海街ダイヤリーで出てきた「しらすトースト」を作って食べてみました。
めっちゃ美味いす!
私は、バタートーストにマヨとシラス、刻み海苔をのせ、お醤油たらして食べました。子どもたちも大喜びでした!
まだ海街ダイヤリーゆーてるんですかい…
最近、上の子が、なんだかちょっぴり思春期にさしかかり、成長が喜ばしい…はずだけど、反面、寂しいというか。
ちょっぴり言い合いをしただけなんですが、子どもの反論が今までよりロジカルで真っ当で、これまでオトナの屁理屈でねじ曲げてきた(あかんやん)、ママのゆーこときーとき!みたいなノリが通用せず、母折れて謝るみたいな感じになりました。
でも、ママも悪いけど、やっぱり本質を理解して欲しいねん〜〜みたいなことを、そこだけは譲りたく無いと、また理屈を並べたりして。きちんと、筋を通して話す、そして子ども相手にいなさず相手の受け止め方を配慮して、みたいな対等な雰囲気が必要になってきています。
それは成長であり、喜ばしいことです。子どもと、早く対等に話したいと思ってもきました。
だけど同時に、私から「母」というレッテルを取って、一人のオトナとして、この子に対峙した時に、私は果たして、きちんとオトナのアイデンティティを維持できるんだろか…なんて不安がむっくりわきあがってきました。そんだけダメ母だったなあ、と改めて反省。
母という立場に甘えすぎてきたんだな。。
だって子どもはお母さん好きです。
ダメ母でもなんでも、子どもはお母さんが好きだから、私は、のうのうとダメ母でいれたんです。
一人のオトナとして、ダメって思われたくねー。
うーん、むずい!
そんなこんなでとにかくも、子どもは段々母を必要としなくなってくんだな、いつか、母を離れて自分で生きていくんだな、なんて。
はい、寂しいっす。もう寂しい。
けど、私は自分の親みて、思ったことがあります。
イムグォンテク監督の、祝祭という映画を観て思ったことがあります。
親は、寂しいものなんだ。
子どもが自立することを喜ばねばならない。
離れていく寂しさを黙って受け入れなければならない。
それは、喜びだから。
それが親の務めなんだ、と。
一生一緒に生きていくことは出来ないから。
親は老い、彼らはまだまだ未来を生きていく人たちなんだから。
黙って寂しがる。それが子どもへの最大の愛情なんちゃうかなと。子どもの邪魔したらあかんもの。自分の道を生きてほしいもの。
なんて。5月末にセンチメンタル5月病になりましたかな…