2017 太田出版
読み終わってすぐ、「これは感想を書くのに時間がかかるな」と自覚したので、まず、頭の中で自分の感じたことの推敲を試みて、いやでも、これをまだ私は受け止め切れないなあ、という逡巡を何回かやって。
もうこの受け止めきれなさこそが、この本の主題なんだと思うに至りました。
この本が調査記録として記すのは、まだ19歳や20歳や15歳でありながら、幼いころから親からの愛情を受けられなかったり、庇護が必要な子どもであることを強制的に諦めされられて、出会った男たちにレイプやDVやモラハラを受けながら子どもを育てて、キャバ嬢や風俗業でなんとか自力で生きのびていこうとする少女たちの声です。
大学に属する研究者としてそんな彼女達を調査しながらも、その調査で彼女たちの声を拾うことで、彼女達の周りの大人、社会がしてこなかった声を受け止めるという役割を担う、上間陽子さんによる調査記録です。
もう要は底辺層を生きる女性であり、子どもであるサバイバーの記録です。
現代社会の負という負を、一身に背負わされた子ども達の生き残りをかけた物語です。
彼女たちは一見、サバイバーには見えないようになっていて、それは彼女たちが自ら「自己責任」で選んだ人生のように仕組まれています。
殴る彼氏も、援助交際させる彼氏も、レイプされた事件も、まるでただ単に彼女たちが選択を間違えただけのように、おそらく世間は扱うでしょう。
上間陽子さんの研究は、その世間の視点は間違っている、彼女たちは世の中の歪みを、負を、底に沈殿する腐敗した澱をすべて、力のない子ども時代から強制的に背負わされながら、なんとか自力で生きているんだと、告発します。
この自己責任なのか、そうでないかの分かれ目というのは、なんというか、選択肢のなかった子ども時代を含めたある程度の長いスパンで彼女たちの生きてきた道程を理解せねばならず、だからこそ、表に見える出来事の切り取りだけで価値観をかためがちな世間さまには、事実を誤解なく受け止めるチカラがなかなかないわけで、だからこそ私たちは、風俗業や夜の仕事がまるで女性たちが、自ら好き好んで作り上げてきたかのような幻想を抱いてしまったり、嗜好や人格のもと選んだ価値観とか、努力の不足や失敗でその選択しかなくなったんだと受け止めたりしてしまいます。
でも。
ぜんぜん
それは
ちゃうやろと。
まあキャバ嬢なんか手っ取り早くお金が稼げるし、店では着飾って華やかだし、彼女たちは容姿も綺麗で笑顔だから、そこに絵に描いたような悲惨さや惨めさはありませんよね。見える部分の多くは。
だけどこれを読んで、そんなもんは本当に、性を商品にしたビジネスである事実に目を背けていたいだけ、つまり現実に目を背けていたいだけで、その方が都合の良い人たちが広める物語にすぎないのかもしれません。
本当はこんなにも、文字情報だけでも受け止めることが辛くて、難しい、貧困や差別や競争や暴力によって力のない弱い方がギタギタにされてるってことなんだと。
つまり女の子たち。
貧しい者たち。
負けた者たち。
力で叶わない者たち。
あの時の、いつかの、私たち。
あなたは本当に当事者ではないですか?
この先も当事者にならないでいられますか?
そうならなくて良かったと、ならないために何をしましたか?
ほんまにこれでいいのか?
見て見ぬふりできますか?
もうね、ほんまちょっと、正直、辛かったです。
だけど、上間陽子さんの実績というか、そーゆー存在に、世の中捨てたもんじゃない、世の中を捨てたもんにするか、捨てたもんじゃないようにするかどうかは、自分の生き方しだいなはずや、とか、まだグダグダ考えてはいるんですが。
なんだって始まりは
声を発することであると。
声をあげることだと。
くじけず、
立ち上がることだと。
上間陽子という不屈のファイターに敬意をこめて。
そしてサバイバーたちに。
追記
あと、上間陽子著作は「海をあげる」を先に読んだんですが、この「裸足で逃げる」を先に読んだ方が、流れがよく分かってよいです。
「海をあげる」は、この「裸足で逃げる」を書いた上間さんご自身のプライベート含む背景の記録ですね。