好きなテレビ〜。
コンサバな主婦がアグレッシブに生まれ変わる魔法
明日は娘の運動会。 お弁当の仕込みはしたし、あとは早起きして、残りをやっつければ、万事オッケー!
…早く寝ないと。 なのに寝ない。
最近、やりたいこと、というか、考えたりやってみたりしてワクワクすることを、ひとつしました。 それで、あ、私、なんもやってなかったなあーって、しみじみ思いました。
この、今自分は子供たちの母だから、結婚して家庭を支える主婦だから、やりたいことできないに決まってるじゃん病は、なんなんか。
いや、価値あることなんすよ。誰かのために頑張ることは。ただ、正直、これでいいのか?と考えてしまう時があるんです。
価値あることだと理屈では分かってるし、子供たちと一緒に笑うだけで、あたたかい気持ちになってとっても癒されるんだけども、癒されるのは、逆に日々が疲れているから、というかやるべきことが沢山あるのを、ひーひーこなしてる感じだから、もうありがたいな、でっかいモチベーションだよな、それなかったら、絶対やらねーよな、な感じなんですね。私をお母さんゆーて愛してくれて。
…子供が私を愛してくれる、だから頑張るという、有償の母の愛。
で、そんなマイライフが辛いか、と言われると、そうでもなくて。私はやるべきことがあることに、安心してしまってます。40過ぎて、やることない人、なかなかいないでしょうけど、要は、コンサバなんだろな… コンサバの良し悪しはわかんないけど、まあ実際、20代の時よりずっとコンサバなんだと思う。
やるべき習慣の中に基本、身を委ねてる。それこそが、私の暮らしがコンサバな理由です。思考を停止させると、ある意味平和ですよ…。ありがたいことに。
でも。私の中の何かが、いや、コンサバも、危険があるよ、と言います。 それは何か?わかんないけど、与えられた社会的な役割に乗っかることに、人生の意味があると安心して、ほんまにええのんか?と思ってしまう瞬間。
1人でも笑えるし、自分だけでも楽しいし、ワクワクすることをちょっぴり今の生活に加えたら、めっちゃくちゃ楽しくなりそうじゃないですか?
ということで、川柳やら音楽鑑賞やらを始めました。
川柳かい…… 昼顔ちゃうんかい。 なんとか活動ちゃうんかい。 自分探しの旅でもないんかい。
…ちゃうんです。 そーゆーんではないんですね。 根が高等遊民なんでしょうね。我の世界に浸れたら、いいんです!
趣味に没頭したい! 1人ほくそ笑み満足したい!
……。 もしかしてフツーの主婦のやってること?
ただ、あれですよ。若干オタクというか、下衆というか、卑しいというか、根が非社交なんでしょうね。あーだこーだ言われたくないけど、自分はうんちく語りたいみたいなね。
ま、そんな感じで、しょうもないことをちょっぴりずつ、してみて、人生をもう少しアグレッシブに生きてみようかな。
そんな1人前夜祭でした。 おやすむなさい。
日本は世界とどう向き合うか…コトバにはチカラがある。
今回の安保法案の参院可決、ニュースアプリでいろいろ見てたら、メディアによる論調の違いがすごく顕著で、なんかおかしかった。
あー、そっか、視点変えたら、そう来るか、みたいなのがいっぱいあって、 産経と朝日、東京新聞とかだけじゃなくて。 ただ、アプリ自身のセグメントがよく分からないけど、反対の方が多い気はしました。
可決しちゃったし、私も不安ですもん。子供の将来とか。 ネットは匿名を盾にバッシングオリンピックだから、あんまり政治の話はしたくないけど、個人的には、今回の安保のことをきっかけに、これからの先行きは分からないけど、日本が世界とどう向き合うべきか、考えていきたいなあ、と感じました。
とはいえ政治には無知な私に小難しい話はわからないので、政治、政策というのではなく、社会全体の空気というか、目指すベクトルというか、大きな流れとして、世界との対峙の仕方を模索できればなあと。その転換期になればな、と。そんなことをテレビのニュース見ながら考えてました。
私が考えた模索は、安保云々じゃないです。日本を守りたいし、国際的ないざこざが増えていくのも分かるし、心配だから、対抗できる力を持ちたいと思うのも理解できる。だからこそ日本を守る手段として、武力ではなく、別の部分から迫ってみてもいいんじゃないのか。つまり、武力以外の解決の可能性を考えてみたいんです。
結論から言うと、話し合いとか取り引き、駆け引き手腕とか、いわば、ペンは剣よりも強しとも言われるコトバのチカラで解決できないかと。
日本に必要なのは、コトバで戦うスキルとスキルを備えた人材の育成なんじゃないか。
いや、そんな単純な話でもないし、いろいろ専門的見地から、多角的な視点で語られるべきだし、その上で安保法案でもめてることは百も承知なんです。
まあそれはそれとしてですよ。日本に暮らして思うのは、てか日本でしか暮らしたことないっすけど、日本と欧米諸国はじめ他国の違いは何かと考えるときに、よく言われるのが、和を重んじる文化、風習があるということだと思います。 自己主張し過ぎず、えばらず、自慢せず、奥ゆかしさとか、こっそり努力するとかを美しいこと、美徳とする文化がある。利己より利他。自分一番はワガママで、他人を思いやることが一番大事。周りとの協調があってこそ、社会は成り立っている。
はっきりと家庭や学校で教わる訳ではないけれど、小さい頃からその空気の中で生きて暮らし、どこか染み付いている。 それが日本の文化。
和を重んじる文化は私は美しいと思います。特に、日本の暮らしやすさは、この和の精神があるからこそ、他国にはない魅力じゃないですか。日本が世界に誇れることだと思います。電車は時間通りだし、お店の人は親切だし。ほんま、「おもてなし」に関しては、一部のではなく、全体にレベルが高くて、たとえば、高級レストランだけじゃなくて、フツーの居酒屋とかスーパーにも高いサービスクオリティーがある。世界の他の国々は絶対勝てないことだと私は思います。 めっちゃ好きです。そんな日本。
一方、自己主張してなんぼなのが、世界の列強の国々です。特に大陸の人々。国と国、民族と民族、異教徒同士が隣り合わせに暮らし、血で血を洗う戦争ばりばりな歴史を持つヨーロッパ、アジア。生きるためには勝たねばならん、勝つためには自己を正とせねばならん。そしてそれを周りに認めさせないといけない。ずっとそんな歴史を辿ってきて、そら、自己主張が磨かれていきますよね。そもそも多種多様な人間がひしめくなかで、きちんと自己主張せねば、自分が何者か理解してもらわねば、盗人や曲者に間違われ亡き者にされる可能性だってあるわけです。
そんな列強の方々と日本に暮らす私なんかが、ひとたび議論なんかになった日には。怖い!ディベートやディスカッションなんかのコミュニケーションによる争いごとの中で、奥ゆかしさとか協調とか調和とか日本の美しい風習・文化なんか一蹴です。なんも言えねえ。で終わります。最後泣いて土下座かもしれません。
自己主張は悪とまではいかないけれど、歓迎されてるでもない日本で育ち暮らす人が、言ってなんぼ!曲がった事でも真っ直ぐやねん!と自己主張しなければ生き残れない歴史を歩んできた大陸の人と、討論とか話し合いをして、どうやって勝つねん?
討論や議論や話し合いで、日本の人が勝てる道はないのかな。美しい風習と文化を持つ日本だからこそ、独自の自己主張の方法を模索しないとあかんと思うんです。
大事なのは、議論には必ず勝たなければならないということです。議論で勝つ=思った通りの決議がとれる、相手に自分を力ずくではなく心から認めさせる。
だから、相手が納得していないのに無理に押し通したり、決議を強行するのは、勝ちじゃないといえます。何故なら、相手はきっと、恨みを持ったり仕返しを考えるから。マイナスに転じると分かって押し通すのはルース。
その観点から考えたとき、実は、議論や討論で不利に見える日本の美しい風習文化の中に、解決のカギがあるんじゃないでしょうか。
議論で本当の意味で勝つために必要なことって、
誰にでも伝わりやすいコトバで話す
ロジカルな説明力
感情的にならずにいられる
相手のことを知り理解する
相手が本当に納得するまで誠意を尽くす
などが必要だと思いますが、これって、日本の美しい風習文化の精神に似てません?
利己より利他で、和を大切にするその根源は、他者への愛みたいなもんですよね。それは他者を理解したいという意思の表明です。
だから、本質的には、日本人は、議論が下手じゃない、むしろ、かなりハイレベルな国民じゃないかな。
ただ、問題なのは、多くを語らずとも伝わり合える同じような人々だけで長い間暮らしてきてしまったこと。日本は、他者に多くを語る必要のない平和な時代がずっとあったちゅーことですよ。 それはそれで、良かったな、と思います。 が、その良し悪しは別として、語らずとも伝わるなんて、国際社会では通用しないことは、もう大体みんな分かってはいるんだと思います。
語らないと絶対伝わらないくらい、むしろ、語っても語っても伝わらないくらい、なんもかもが違う人々の中に混じって語る。 それがこれからの日本が、取り組むべき道なんじゃないのかしら。
まずは、語る。語ろうよ。自分のことを。自分の国のことを。他者を理解するための聞くチカラはあるんだから。
議論の場の公私や規模はいろいろでも、まずは「私たち日本国民は、こんなことを大事にしていて、こんな風に考えていて、こんなことに価値を感じるんです」と。
あなたの国や民族とは違う部分もあるだろう。その違いはぜひ知っておきたい。でも、同じ部分もあるかも知れない。 嬉しいこと、悲しいこと、感じる心は同じかも知れない。
職場に部署は違うけど、ヨーロッパから来た仲間がいるんですが、いつも明るい彼だけど、南アメリカから新しい仲間が来たとき、心の友を得たジャイアンみたいにめっちゃ喜んでました。彼は日本が大好きだし、みんなから愛されてるし、楽しいこともあるやろけど、異国で暮らす大変さもあるんやろなあと、そんな当たり前なことに、そのとき気づきました。
国際社会のパワーバランスという波に乗るのは、法案じゃなく、日本が語りかけることでしか、本来的には叶わないんじゃないかなと感じます。
ちゃんと話しもせず、粘り強く説得もせず、他国と同じ条件に近づければ、他国は私たちを理解してくれるんでしょうか。認めてくれるんでしょうか。やるなあ、と一目置いてくれるんでしょうか。いいように利用したれなんて露とも思われず対等の信頼を獲得できるんでしょうか。
電流流す柵よりも、収穫を祝うパーティの方が、抑止力になりません?相手は畑を荒らす動物じゃないんだから。キーキーわめく子ねずみでもないんだから。
子供たちには、議論に勝つチカラをみがいてほしい。日本の美しい風習文化を身につけながら、そこにコミュニケーション力の自負が備われば、ものすごい国になる!国はそんな人材育成に注力してほしい。
仕事は慎重に 批判も慎重に
なんだかなあ。
エンブレムの取り下げ騒動。
そんな騒がんと、さっさと違う提案したらいいだけやん、と思ってしまう。
大層なことやなあ、と。
あと、盗作とか模倣とかとは違うと私は思う。
ネット社会になって思うひとつに、引用の多さ。
文字の引用も許可がいったり、いらなかったり、線引きが曖昧になってきてる。
デザインも、それ自体は多分、オリジナル。ただ、モチーフをそのまま無断で流用しちゃった、ていう。
アンディウォーホルの作品はなんやねん、ともう一度考えて、答えが出なかった。ただ、慎重に、敬意を持ってモチーフを扱わないといけないとは思う。
でも紙媒体とは常識が変わってきたネット社会に感覚が埋没したんかな、ていう。
もしかしたら、自分もしてしまうかもしれないよ。プロやからダメでシロートだから許されるというのもなんか違う。要はモチーフ元とか引用元への礼儀というか、敬意というか。それをうっかり軽視した未熟さ。なだけ、ていうと語弊があるかもしれないけど、あんた(キャスター)がそんな怒ることなん?あんたに迷惑かけた?って見ててむしろ、佐野さん大丈夫かなと考えてしまいます。
全然好きでもないのに。
同じ方向にすぐ流れ、吊るし上げる対象の生活とか家族とか想像しないマスメディアの方がよっぽど思考停止やん?それは許すんや、吊るしあげへんのか。ふーん。
まあ、昼間にテレビをつけた私があかんのかな。昼間にテレビ、やっぱりがっかりして終わるなあ。
nothing's gonna change my love foryou
ジョージベンソン。1984年の曲です。 超有名だから、聴いたら、はあはあ、これか、と思うはず。
https://m.youtube.com/watch?v=Tr97MQiqW38
AORの特徴として、音にはこだわるけど、歌詞ってなんかいつも、愛してる愛してない系のどってことないものが多い気がします。悪くいえば陳腐。英語だから、全然気にならないけど。意味分かって聴いてねーしな。
でも、夜中に暗闇で延々AOR聞いてたら、すごく浸れます。私だけ?
今ふと、前に知り合いと何気ない会話で、自分の好きな音楽を人に教えるって恥ずかしいよね、と言うことで、意見が一致したのを思い出しました。
人に教えるとなった途端、私は多分、「わたし、AORが好き!」なんて言わないでしょう。なんか差し障りのない大物とか無難な洋楽を言うんですよ。つーかそれすら思いつかない。テイラースウィフトとか?
そう考えると、好きな音楽を堂々とFacebookなどでカミングアウトできる人が、めっちゃ羨ましいです。匿名だからできることを、実名でできるなんて、肝のすわりが完ぺきだな。
ノミの心臓の私にはできないことです。
でも本当はAOR好きだ!って言いたい。何故か?仲間が欲しいから!まあ、別に一緒に聴いて、感想を言い合うとかはしませんが。
幸いにもリアルな友達にAOR好きな奇特な人物がいるので、CD交換とかしてるんですけどね。してるんかい?輪があるんかい?
1人だけど。
それでも、
AORが好き。
てなかなか言えない理由のひとつに、AORが実はあまりにポピュラーだからなのもあります。CMとかバラエティー番組の挿入とかでやたら聴きます。バラエティー番組はそんなないか。過去に巷にあふれかえり過ぎたんだと思います。だから、知る人ぞ知る感はまったくないし、楽曲が商業的だと評価されがちなんですね。
ただ、私は、それが商業目的に見るからに染まっているように見えるとしても、質自体にはなんら劣る部分がないこと(多分)、むしろ今の音楽の土台を築く素晴らしいアイデアが70〜80年代当時にしてすでにたくさん詰まってること(多分)、さらに前にも書いたけれど、私自身がAOR全盛期に子供だったので、リアルタイムで聴いてなかったこと、などなどから、AORが流行遅れ…コマーシャリズム…というイメージの洗脳がほぼなく、むしろ新鮮な音楽として受け入れられたんですね。うーん、ほんまなんでも時代とかタイミングとか、あるよなあ。
AORは、私が子供だった昔から、21世紀もだいぶ過ぎた未だあふれかえっているので、もちろん聴いたことはあるんですよ。でもまったく心に残ってないというか、印象になかったんです。
そっかこの曲、AORなんや。
今の私にはすごーく心地よくて、丁度よい具合やなあ。
40過ぎて。まわりまわってたどり着いたのがAOR!
50は何に出会うかな?演歌とか?
で、人に言えないんじゃん? その素晴らしさを声を大にして言えないって、じゃあ今上に書いたことはなんやねん? どないやねん。
けど、やっぱり、好きな音楽は人に言えないんです。ごめんなさい。 こっそり、1人、聴かせていただきます。。
追記 あと、音楽通の人のサイトはめっちゃ発見あるし楽しいし好きだけど、音楽通の人から自分の音楽をバカにされたらやだなぁ…てのもあるかも。なんせ、ネットみてたら、プロじゃあないのに玄人はだしの人ばっかりだもの。
上司が腹立つ〜〜!ときの気持ち対処方法
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AOR プラス つながらない生き方
最近ちょっといいことがある日々です。
音楽を聞き出した。
ジャンルはAOR。ロックが疲れたんです。
向かうものがないからか、トシか、疲れてるのかわからないけど、今の自分にちょうどいいのが、このアダルトオリエンティッドロックでした。
てまだそんなに聴き込んでないですが。
時代でいえばAORは、70年代からちょうど80年代へ移るはざかい期。私は幼児から小学生に上がる時期なので、存在すら知りませんでした。聖子ちゃんや郁恵ちゃん、桜田淳子さん、西城秀樹さんなどをテレビで見ていた時代です。
同い年の友人が高校時代にはまってたらしいですが、その頃も私自身は全くスルーしてました。パーラメントのCMにボビーコールドウェルが使われていた時代すね。その頃の私は、パーラメントはスルーし、中学時代からさらにビートルズを幅広く聴き込んで、ほかは50〜60年代、オールディーズのコンピアルバムを集めてました。ニールセダカとか。
あと、これまた最近知ったけど、当時また別の友人の影響から崎谷健次郎さんを聞いてましたが、崎谷健次郎さんは、wikiではジャンルはAORと書かれてるんです。ってことで、全く無縁でもなかったんだなあ〜と、後に思うわけですが。
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そんなAORほぼ初体験な先日、友人から、今や60超えたボビーコールドウェルが、ヅラっぽい。という話を聞いて…がくーん。
ヅラかい
いやヅラがあかんのではなく。
私には音楽があるから髪はいらん!とはならないんだね…と。
そうあって欲しかったな、と。
アーティストに、俗な部分を見せられたらやだなぁ、ていうアオいタマシイが、あるからでしょうか。
でも、今のところ、ボビは一番好きです。
風のシルエットの頃の初期のビジュアルはめちゃ好きです。初めて見たときのヅラ疑惑に負けない衝撃がまだあります。かっこええがな!ていう。
今日は、NHKの朝イチでやってた、つながらない生き方 が面白かったから書くつもりだったのに、ボビの話になってしまいました
よ。
そうそう、それもだけど、NHKの番組が最近面白いね、の話もあるな。
朝イチは前から好きだけど、バリバラとか。ドキュメント系とか。
え、どれ書く⁉︎
いろいろ書きたいな。
とりあえず、「つながらない生き方」は、SNS過渡期時代の今の自分のモヤモヤ感にどんぴしゃりだったわけで。
ママ友な。
分かるわあと。
私なんて、LINEのグループ、途中で抜けたからね。ざわつくの覚悟で。自慢でもないけど、正直良かったな、と。家にいる間、どんどん子供の話聞かなくなってたから。
そもそも、Facebookにしろ肌に合わないのもある。きっと。私の脳内になかなか発表できそうなキラキラしたものがない、だけでなく、名前を知ってもらった上で、脳内をもうお見せするに値するものがほんとないんですみんな悩まないのかな脳内そんな健全ですか恥ずかしくないのか理解される自信はどうやったら持てるのか自分がこんな脳内マイノリ
ティーだったなんて。
てグダグダしていたら、ただただ重荷に感じてたというのがSNSなわけで。なのに、生半可に参加してたり、自分がほんまイヤになる嫌い、って泣いてたお母さんのお話、笑えない。ちょっと嬉しくて笑ったけど。
いやSNSを扱いきれてない人は、私だけでもないんだな、と嬉しくて。
なかでも蛭子さんの部分は秀逸。
中島義道とか通じるものあります!
で、この日の朝イチが始まる少し前。
奇しくも、
まさにこのお話の
つながりたい 僕ら
に対するお話の
解答に
私の好きなブロガーさんが果敢にも挑んた更新のお知らせメールが(*^^*)私に参りました。
それが、蛭子さんのさらに上なわけです。
蛭子さんは、友達よりも自分の好きなことを優先しようよ。本当に面白いと思うことしようよ。
と仰っていたんですが、
私の好きなブロガーさんは、
自分の本当に好きなことが分からないのがSNS時代なんだ、と仰っているわけです。
うーんと、達筆に叶わぬので、表現にズレが生じるかもですが、私の解釈にて、
見せる自分に慣れだした私たちに
見せることを除いた、…仮に見せずにこっそりと…てイメージにしときましょうか。
そうその、誰にも見せずにこっそりと感じる、求めるもの、欲しいもの、なんて、考えつかないんじゃね?
みたいな。
そもそもは、まず自分の行動ありきで、次にデジタルで発信していたものが、逆にまずは見せる体裁で、行動を決めていくようになったような
とでもいいましょうか。
そうなるとアレですよ。
見せる
という体裁で、好きなことも、面白いという感情すらも、決めていくんじゃねーのか、見せる を抜きにして、やりたいことやれるのかな、ていう。
私の好きなブロガーさんは
それじゃ怖いことならない?
人に見せる
じゃなくて
人と対話する
道具なんだよSNSは。
と仰っておりました…。(私の脳内で)
チェコ好き さんというブロガーです。
若いのに、造詣が深くて
読めば読むほど、はっ!とさせられる方です。
今一番尊敬している人の一人でございますです。
とまあ、そういった複合情報を本日はたまたま?一石二鳥的に得ることができ、なんだか宝くじのちょっとした配当があった気分(*^^*)な日でございました。
では、ごきげんよう
人間関係に弱りました
ここ数日、悩みがあり、眠りが浅くなったり、若干、食欲をなくしています。十分、食べてるけど。
このメンタル不調は、私がバカにしてきた、職場での人間関係が原因です。
そもそも、職場は職を全うする場所であり、仲良しごっこの場所じゃねーんだよ。
と考える傾向にありがちなわたくしですが、いやまさか、ここに来て、まいっちゃうとは、自分の未熟さに、とほほ…です。
しかし、いつまで悩みを引きずらねばならぬのか、を考えて、とりあえず解決策を見出すべく、まずはググりました。
検索ワードは
すぐにキレる 同僚
キレやすい人
境界性パーソナリティー
いやあ、あるわあるわ。知恵袋とか小町とか他いろいろ。
みんな大変なんだな、と分かっただけでもムダじゃなかったと思います。(笑)
そして3日連続寝不足の今、休みまでそのことでアタマいっぱいの今、抜け出していないけど、ほんの一筋の糸口をつかんだかもしれない…し、つかんでないかもしれない……みたいな、今。
アタマの切り替えなんすよ。要は。
相手の行動のおかしさを何度もアタマで再確認したり、自分にも非が、てか隙があった点を後悔したり、どうやったら相手をぎゃふんとできる毅然とした態度を保てるか悶々悩んだり、これからもきっと問題が起きる可能性が少なからずあるような、出来事だけでなく人格そのものに対して信頼できかねる相手との同空間でのこれからの時間を想像してひたすらに気が滅入ったり、それをループで繰り返してきて。
うんにゃ!
自分も相手ももはやもう、何ミリたりとも期待通りにはならないのですあきらめるんです人は変わらないし理解し合えないしそんなんは夢物語でナンセンスで非現実で哀しいだけなんです。
解決策を探すとか。
そう。問題は、私が仕事をしている、生きている、その愉快さに心の照準を合わせること。
要は、どうしようもない現実はそれでよし!として、それより考えるべき別なことがあるはずな気がちょっとしてきたんです。
たとえば、今私は一介のパートの身でありながらも、メディア統括トップと直接やりとりできる社員部内ミーティングに参加させてもらい、ベンチャー企業の規模拡大フェーズにおける部内組織体制の再構築と設計みたいなことに参加させてもらってます。
つーか、全エネルギーをここに費やしている。変な悩みが生まれるついこの前までは、休みの日ですら、この組織運営設計におけるいろいろな課題やその解決策なんやらばかり考えておりました。うーん、うーん、と。
この仕事はまだスタートしたばかりで、しかも割といい感じのスタートだったんだけど、考えてみれば、まだまだ序の口なわけで、これからなんですよ。奔走すべくは。
まだ、本質的な意味での体制も整備されてないし、現状の改善結果の中にも新たな課題が生まれています。
うん。いや、がんばらなあかん。あかんよ?わたし。
そんで、大事なのは、わたくしは、ここにあり、と自負してます。
この仕事で私はキャリアを積みたいわけじゃないし、お給料をもっともらいたいわけでもないし、ほならなんでこの仕事を一生懸命やりたいか。
それは、なんや!
最近ハッと考えたのは、それは、誰もが働きやすい職場を作りたいからなのではないかなと。
私は、上の子を出産して再就職して以来、ずっとアルバイト、パートです。少なくない数の転職も経験してます。徹夜とかフツーにしていた独身時代と違って、早く帰らないといけない、残業できない、時間給だからその分の会社的コストに見合った工員的働きを見せないといけない、社員に迷惑かけちゃいけない、でも子供はインフルエンザやマイコプラズマやノロウイルスに感染する、急に休まないといけない、結果迷惑かける、いづらい、ひとつの仕事だけでも最後まで責任が持てない、いつも後ろめたい気分でいる、役立たず、その割に子育ても不完全、子供に負担をかけてる、家事もおろそかで家が汚い、なんだか全部中途半端、一体何がしたいのか、私無力、非力、情けない、生き方間違えたんか、それとも私が未熟だからか、いや、社会的サポートが未熟やからか、はあ〜〜〜〜あ。
という数年を過ごしてきました。親や保育所や学童のサポート、無自覚に女はお母さんとして家事も育児も中心で当たり前な考え、でも自分はすごく協力的な夫だと思ってる夫と喧嘩しながらの共働き生活、そんな中で。
だから、パートでも社員でも、新人でもベテランでも、お母さんでもお父さんでも独身でも、若くなくても若すぎると言われても、時間が短くても、残業しなくても、誰もが公平に自分の成果を出せて、やりがいを感じれて、日々のルーティーンに追われるばかりじゃなくクリエイティブな業務にも取り組めて、新しいチャレンジができて、でも、家族やプライベートもしっかり充実させれて、本が読めて、料理が義務じゃなく楽しみに思えて、健康に暮らせる。
そんな職場を作りたい。
それが私の目標であり、そのための仕事だと考えいます。
でも、完璧はムリなんは分かってます。だけども今よりよくなることはできるはず!
そして父になるがいいたかったのは、事件が生んだ悲劇ではなくての
見ました。
録画したテレビ初放映?の
よかったよー。
泣いたよ。
この映画は、やっぱり 「父」 がテーマなんですよね。
私には9歳と4歳の子供がいます。
もし自分だったら、交換はないです。
今自分の子供と血が繋がってなかったと言われても
離れられないし、離れる必要感じません。
てか、多くのお母さんお父さんそうなんじゃないかなあ。
そのいわば、常識的な親の立ち位置に、福山雅治演じるパパが、なかなか立てなかった。てことが、この映画の問いかけなんだと私は思います。
だから実際にあった赤ちゃん取り違え事件を取材した、ドキュメンタリー書の参考文献と、是枝監督のこの映画の差異を、一部取り沙汰されているのも違和感を感じるのです。まあ赤ちゃん取り違えという設定というか背景というか、それがかなり衝撃的なんで、そっちに気をとられてしまう気持ちも分からなくはないんですが。
でも、この映画は、事件が生んだ悲劇ではなく、「父がテーマ」だとして見る方が監督の言いたいことに近づける気がします。
父親とは?を考える。そこがまず。
私はすごくよい視点だと思います。母親については言われがちだから。
この映画ではお母さんは、当事者の両家とも、ハナから交換はしたくないんですね。そらそーだ思う。
血のつながり、て気にして育児してないもんね。
じゃあ何故、福山パパが、交換しようと思ったか?そこ!そこなんですよ。
それを理解するカギとして、福山パパとフランキーパパの違いが分かりやすいんですが、福山パパは忙しいパパ、フランキーパパはそうでもないパパなんですね。
ここの差異を、エリートパパ、ビンボーパパとして認識するのは早計やと私は思います。
金がある家、ない家。
その違いじゃないんすよ。
パパが日曜日に家にいて、子供と遊んでるか。
一緒に風呂に入るか。あるいは一緒に寝てるか。話してるか。笑ってるか。子供に眼差しを向けているか。子供の顔を見ているか。
シンプルにいえば、それかなと。
なんやかや言って人は、一緒の時間を過ごすなかで、様々なエピソードを共有し、様々な喜怒哀楽を共有し、距離を縮め、親しみを感じあい、愛着を持ちます。
幼いうちの育児には、愛着というものが大切だよ、必要だよとされてもいます。
てか、母である私自身、持って生まれた母性より、よっぽどこの共有の方が愛情につながってる、て実感してます。母性をあんまり信じてない。
忙しいパパの不利な点が、まさにこの共有による愛着の希薄さ、いや、自信のなさなんじゃないでしょうか。
頑張って仕事している福山パパが別に悪いわけじゃない。ただ、やっぱり育児に必要なものの大事なひとつが不足しがちにはなる、というより、自身が負い目感じてるわけですよ。
ケイタ君に対して。
それは仕事をしてる私自身にもあるんですね。負い目。でも、その後は違います。
福山パパはこう思いたかった。
でも血の繋がった親子だから、絆は無くならない。
でも、その最後の砦の血の繋がりという拠り所を無くしたら、ほな父親ってどうしたらいいの?て問いかけてるんです。この映画は。
それでもまだ血の繋がりという拠り所にすがるの?
それとも子供と共有できるよう仕事控えるの?仕事減らす?辞める?じゃあ収入減るけど、一家の大黒柱として食べていかせられる?
私は映画の結末に共感しつつも同時に、時間がすべてだとも思わないです。子供と過ごす時間が少ない忙しい親がすべて子供との愛着関係が希薄なんか?というと、必ずしもそうではないと思うから。
福山パパが閑職に左遷させられなかったままなら?変われないの?
結局、親子の絆、結びつきってなんやねん?
血じゃない、時間じゃない。
そう考えると、ほんと悩みこんでしまいます。
親子の絆がなんなのか、その答えはまだ私には分からないです。
ただ、寂しいのは子供なんかな?かわいそうなんは子供なのか?
もしかしたら、親の方が寂しいのかもしれない。
共働きとかシングルマザーとかシングルパパとか、子供との時間がなかなか取れない親はジレンマ持ってますよね、きっとみんな。めっちゃ悩んでますよね。
子供が寂しくないか。
我が子のこと見えてないんじゃないか。
犠牲にしてるんじゃないか。
でも。子供といる時間の幸せを求めてるのは子供だけなんだろうか。もしかしたら、親の方が寂しいのかもしれない。子供には未来があり、親には人間を巣立たせる覚悟がいる。いつか手から離れて、それを祝わなければならない。成長を祝わなければならない。
だって子供の成長は嬉しいけど、私には寂しいんです。同じ時間を過ごしていても、向こうは日々変わっていくんですよ。大きくなっていくんですよ。反対に親は年をとり小さくなりながら。
だから子育てから逃げることって、実は子育ての寂しさから逃げている面があるんじゃないか。とか、ふと思ったり。
それが答えかは分からないけど、親は寂しい生き物で、人間は寂しい生き物で、子育てはそれを自覚するための、それこそミッションなんじゃないか。
なんて思ったり。
共働き両親に育てられた子供だった昔を思い出したりしました。
お父さんとは寂しい生き物。
お母さんよりももしかしたら。
でも、寂しくない親より、寂しい親でいてほしい。寂しくないフリをしても。
だから、時間がどうではなく。血でもなく。
寂しさと向き合える親でいられるか。
そんな覚悟が、親の条件なのかもしれないなあ、と自分の父親を振り返って考えたりします。