夫婦別姓が社会的に話題になる時代になりました。
あーようやく。
私は旧姓で仕事を続けるつもりだったし、いうほど、ここに疑問を持ってきたわけではないですが、
結婚したときに、よく分からぬまま、夫が入っていた夫側の本籍地(夫の田舎)に入る?ことになり、知らずに本籍地が夫と同じになったことに腹が立って、夫に文句を言ったことを覚えています。
たかが書類じゃんと割り切ってきたさまざまが、なぜ本籍地で引っかかって何が解せなかったのか。
これまでなんのゆかりもない土地をお前の本籍地だって言われる違和感もなんですが、結局、まだまだ日本の結婚って、「土地=家」なんだなぁと思わされたからかも。
つまり、個人の自由意思以上の、家としての繋がりなんだなと。
なんか、戦前の家父長制度がよぎってぞっとしたのを覚えてます。
で、結局、夫に訴えて国の制度がどうにかなるわけでもなく、自分自身が本籍地のことまで考えが回らなかったわけだし、本籍地は後からでも選べるんですが、仕事と家庭とクソ忙しいなかで煩雑な手続きを夫ともめながら進めるのもなんだかなぁ、今の住所も引っ越すかもしれないしなあ、とこの件は放棄したのでした。
今から本籍地を変えてもいいんですが、夫と一悶着あるでしょうし、定年退職してからやろかな。
というわけで、基本的に夫婦別姓は「家」の結びつきを源流にした古臭いやり方を改めるには大事なポイント!だと、ふんふんうなずいてます!
でもなんで日本で夫婦別姓がこれだけ話題になるんでしょね。
私が思うには、実は私自身も気付かぬうちに「家」基本に行動してるくらい、根っこの問題な気がします。
個人の呼称もそうなんですよね。
欧米人は、大人でも親しくなるとだいたいファーストネームで呼び合うじゃないですか。
日本ってだいたい苗字呼びです。
仕事とかだとほぼ苗字なはず。
ファーストネームで呼びあうことができるようになれば、姓がどうとかそこまで気にしないんかなぁと。
でも実際には、えー恥ずかしい〜、気持ち悪い〜みたいな感覚が私にはあります。
というのもわたくし、英会話を習い始めたんです。で、レッスンでは先生も生徒もファーストネーム呼びするんです。
これが私はとても清々しい気持ちというか、良いなぁと思うんですが、じゃあ明日から会社の人もファーストネームで呼ぼう!とはならないんですね。
風習とは恐ろしいものです。
ということで、日本では問題の根は深いきがしています。
姓なんか、たかが呼び方。されど個人の個性。
そんななかで、夫婦別姓が社会的に話題になるのはとても良き機会なんじゃないかと思います。
ちなみに姓を変えた経験者として、自分が個人的にどうだったかというと、結局仕事は転職したときから面倒くさくなって新姓でしています。
郷に入ればのごとくに、新姓も今やしっくり「自分のもの」に思えています。
ただ、私の周りには結婚しても仕事は旧姓のままの人もいて、そういうなかでは結婚により、改姓することで自分が2つの姓を持っていると言えるんです。
自分としての姓。
家族としての姓。
それが煩わしさを生んではいるんですが、同時に姓なんざ変えられる、執着するものではなく自由に使い分けるもの、という土台の感覚がすでに、2つの姓を使い分けている人にはあるんですよ。
いや、あるんじゃないかなと。自分含めて。
姓を簡単に、変えることができる。
つまり、自分のアイデンティティは何ものにも縛られない。
2つの姓を使い分ける人は、世の中の古臭いしきたりを、実生活に合わせて合理的にチューニングしてきています。すでにずっと前から。
働く女性には特にそんな人は少なくないんです。
その視点から見れば、しきたりや書類や制度は、実情のもっと後から、やっと追いついてくる、腰の重い頭の硬い頑固オヤジで、そんなオヤジを尻目に、今を生きる若い力は枠からはみ出て、新しい道をすでに歩いているのかもしれません。
2つの姓を持つからこそ、自分とは何かを考える。
自分らしく生きたいと考えさせられる。
結婚は、姓問題は、家族を作るだけでなく、自由とは何かを学ぶ大きな機会なんだと。逆説的に。
と私は今、感じています。
それと!
あだ名付け名人ってどこにでも結構いますよね。
あれは素晴らしい能力なんじゃないかと思います。
オリジナルワードでその人の個性を呼び名に置き換える能力。
私も付けてもらったニックネームがあるんですが、というか好き勝手に呼ばれがちなんですが、苗字だけ、ファーストネームだけで呼ばれるより、気持ちがふんわりします。
究極は、みんなあだ名を自分だと思えられればよくないですか。こだわりがあれば自称もあり。
呼ばれたい名前で呼ばれるのがいちばんだ、ちゅー話です。