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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

わたしはダニエル・ブレイク_社会派の巨匠ケン・ローチを観る②

 

2016 イギリス

かの社会派イギリス人監督、ケン・ローチの作品。また観ました〜(о´∀`о)

またも地団駄の衝撃。

ネタバレてます。

 

ダニエルは、大工のじいさん。

心臓を患って医者から仕事を止められたんで、支援手当の手続きをしに役所にいきます。

が、役所の担当者にご意見してしまったがために、なんと支援手当の申請が通らず。「なぬーん!」と役所に乗り込んでいくも、混み混みの順番待ち。

 

仕方なく順番を待っていたダニエルは、子連れシングルマザーのケイティが、役所のおばさんともめたあげく警備員につまみ出されそうになるのをみかねて、意見するんですが、まあ聞く耳ない職員と警備員に一緒につまみ出されます。

つまみだされ仲間(´∀`*)で、仲良くなったケイティ親子を支えながら自分は自分で支援手当が打ち切られるから、それの不服申し立てやら、いわゆる失業手当ですね、あれの申請やらをイマドキスタイルで、WEBサイトで手続きしろと言われて。

「できるかーい」ななかを、なんとかかんとか申請するも、その後も職探しのやり方から何から、役所からいちゃもんをつけられて。

いやそもそもダニエルは心臓悪いから働けないのに、しゃーなしに職探しさせられた上にですよ。

 

すったもんだの末に支給停止に。

こういうお役所あるあるはイギリスにもあるあるなんですね。

 

で、無意味な職探しと役所とのすったもんだのなかでダニエルじいさんは、子連れシングルマザーのケイティを助けたいと何かと世話をやくんです。

だけどケイティもまた、働き口が見つからず、果てには電気ガスを止められたり、自分は食事我慢して。

 

みかねたダニエルが一緒にフードバンクの列に並ぶんですね。でやっと順番が回ってきて、ケイティったら、お腹が好きすぎて我を忘れて缶詰めをその場で開けて、むしゃむしゃ手掴みで食べてしまいます。

あ…あ…と見ていたんですが、ケイティは我に返って泣き出して、係の女性がそんなケイティに「落ちついて、大丈夫よ」と慌てて声を掛けるんです。

付き添いのダニエルもまた、まさかケイティがそこまで追い詰められているとは思わず、駆け寄って慰めます。

 

このシーンはですね。

見たことない切なさ。

貧しい時代の話でもない、いわゆる発展途上国とかでもない。

先進国と言われるヨーロッパの大国ですよ。

 

シングルマザーが、フードバンクで缶詰めを手づかみで食らいつく…

 

こんな悲しい場面、見たことないです。

ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」より悲しくなりました。

 

自転車泥棒 (字幕版)

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  • ランベルト・マジョラーニ
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なんていえばいいでしょうか。

ケイティは私なんです。(入り込み具合が強め)

すぐそばの、横にいる仲間なんです。

 

でダニエルが泣き崩れるケイティに言うんです。

「ここの人たちは、君に辛くは当たらないよ」と。

 

同じ困った時のケア的存在である役所とフードバンクを対比させて、全然その視点が違うということを描いているんですよね。

 

一方で、ダニエルじいさん自身は、自らは決してフードバンクを利用しません。

職探しも高い技術を持つ大工として雇いたいという人から電話があるんです。「あんたほどの腕の持ち主はいない」と。だけど、医師から止められているわけで働けないという…。

 

そんなことでダニエルじいさんは、「自分はフードバンクを利用する立場ではない」と。家具を売り払ってなんにもなくなっても。

 

これはですね。ただダニエルを働けないじいさんという視点で見ていたら、頑固ジジイの下手なプライドに見えるかもしれません。

だけど40年職人として自らの腕で生きてきたプロフェッショナルとして見れば「プライド捨ててフードバンク行けよ」って誰が言えるでしょうか?

 

とはいえ追い詰められていくダニエルじいさん。

我慢ならず役所の壁に、落書きスプレー。

ギャラリーは拍手喝采も警察に補導。

 

ケイティと子供たちは、そんなダニエルじいさんを助けます。こういう助け合いが、当たり前に隣人たちにあるのが、ケンローチだし、イギリスなんでしょうね。

地べたの人たちは本当に優しいです。

 

ケイティは支援してくれる弁護士を見つけ、やっとまともに支援の正当な申請ができるところまできて、ラスト……。

 

「家族を想うとき」の3年前の作品ですが、「地べたを生きる庶民」視点は変わらずです。

どちらもなんですが、

ケンローチが描く貧しさって、どう言えばいいのか、「貧しい人」ではないんですよ。

普通に隣に住む人なんですね。

つまり、「家族を想うとき」のマイホームを願って過労しているパパ・リッキーも、立派な職人のダニエルも、また通信大学に通いながら子育てするケイティも、そもそも無条件に「貧しい」わけではなくて、「幸せ」を求めていったり、1人で子供を育てたり、身体を壊したりして、どんどん追い詰められていくんです。

 

だから、自分の家を手に入れるとか、子供を育てるとか、病気になるとか、まあ生きてたらフツーに「あるだろうな」というライフステージの変化をきっかけにじわじわと追い詰められていくんです。

 

自分のなかにある貧困の現実。

だからこそ、真に迫るものがある訳です。

 

そして、フツーの人々が貧しさと隣り合わせであることが、「現実」なんだと。

これが、今の現実の社会なんだと。

なんとなく平和で公平で進歩的で現代的な「私のいる世界」であなたには何が見えていますか?と。

 

突きつけるのがケンローチ作品。

 

カンヌ国際映画祭パルムドールほかいろいろ受賞してます。