もんもんモヤモヤとする日もありますが、自分にとって小さな一つひとつを「乗り越える」ために必要な読書について考えてみました。
もんもんモヤモヤは、しんどいものです。何がしんどいかというと、見えないこと。見えないから対処する術が思いつかないこと。それが何なのか、どう受け取り、どう判断し、どう行動すればいいのか分からないことです。
自分の無知が常に怖い私は、答えを求めてインプットを求めます。
というか、無知、無力、先への不安からの恐怖心に駆られると、とにかく本を読んで何かしらの解を探し出すクセがあります。
このクセは最近自覚しました。
本の中に解が書かれているわけじゃありません。
考えるヒントを見つけるんです。
本を読むと、日常とは別の機微や叙情に引き込まれます。
示唆に富んだ本の中には、世界への気づきがあり、小さな日常のなかで戸惑っていた自分の肩にそっと手を置くような、少しだけ距離を持って眺められる時間が生まれます。
時に、重くて受け止めるのに精神エネルギーを費やす本もあります。結構あります。
深く考えさせられる、そんな本が割と好きでもあり。
自分の弱さや醜さを見せつけられるような、居心地の悪さを感じる本は、名作と言われる小説に多かったりします。
でも私は、知らないことが一番怖いから、尻の座りが悪くても、とりあえず読みます。読んだ後に辿りつくのは、行間に横たわる絶望や苦しみや痛みのなかに、希望の光を見いだそうとする自分だったりします。
フィクションから現実世界につながる希望に光る小さな珠を必ず一粒見つけ出したい。
その一粒を見つけ出す旅みたいなものが、私にとっての読書なのかもしれません。
映画やドラマも好きですが、本は特に想像の余地が深い。映像がない分、どう感じるか、どう想像するかに解放感があります。
一冊の読書で、ときに無力感から万能感に180度の感情転換がおこり、フンヌー!と、やる気に満ち満ちるときもあります。
自分でもそこまで振り回されるのはどうなのかと思いますが。。根が外部影響を受けやすいタチなんでしょうね。
子供たちが小さかったこの10年余りは、あまり本を読めませんでした。読書に割く時間がなかったのが大きいけど、気持ちの余裕もなかったかも。かといって強い不満もなかったです。子供と過ごすって想像の斜め上いくし、それはそれですごく波乱万丈な経験です。だから本はなければないで、まあいいのかもしれません。正直。
でも最近、子供が成長するにつれ、子供たちが自分で判断したり思いを伝えたりする成長過程に直面して、私自身が大人として成長する必要を強く感じます。
子供にいろんなことをきちんと伝える必要があるなと。伝える、ってことの大切さをつたえなければと。
言葉がどのように人と人を、人と社会を結びつけ、時に突き放し、時に挑み、時に怒りや哀しみと言った感情を受容していく治癒の手段になるか、読書は素晴らしい人生の先生です。
私自身はもう今は何かを読んでないと、そわそわ落ちつきません。やっぱ依存症かしら。
てことで、子供たちが全然読書しないのが寂しい、今日この頃😔