

生きているといろんな悩みがあると思いますが、「なんだか生きるのが苦しい」という人、苦しみから逃れられるかは分かりませんが、考えるヒントにはなると思います。

 

高校銃乱射事件の6年後、被害者の両親がセラピストにすすめられ、加害者の両親とどこぞの教会(公立?)で対峙して話をすることになります。

 

子どもをもつ親の立場として、なかなかシビアなテーマなのですが、ユニークなのは、この映画は教会の一室を中心に、4人の会話のみで進行し完結していることです。

 

会話から加害者の両親の実に誠実な人柄が伝わってきますが、加害のあとの、そらもうすさまじいバッシングなども想像にかたくないなか、そういうシーンは一切なく、会話のセリフとして出てきます。

 

事件のあらましや様子もすべて会話のセリフで生々しく説明され、それだけに役者さんの演技力、脚本、演出力がとわれるし、作り手がめざすものも問われます。

 

その上でとっても素晴らしかったです。

 

犯人は、犯行後、自殺。

被害者だけでなく、犯人の家族を含めて、遺された人々すべての人生を壊してしまいました。

そこに、6年という年月をかけて、真相を知りたいという思い、加害者の親との対話によって、被害者の両親は、救いをもとめるわけです。

息子を殺された癒されない喪失の悲しみ、怒り、憎しみから、何か、何かがみつかるかもしれないと。

 

会話のなかで、事件後6年のあいだ、加害者の両親がずっと苦しんできた姿が描かれます。

このセリフもね、ちょっと間違うとほんとに「いやお前がそれいうなよ!」てなるじゃないですか。

アメリカは個人主義と言われますが、その一方でちょっと意外な一面といいますか、映画などでは犯罪者の親が子供をかばうようなセリフやシーンが描かれていることが多いんです。

日本だと、犯した罪は血の罪だから、子供の罪を親が背負わされがちでもあるけれども、だからこそ親もかばうというより恥や汚名みたいな捉え方で、世間体を考えて縁を切ったり、なぜか無関係な「世間様」に対して謝罪しないといけなかったりします。かたや子を信じてかばう、みたいなのはあんまり見ない。

 

 

でも、アメリカはちょっと違っていて、裁判モノとかでも「私たちは息子を愛している!信じている!」と主張するシーンも結構見受けられるんです。

そこの文化、国民性の違いが興味深いところではあるんですが、日本の感覚だと、こういう被害者との対峙の場面で、加害者がそれをしてしまうと、なかなか溝は埋まらないわけで、そこをどう描くのだろうと思っておりました。

 

壮絶な対話のなかで、被害者の両親が激高する場面もあって、あわやこの面談は失敗か、、どうなるのか、、とひやひやもしつつ、お互いに涙を流しながら、核心をついた会話が進んでいきます。

 

加害者のお父さんがはっきりというシーンが印象的です。

「私たちは失敗したんだ」と。

今も息子を愛してはいる。手も尽くした。でも私たちは失敗したと。

お母さんはいいます。

「私たちを赦して」と。

 

息子を愛する気持ち。

自分たちにも罪があると思う気持ち。

苦しんできたという思い。

「あの子は生まれてこない方がよかったかもしれない。でも私たちにとっては生まれてきてよかったんだ」と。

 

もう涙なしにみれなかったです。

 

そんななかで、

さらに。

被害者のお母さんが言うのです。

「じゃああなたの息子に殺された私の息子は、なんのために生まれてきたの?彼の死が価値あるものになるために、何かを変えないといけないと思ってきた。でも何も変わらない」

 

加害者の母さんが被害者のお母さんとお父さんにいいます。

「あなたの息子のことを聞かせてほしい」

 

そこから、息子の記憶を話し出す被害者のお母さん。

それを聞いて加害者のお母さん。

「それが価値だ」

涙じょんじょん二回目。

 

そして最後、書いてしまいますが

被害者のお母さんが言います。

「あなたたちを赦します」と。

嗚咽がとまらなくなりました。

 

さらにさらに。。

ここは伏せておきます。(微妙に中途半端…)

 

被害者のお母さん、なぜ赦したのかを語ります。

「もう私たちは変わらないといけない。苦しみから解放されたい。」

 

私たちはついつい、「赦し」というのが、相手への無条件のメリットだと思ってしまう。だからなお、赦しがたい。

でも、「赦し」は、憎しみや怒りにとらわれる自分自身のためにあるのかもしれません。

 

相手に罰を受けろ、死んで償えと、思い続ける人生がいかほどに苦しいか。

 

試練のような、運命のような「対峙」という一瞬を、

もし私なら、どのように受け止め、乗り越えていけるのだろうか。

 

最近思うのは、罪のない人はいないのではないかなということです。

過去の自分は、家族も、友達も、どこかで傷つけてきたし、謝罪すらしていないこともたくさんあります。きっと、傷つけておいて、忘れてしまっていることさえあるでしょう。

 

じゃあ、私の罪に、今私ができることは、なんだろう。

そんなことを考えていると、老いを感じ始めた今の静かな自分の生活、あとの人生はすべて、ただただその償いのためにあるのではないかという気もしてきます。

人間はみんな、まあまあ罪を背負っていて、そうでない人なんかいなくて。

それを償うために、自分の人生をどう使うかなのかもしれないなと。

 

自分という人間が立派ではないとしても、自分の罪と償いをできるだけ忘れずにいたいと思います。

 

ちなみにタイトルの「対峙」の原題は「MASS」です。

マスコミのマスなのですが、え、じゃあこの映画の意味は「大量?」「大衆?」と最初、わけが分からなかったのですが、ググってみて納得。

キリスト教カトリックでは「MASS」はミサのことなんですって。

舞台が教会ですし、最後に讃美歌が聞こえてきたり、だからかと。

 

キリスト教の「赦し」っていうと

メタファー的に映画でもよく描かれていたり、

ちょっと難しいイメージがあるのですが、

なんていうか、この映画の描き方はとってもやわらかでいいですね。

私は日本人らしく、何の宗教に対しても肯定も否定もなくほどほどなんですが、

苦しい人間に本来の意味で寄り添う神の姿、

そこに「彼が見てくれている」という救いを求める行為は

もしかしたら人間が生んだ最高の知恵なんじゃないかと思います。

どんな宗教も優しい理由から生まれていると信じたいです。

 

悲しいことがいっぱいの世界だけど

これからの世界には、きっと希望もあるんだと

思わせてくれる作品でした。