言論の自由ってホント。
ということで、ドキュメント「i 新聞記者」に感じたことがまだもひとつあるのでぐだぐだと。
何って、今の時代を逆に「i 新聞記者」で読み解いてみたいなと。
言論の自由が、他国の問題でなく、真に迫る自国の問題なんだなぁと身につまされた「新聞記者」2本立てでしたが、
2019年の作品公開時から、2021年、まさに世界は様変わりしていて、ホント、エライ人の決めるあれやこれやが「他人ごっちゃない」時代に入りました。
望月さんが挑んでいた沖縄辺野古の赤土割合ウソやん問題とか、伊藤詩織さんの告発&セカンドレイプ問題とか、我が身に身近な問題として想像できなかったことも、「コロナ」だけはある意味公平に降り掛かってしまった、全人類規模で我が身に起きた災いであり、人々が声をあげだした感じがします。
なんでしょう。
やっぱり自分の問題化、自分事は、声をあげやすいです。
これはもう、人間の心理の潜在的なものでしょうから
自分が判断しなきゃならないことにはやっぱり無責任にはなれないし、無責任に見えることに対して異をとなえるのは至極真っ当なわけです。
後はさまざまな情報をキャッチして、正しい情報を精査していくことの大事さ。
私は世の中全体が今ここにきて、ぐんとメディアリテラシーが上がってきたのかな感があるんですが、気のせいでしょうか。というか、メディアの存在やリテラシーの大切さの自覚化というか。
2019年があって、2020年が来て、2021年はワクチンで少し進んだものの、まだ根本的には解決してなくて、一体いつまで緊急事態宣言やるんだ…という状況で、改めて「新聞記者」2作品の先見性を感じたのでした。
で、日本の政治に感じるのは、根っからの悪というよりは、長い物に巻かれるタイプなんだなぁと。
みんながやいやい言い出したら望月さんが被ったパワハラ通り越した言論統制とかもう手が回らなくなって、あたふた判断を変えたり、誰かのせいにしたり、本質を見ずに政権支持ばかり意識したり、
森友事件みたいな官僚忖度とかは多分相変わらずの体質なまま、右往左往してる感じがあります。
医療崩壊や飲食業界をどうするんだろうとか、サポートや補償も未だに後回しだし、スピード持った動きができないとか、日本らしいと思うし、言ってる間に深刻な事態になってる悲しさはあります。。
オリンピックに関しても感染対策や無観客を徹底して開催されたわけで、ただやっぱりネットニュース見てても、他のニュースが隅に追いやられ感はあって、オリンピックの一方で、いろんな問題がなんにも解決しないまま放置されていくことに、危機感を高める必要はあるなぁと思います。
もう逆に今更、開会式や閉会式の出し物とかアスリートにあんま関係ない部分はこじんまりでいいわけだし、世界から集まった選手たちが純粋に競技に向き合えればそれがオリンピックの本質なわけで、逆にもっとミニマルでも良かった気もするし。無観客って対戦型スポーツでは実に公平な感じでよいのではとも思うし、
経済効果も、そもそもこの状況下で誰が期待してたん?だし。少しでも感染せずに無事に、が最優先でよいわけで。
私たちは国をダメだ!って烙印押すんじゃなく、指摘された政府も私ら悪くない!って正当化するんでなく、あかんとこを認めて反省して改善していこう、とただそれだけのことじゃないかと。
ただそれだけが何故にこうも難しく。。
「i 新聞記者」のあの菅官房長官(当時)の答弁を思い出して、認めて変わっていく、変えていく勇気や決意が大事なんだなと改めて感じました。
そう考えると、森監督の最後の「集団ではなく個人で考え発信しませんか?」という語りかけは、「人を色メガネで見ないようにしたいよね」とはまた別の意味を含んできます。
つまり、為政者という巨大組織の代表的な立場ではなく、あなた自身の「言葉」で回答しようよ、と。
台本読むだけの感じプンプンな8月6日の広島の平和式典の菅総理の棒読み挨拶をテレビで見て、なんかリンクしました。
もう型にハマった、なんの意味も心もない、言葉の羅列はいらないと。一人間として物事を真っ直ぐに見て今そこに生きる人々と目を合わせて話しませんかと。。
森監督、深い!
2019年が過ぎ、2020年が過ぎ、未だ人々が自分事としては、あーだこーだ言える世の中なんだということだけは、私はなんだかホッとした次第です。というか言っていかなきゃならないわけで。
望月さんは変わらず今日も頑張ってるんだろなぁ\(^-^)/
少しずつ、良き方向に向かえば。