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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

「ドライブ・マイ・カー」_優しい陰キャであるために

ドライブ・マイ・カー 2021

プライムで無料でしたので見ました。
178分と約3時間の長編でした。
原作は村上春樹さんの短編作品ということなんですが、一言でいってめちゃくちゃ「春樹の世界」に忠実だったのではないでしょうか。

原作を読んでいないので、ディテールがどこまで反映されているのかは全くわかってはいないのですが、春樹作品の読後感と、映画を鑑賞した後の余韻がまったく一緒でした(*'ω'*)

もう原作読まなくていいでーす♪
というくらいに、春樹さんを感じたのですがいかがでしょうか?

観ててつくづく思いました。
以前に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ時の
tsubatarou.hatenablog.com

結局なぜ私は村上春樹を読むのか?読みたくなるのか。主人公の気持ちに近づいたかと思うと急に突き放されたりしつつ、人の心の在り方をとても素直に忠実に描くからだと思います。

これに尽きるのです。映画を観ても。
ネタバレあり。

テーマは村上春樹さんらしく、やっぱり「喪失」です。

で今回は映像ということでなんだか活字よりも余計に感じるのが、おシャンティ(住んでいるマンションが高級タワマンだとか)もなんですが、いちいち「セックス」「オナニー」「ヤツメウナギ」みたいな、おばちゃんがギョッとするマテリアルを放り込む点ですね。

それで今回もいつものように「春樹さんはセックスという要素を入れることで、何を言いたいんだろう」と悩みました。

西島秀俊さん(主人公)が妻(霧島れいかさん)とセックスしているシーンや、
「妻がセックスの時に」とか言うと、
観ている方は知った風な顔をするか、
もしくは「お、おおぉお・・・」と目を泳がせながら落としどころを探してしまうというか。

活字以上に。

私の解釈としては「あれはマテリアル」なんだろうなと。性への言及があることで、俗世間と人智を超えた世界とに地続き感が出るというか。

そうでなければ、遠藤周作さん的な「人間の業とは」的要素がめっぽう強くなるかもというか。

遠藤周作作品も好きですが、
私自身は信仰に生きる人生観としてのキリスト教をよく分かっていないわけで、
ヨーロッパの映画に漂う「ベースに神あるよなあ」というのを村上春樹作品にも感じつつ、
そこはソレとしてそっとしておいてみたいと思います。

だけれどもそこが村上春樹作品が欧米で人気の理由のひとつかもしれないですね。
会話も日本人がしないストレートトークだしなぁ。

一方で「喪失」との向き合い方は人類みんなの大きなテーマなので、宗教的要素に無知でも言いたいことはまっすぐ伝わります。


で今回、映像の春樹作品を観て、ぐわんと残ったのは
先述の「人の心の在り方が率直」ていうのがもちろんなんですが。

「春樹って暗いよなあ」ということ?
というと語弊があるかもですが、これまでも私は春樹さんのこの「暗さ」に随分救われてきました。


今回の「ドライブ・マイ・カー」でも印象的だった人物として、妻を失った主人公の家福さん(西島さん)の雇われドライバーを勤めるみさきちゃん(三浦透子ちゃん)。

さきちゃんは23歳というのにまったくの「静」の人。あの無口さ、無表情さ、過酷な幼少〜思春期、けれども憎しみに支配はされていない静謐さ。

あそこには私の(個人的な)憧れが結構つまっていて、
実際私は、ああいうタイプの人になりたいという願望がどこかにあります。

「なりたい」というのとは違いますね。
「そっち側にいる方が安心する」とでもいうのでしょうか。

村上春樹作品は「キャラクター」の奥にある、人としての「核」の部分をいつも見せてくれて、
なんとなく「ああ、私は私であっていいのだ」と思わせてくれるんですが、
要はみさきちゃんって、一般的にはぶっちゃけ、ただただ陰キャな23歳なんですよね。

20代が元気や色気や青臭さを求められがちな現代社会において、みさきちゃんという存在は、異質。

だがしかし、その静けさの中にはすこぶる揺るぎない信念みたいなものがある。悲しみの深さが300年生きた大木のようなどっしりした静かなるバイタリティを培養させている。

孤独の果てに、主人公やみさきちゃんがたどり着いたものは何か。

それは残されたものとして「生きること」。
そしていつの日か、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」のセリフのように
「ああ苦しかったよ~頑張ったよ~」と神様に嘆いて
安らかに最期を迎えること。

そうそう〜。
これは原作の故なのか、映像ゆえなのか分からないけど、私の中の「村上春樹が苦手~むずい~」って感性に共感できる部分として、ちょっぴり・・・どころか全然分からないのがチェーホフの部分です。

ずっと意味不明なチェーホフの「ワーニャ伯父さん」という芝居のセリフだけが続いたりして、
なんか・・・いけ好かないんですよ(笑)。
このいけ好かなさが・・・まあ魅力的ではあるわけですが(=゚ω゚)ノ

だからといって、なんでも「難しい!」で済ますのもな~とも思い、無知なりにチェーホフの「ワーニャおじさん」をウィキペディアでちょっとだけ調べてみました。

「ワーニャ伯父さん」のざくっとしたあらすじとしては、セレブリャコーフというエライ教授が持つ領地の管理人であるワーニャ伯父さんが、エライ教授がクズであり、自分がそんな教授の使用人として何十年も働いてきたことに対して、「あ、ばかみたい」と途中で気づいたものの、自分の人生を今さらもとに戻すこともできず、苦悩しちゃうっていう物語です。

映画では、この芝居を演出家の家福さんが役者を募ってワークショップ的に公演する、という流れなんですが、
「ワーニャ伯父さん」の物語の説明もないし、
セリフの読み合わせしているシーンも意味不明。

で、「ワーニャ伯父さん」の芝居のセリフの最後の最後が映画の最後の最後に登場します。
「ああ、人生ってつれえなあ」みたいな。
そんなぼやきの伯父さんに対して、姪っ子のソーニャが
「でも生きていきましょう。そして死ぬときに苦しかったよと神様にきいてもらいましょう」みたいな返答をします。
そこまできてやっと「あ、、そういうことか!チェーホフは主人公の思いなんだ!」と今さらに気づくのですが、映画はもう終わりっていう。

さらにさらにです。
このチェーホフ芝居を一層ややこしくしているのが多言語進行なんです。。

日本語、中国語、韓国語、アジアのどこかの言語、さらに韓国の手話と
登場人物がバラバラの言語を使います。
そしてバラバラでいながら会話として成立するんですね。

そんなアバンギャルドな芝居なので
映画を観ているうえでも、チェーホフ×多言語の演劇シーンは、ひたすらやっかいでした。。

誰も相手の言語に合わせない。
けれども芝居としての会話は成立している。

芝居役者の一人である(そして主人公の妻の不倫相手の一人である)岡田将生さんが途中で語ります。
「他人のことは理解できない。だけど自分を知ることはできる。自分を知ることで他人を理解できるかもしれない」
というようなことを。

言語の違いはまさにそうです。
相手の話す言語を知らないと、
相手が何をいいたいのかそれすら分からないわけで、
それでどうやって他者を理解するのか。

いや、理解なんかできない。
でも、自分の言語をぶつけあうことで、
多言語のなかの自分の言語を見ることはできる。
たくさんある未知のコトバの数々に、やっぱり自分自身のコトバも存在する。

他者のなかにあってこそ自己は存在する。

…難しい解釈は置いといて(*´Д`)

今回の「ドライブ・マイ・カー」ですが
映像でも陰キャ的ポジティブを引き出してくれる村上春樹という存在に
「あ、わたくし陰キャとして明日も生きていいんですね。いつもありがとう」と言いたい。
という結論にしたいと思います。