「春にして君を離れ」アガサ・クリスティー
アガサ・クリスティーはむかーし代表作「そして誰もいなくなった」を読んだきりですが(ドラマのポアロは見てた)、いつも書評、上手いなあと感銘を受けるブロガーのチェコ好きさんがおススメしていたので読みました。
48歳。3人の子供を立派に育てた主婦。細身の身体にしわのない若々しい品のある顔立ち。夫は弁護士。イギリスで召使い付きの暮らしができる程度に中流階級。
ジョーンは「自分は幸せだ」と思っていました。
ジョーンはある旅の帰路で、ひとりぼっちの3日間を味わいます。
何もすることがない長い時間につい、自分自身のことを「もしかして自分は」と見つめなおしてしまいます。
そして。幸せを絵にかいたような自分は、実は誰のことも見えていない、悲しい女なのではないかと気づくのです。
最初は上品なマダム風に登場するジョーン。
でもアガサ・クリスティーは容赦なくジョーンの心の内を描いていき、本当のジョーンが徐々に浮き彫りにされていきます。
ジョーンは今でいうマウンティング女です。家族、友だち、周りの人間すべてをマウントし、自分のポジションに満足と安堵をおぼえる。
それが「幸せ」の証しなんですね。
でも旅路で「真実の鏡」を見てしまい、虚栄と欺瞞に満ちた自分が映し出されてしまうのです。
本当はとっくに気付いています。でも見たくないから知らないふりをして生きてきたのです。
家族を愛しているという言葉で縛り、夫の夢や子どもたちの想いを、無視して生きてきた。
「幸せ」という名の殻の中に閉じこもり、決して自分から何かを始めることはせず、周りの人生や行いを心配して、世話を焼くふりをして、批判し釘をさす。
一方で夫のロドニーも、そんなジョーンの愚かさに気づきながら真実を告げず、許しています。「寛容で温厚な夫」の地位を守るべく。
読んでいて、だんだんと息苦しさをおぼえてきます。
ジョーンを「どこかの哀しい主婦」ととらえるか、「これは私だ」ととらえるか。
もちろん前者でとらえたい。でもどうしても、「これは私のことかも」という思いが頭をもたげてくる。
ジョーンが悲しくて怖いのは、偽りの自分に気づいたことではなく、それでも変われないことです。
マウンティングは依存性があるんでしょうか。
じゃあ、偽らざる自分と他者との関係とはなんぞや。タテの物差しでなく、あるがままを見つめるにはどうしたらいいか。
ジョーンの心をのぞくと、タテの物差しで物事や人を測り生きる満足ってなんなんだろうと考えてしまいます。ポジション取りに明け暮れる毎日が悲しいのはなんでなんだろう。
虚飾の繋がりに虚しさがあったとしても、誰もが事実を告げず黙っている限り、死ぬまで家族であり、裕福であり、友達を呼んでパーティーを開けるジョーンが、なぜマウンティングするからって悲しく不幸などと言えるだろう。
虚しさを胸に抱えながら生きるなんて、誰だってそうなんだから。
ただ、ポジションを取りに行き続ける人生は、辛い時もあるかもしれません。
自分の人生は、ゴールも行くあてもない、機械的に回り続けるだけのメビウスの輪のような、悪夢なんじゃないかと。
自分は、誰かが決めた幸せに、自分で判断することなく、自分で選ぶことなく、考えることなく、従うだけの操り人形なんじゃないかと。
毒親やパワハラなど、現代社会の病理的な問題に通じる内容を1人の主婦の旅路に鋭く描いて、誰も死なない、事件は起こらないけれど、ある意味で真のミステリーに仕上げるアガサクリスティー、あなどれない……