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子育てと正社員の両立にぎりぎりな40代の母(映画・読書・日々のこと)

子育てしながら正社員として仕事しています。40代の母のブログです。コピーライター、読書、映画、プライムビデオ。育児の悩みや仕事の悩み、広告、マーケティング、家族のこと、ふと思うことを綴ります。

他者から学ぶ ーアウティングについて思う

きっと誰しもに、いくどとなく「穴があったら入りたい出来事」は訪れるものかもしれません。

私の場合は、まあまあ山盛り。「穴があったら入りたい出来事」は多い方じゃないかと思います。
ふと寝る前に昔の自分の恥ずかしい所業を思い出して、急に布団の中で七転八倒をしてしまうことが、ままあります。
若いころから「布団で七転八倒」はしていたんですが、
年を重ねるにつれ、これまでは気づかなかった「恥ずかしい」「申し訳ない」「情けない」思いが芽生えて
なおのこと七転八倒が増えたりしています。
七転八倒の中身がちょっと違ってきている感じもします。
は~~全然不惑でもないし、知命(50にして役割を知る)もない・・・

でもなかには、自分のこれからの生き方の模索として、きちんと向き合っていかねばと思う問題もあります。

たとえば「アウティング」。
アウティングって、本人の了解を得ずに、その人のセクシャリティを他人に伝えることです。
今はこれが日本でもおおっぴらに問題視されてきました。


でも、思い起こせば若かりし頃、自分も今になって、申し訳なさでいっぱいのアウティングが結構あるんです。

たとえば、セクシャリティに限らず、出自。あとその人の仕事や生活の状況とかですね。

友人との呑みの席の何気ない会話だったりするんですが、「いやそれ言う必要ないだろよ」というのが今になって記憶によみがえってきたりします。
たぶん、アウティングするのって全部が全部、悪気があるわけじゃないとは思います。
私自身も悪気があったわけじゃなくて、「何を隠す必要があるんだ!」とむしろ正義感だったりする。
それがまたアホなんですが、なぜ私がアウティングしたのか、なぜそれがやっぱりダメだと今思うのか。
改めて考えてみました。

というか普通に、「いや他人のくせに人のことをとやかく言うなよ」ていうのがまず大前提にあって。
そういうのは日常茶飯でも結構あることで、その場で「おいおい言うなよ」と気づかせてくれる人もいれば
言わず去る人もいます。

それにね、友人だからいいじゃんと言ってても、世の中ってやっぱり「悪いやつばかりでもないけど、いいやつばかりでもない」
という部分で、アウティングによって、その内容がどこかで漏れて、実際にその後、差別を受けたり危険な目にあったり、傷つけられたり
そういう悪意をぶつけられる可能性もあります。

そしてその危険性に対して、いつ悪意をぶつけられるか、本人はずっと思い悩むことになるわけです。
結局、アウティングの何がダメかって、する方じゃなくされた本人がその危険性に思い悩むことなんですよね。

言い出したらキリがないくらいに、「あれもアウティング?」「これもアウティング?」となるわけですが、
その線引きは、やっぱりこの「いい奴ばかりでもない世の中において、余計な一言で当人を不安にさせるかどうか」なんだと思います。

若いころは「いい奴じゃないやつが悪い!」「堂々としていたい!」とただただ思っていた部分もあり。
それはそうなんです。差別する人が悪いし、傷つけるのは犯罪です。
でも、今は思うんですよね。
だからって口に出すかどうかは、私が決めることじゃない、と。

それは当事者である本人が判断することで、いくら親しい友人間でも、自分は差別主義者を嫌悪していても、
当人の問題を、人生を背負うわけでもない自分がどうこう判断することはできないんです。

「堂々といきよう!」といっても別に本人が恥ずかしいと思って隠しているわけじゃなく、ただただ「いい奴じゃない」奴に嫌な目に合わされるのが怖いわけで。


差別って言うのはそういう何重ものしがらみや目に見えないやっかいさを社会に潜ませていて、
アウティングの罪で七転八倒に悩むくらいなら、他人に一切無関心に生きてった方が楽でいいんじゃないかとすら思います。

失敗や失言をせずに、誰も傷つけずに、自分も傷つけられずに生きていけたら、どんないいでしょう。

けれど、それは現実として可能なのか?

他者と関わるのは、そもそもまあまあやっかいなことです。けれど避けては通れない。

他者が他者である限り、時に共感ができてもやっぱり他人で、その違いをどう受け止めるかですよね。

アウティングの罪は知ることとコミュニケーションで償っていくしかない。

自分が世間知らずだった事を受け止めて、分かってなかった事を受け止めて、無知の知から始めてみる。

この広い世界のすべてを悟ることはできないわけで、みんなどこかで間違えます。

間違えてもやり直せる。

しくじってこそ見えるものがある。

ということで、まずは今年中に友達に謝りたいです。そしてその問題をじっくり話せたらいいなぁと、思います。

かつて怒ってた友達に。今も仲良しな友達に。

何!急にあんた!って思うやろなぁ(о´∀`о)

いじめニュースに思う子供たちには何が必要か「おせっかい」の育て方

新聞のオンライン記事でいじめで自殺した中学生の記事を読みました。
毎朝、新聞社から届くニュースメールは、リコメンド機能があるからか、私がよく読むような、子供たちや学校教育でのツライ記事が結構多く(何かそういう登録をしたのかもしれないけど覚えてない)、朝からまあまあゆううつになります。

でも、私はそんなゆううつな朝も大切だなと思っていて、なぜなら実際にそれは起こった出来事だし、どこかの誰かにも今この瞬間に起こっているかもしれないし、明日の我が家の現実かもしれないからです。

そうやってわざわざニュースでゆううつな気分になって毎朝子供に「いってらっしゃい」と声をかけています。
マゾかな。。。

しかしまあ、親としては「いじめられる」怖さにびくつきながら、同時に「いじめる側になったらどうしよう」というのも恐怖で、
いじめられた方ではなく、いじめた方の気持ちを考えてみると、
より一層どこでボタンを掛け違ってしまったんだろうと思うんですね。

本当に「死ね」と思って「死ね」というのか、
本当につらい思いをさせたくて、相手を虐げるのか。さげすむのか。

おふざけが大好きな子どもたちをみていると、最初はよくあるような「遊び半分」だったことも多いのかもしれないなと。

子供ってまだ「社会と自分の結びつき」がはっきりつかめていないなとは思うんです。
要は、他者との距離感や社会の中でのマナーやデリカシーですね。
そういうのがまだつかみ切れていない、他者との距離の取り方を分かっていない、
ここを超えたらだめだ、やっちゃだめだ、言っちゃだめだっていう知恵というか経験というか、そういうのがまだ未熟なわけです。
そういうさじ加減を自分で測って判断することができない。ていうか、だから「子供」であり。
特に今は、それよりも自我を持て余していたり、大人からのプレッシャーだったりにストレスが深まっている中学生が多いのではなかろうかと。

受験とかもほんとそう。
「生きる基本」をおろそかにしてまで、やらないといけないのが受験なのかなって、めっちゃ思います。

いじめの標的は誰でもよくて、手近な「むかつくやつ」「見ててなんかイラっとする」「敵とみなした」であったりするんでしょう。
逆に遊び半分の場合は、最初は「好きだから構いたかった」かもしれない。
でもたとえ悪意がなかったとしても、それが結果的に相手を貶めたり辱めたりした場合は、やり方が間違っているわけで、好意が伝わるような方法に変えなければいけないということに、どこかで早い事、気づかないといけないわけです。

もちろん悪意ばりばりの場合は、「イラっとするからといって、さげすんでいい他者は一人もいない」ことに気づかないといけないです。

でもじゃあ、彼らはどこでそれに気づくのか。それを知るのか。学ぶのか。

もちろん「目には目を」で、いじめる方がいじめられた側と同じ目にあって、被害を受ける側を経験してみれば、気持ちが分かるかもしれない。
罰を与えるのはこれの進化系ですよね。法律が介入するかたちで許されている対処法です。
でも法律が介入する場合って、もう取り返しのつかないとこまで来ちゃっていて
実際にはもう手遅れのことが多かったりします。
もちろん、手遅れには手遅れで「まだそれでも手を打つ」のはすごい大事なことです。

でも、そんな取り返しのつかなくなる前にどうにかできないものなのか。
もっと日常でできることがあるのではないかと思います。

ニュースでよく見るのが
「学校側はいじめを認知していなかった」
「保護者は学校に訴えていたが対応してくれなかった」
「いじめのアンケートを取ったが、いじめがあったという事実が出なかった」

これって、でも「起こってから」ですよね。
知ってたのか知らなかったのか、とか事実確認の段階の話で止まっていて
マスコミも「なぜ知らなかったのか」を問うかたちで終始しがちで、
「じゃあ知ってたらどうしたんだよ」というところまで全然踏み込めていないニュースを本当によくみます。

事件記者の質問のパターンとして、そういう「事件直後の対応の責任を問う」というステレオタイプがあるのかもしれないですが
どうせなら学校に質問してほしいのは「日ごろから学校では、社会を生きる術として何を子供たちに教えていますか」って部分です。

そして制度としてオフィシャルな「事前のいじめ対策(起こる前に)」ってこの日本にあるんでしょうか。
教育委員会文科省にも聞いてほしいところ。

今現役の小学生と高校生を持つ親として、「いいなあ」と思うような「いじめを防ぐ学校教育の時間」を聞いたことがありません。
文部科学省がもしかしたらふわ~っとした何かは出しているのだろうとは思うんですが、実感として日常にほぼないです。

要するに私が言いたいのは、こういう時にこそイギリスのシチズンシップ教育みたいなものが必要なのではということなんですけどね。

結局、イギリスのシチズンシップ教育って、他者の気持ちを考えようってことに尽きていて
それだけいうと、日本の学校の「道徳」でやってんじゃないの?となるんですが、
いやそんな、道徳の教科書を読んで他者の気持ちを考えるってなかなかできないでしょうよと。
もっと本腰いれて、体験型でやるというのがシチズンシップの肝かなと。

そこで思い出すのが、私が小学生の時に通っていた学童保育なんです。
私のいた地域だけかもしれないですが、40年前の当時の学童って、今よりずっと児童も人数も多かったし関係も濃かったように思います。

共働きする家が今ほど多くなかったし、あの当時に共働きするって、「本気で働きたいお母さん」もしくは「働かざるを得ないお母さん」がスタンダードで、

たとえば看護師や教員や資格のいる職業だったり、大手企業だったり、自営業だったり、あるいは共働きではなくシングルでフルタイム勤務&子育てする、がむしゃらお母さんだったり。

じゃあそういう親って、どういう感じかっていうと、教育にも割と口出しするというか、親が一緒に学童を作ってたところがあって、うちの親や友達の親もそういう感じでした。

当時から学童保育には国や行政の助成金がそんなにあてがわれていたわけではないでしょうし、
学校が併設しているものでもなく、古い一軒家や長屋を借りたりしてて、じゃあどうやって運営していたんだろうっていうのが結構ナゾなんですが、
うちの学童にはうちの小学校の児童が50人くらいは毎年在籍していて、おそらく保護者からの会費?で賄っていたんだと思われます。ただ正直安かったでしょう。

だから学童の運営なんかで儲かるわけなんか、これっぽっちもなくて「学童の先生って貧乏」ていうイメージが子供の当時からありました。
あと大学生のバイトの先生(教師の卵とか?)がボランティア的に安いバイト代で入ってたので、まあそんな感じで、なんとか運営していたんでしょう。

でもだからこそ、変な圧力もなく自由にできたんですよね。

私は学童でたくさんのことを学んだと思います。
たとえばけん玉とかコマとか学校でしない遊びをたくさんしたし、
特に学校ではやらない集団遊びをとてもいっぱいしました。
だいたい10人とか20人とか1~6年が混じっての陣取りゲーム系で遊ぶので、チームに分かれてリーダーを決めたり戦略を練ったりするんですけど、こういうのは、たいがいがもめるんですよね。

で、だいたい「リーダーしたかったのにじゃんけんで負けた」って泣き出す子がいたり「誰かがずるした」ってもめたり「線を超えた、超えてない」とかで言い争ったり。
まあ毎日がトラブル。

でそれをまとめて解決する役割?が、基本は5~6年の少年や少女なんですが、それでも解決しないときがあると学童の先生を交えての会議になるんですよ。
まあ毎日それ。

中には「みんなで遊びたくない」「一人で絵を描いていたい」とかいう子もいたりして、それはそれで先生がOKしたら「あいつだけずるい」とかになって
じゃあなんでその子がみんなと遊びたくないかを聞いたり、それをどうするかをみんなでまた話し合ったりして。

とにかく、何かを子供たちが自発的にして、もめて、みんなで話し合って、だめなら大人にもはいってもらう。
一事が万事この調子。

毎年キャンプや合宿もあって、場所は大人が決めていたけど、
だいたい班で分かれて行動するとかになるんですけど
そこで高学年が低学年の面倒を見る、もめたら注意するとか、何かを自分たちで判断するっていうのをすごく自然にしてました。

とにかく子供たちが大勢いたらトラブルにはなるし、もめるし、学童ではいろんなことが山盛りだったんです。
「子供ってもめるもんだな」とほんと思います。

だからか学童の子はタフだったなぁとも思います。運動も良くできる、やんちゃが多いのはもちろん、割と成績も良い子がフシギと?多くてクラスや学年でリーダー格な子も多かったです。

当時の学童では誰かが誰かをいじめてたりすると、他の子たちが言い返したり、話し合いにかけあったりして、ほっとくことがないんですよ。

そういう「もめごと」に日々の耐性があるというか
「いやおかしいだろ」ていう行為を「関わりたくない」で知らん顔する子がいなかった。

もちろん低学年のときってホント6年生が怖かったから、コワイコワイ6年生に1年生が歯向かうなんてのは到底できなかったけど、でも相談できる3年の女子あたりはいたんですよね。
で、3年生が6年生の女子にまた相談する。
で、そういう6年女子がコワイ6年生男子に集団になって(笑)文句を言いに行ったり、あるいは先生にチクってまた全員で話し合いになったりするんです。

まあそういう中で私は育ったわけですが、
そういう中で子供たちに何が醸成されたかというと
「おせっかい」なんじゃないかと思うんです。

本当にいじめって何が嫌かって、何がいちばん問題かって
周りの「我関せず」「とばっちり食いませんように」という空気なんじゃないかと。

誰かが誰かからひどい目にあわされていて、それを知りながらほっとくって悪い事なんだと、自然に考えるんです。本当は子供たちには誰しもにその資質があって、あとは磨いていけるかで。

子供たちを見てると思います。大人よりずっと優しいし、ずっとお節介だし、ずっと面白い。

あとはきちんと思ったことを伝えられるか。そういう空気を大人が作るれるか、ですよ。心理的安全性。もしみんなが深く関わりやすい空気があればニュースの子たちにも救いはあったんじゃないかと思うんです。
いじめられる方にも、いじめる方にも。

住野よるさんの小説でもそういうお節介がまた次のいじめにつながる場面があったと思います。
今の学校は関わろうとするお節介な人間を孤立させる寂しい場所です。

その「おせっかい」って何なんだっていうと、
他者と関わりたい、つながりたい、理解したいという前向きな願望の発露ですよね。
本来は子どもって、そういうおせっかい魂が割とネイティブにあるように思います。
・・・まあ「いらんことしい」とも言えちゃうんですが。
赤毛のアンもそうですよね。好奇心が強くて、いらんことして怒られたり、しくじったりする。

少なくとも他者と深いつながりや日々の関りがあれば、早い段階で気づいて問題化することが可能じゃないですか。

なので、私の学童は「学校外」でしたが、今の学童が学校内にあるのであれば「学校」で
子供たちが生徒同士や、先生や、学校や社会との関りを深めていける取り組みが必要だと思うんです。

勉強や成績や規律のもっと奥にある、生きるための根っこにある力を育てる時間と予算をとらないといけないのです。今の教育現場はその大事な他者との関わり合いが「余計なこと」として扱われている気がします。

大人たちは忙しく、自分の生活に精いっぱいだし(でもそれは昔もそうだったような)
子どもたちが本来持っている素晴らしき「おせっかい」魂を「あかんこと」とみなしてしまう時すらある。

でも教育委員会の方に言いたい。
「おせっかいな子供」はいじめをしませんって。たとえ幾人か横道に迷い込んだとしても、それを見て見ぬ振りせず解決しようとする子供が横にたくさん立っているから。

私の学童でやっていたことを真似ればいいじゃん、あれこそが社会性の勉強だよとシンプルに思うんですが、ただ真似ても成果を見出すにはおそらく時間もかかるでしょうし、忍耐力もいるし、失敗もたくさんあるでしょう。でもやってやれないことはないはず。


他者と関わるなかでしか、本来的には人間は社会的には成長しない。
であれば、まずいじめをなくしていくために、いじめる側が早く軌道修正できるように、他者と深く関われる場所をたくさんたくさん作って行くことです。関わることでの痛みはさまざまにあり、喜びもあり、一筋縄ではいかないことを、でも横にたくさん仲間がいることを感じる機会を増やす。
転校させて終わる話じゃない。

ひとつの作品を一緒に考えて作り出すのもいいし、気持ちを語り合うでもいい。
遊びのなかのチーム作りでもいい。
ディベートもいいし、コンサートや演劇でもいい。なんにもやりたくない子が何を考えているか、何を尊重すれば「個人」を大切にできるか、みんなで話し合う時間でもいい。

とにかく、おざなりのお決まりの流れではなくて、子供たちをよく見てよく話して深く関わりながら、面倒くさい時間をたくさん作っていく。

押し付けではない自分の頭で考えて、感じて、判断していけるように、まずは他者と関わる喜びを増やしていく。

ほんとシンプルにそれ。

おやじの幸せ -自由とは2

世のお父さんたちにとって幸せってなんですか。

 

 

うちのおやじさんが亡くなって早いものでもうすぐ4年。

今更ながら気づいたことがあります。

 

うちの親父さんは私たち子供が子供だった頃、かれこれ40年の昔、当時にしてはまあまあ子育てに参加するタイプでした。

 

春夏秋冬、毎シーズンいろんなところに連れて行ってくれたし、休み返上で行事にも積極的に参加したし。

 

夫婦で同じ職業で基本共働き家庭で、日常の子供のお世話におばあちゃんのサポートがあり、両親ともにがっつり仕事ができていた面も大いにあります。

 

だけど旅行やキャンプみたいに特別な時だけじゃなく、晩ごはんだったり、夏休みの宿題だったり、だいたいの思い出にはおやじさんはいるしよく話もしました。

 

でも私が中学に上がった頃、おやじさんは子育て中心から仕事中心に切り替えたんですね。

何故か。

今はもう本人に聞けないし本当のところは分からないけど、基本的に社会や人のために生きてきた人なので、多分周りから依頼されて重い役目をやらないといけなくなったり、自分でもそっちにシフトしよかなとかだったり、世の中全体が景気が悪くなってきたり、タイミングがその時期だったんだと思います。

 

でもそれからは親父さんは気難し屋になりました(*´ー`*)

 

で、晩年。がんの闘病も終わりを迎えるころ、「お父さんは人生に悔いはない。やり残したことはない」と言いだしました。

それは残されるものには、とても良い遺言?でした。

でも、ほんまか?と私は思いました。またええカッコしてからに、と…(ひどい娘w)

 

だから「お父さんは自分の人生でいつがいちばん幸せだったん?」ときいたんです。

 

そしたら「あんたら(子供たち)が子供のころがいちばん幸せだった」と即答されました。

つまりおやじさんが子育てをいちばんやってたころ。

 

私はめちゃくちゃ意外で、「他にないの?」と聞いたら「ない」と。

 

確かに親父さんは早くに両親亡くしてるし、自分の家族好きなんやろなとは思ってたんですが、仕事人間になってからは私も思春期だしあんまり話もしなくなったし、てかケンカはしたけど、あんまり家族を見ていない気がしていました。はっきり言えば私はおやじさんがすごい嫌いな時期が長くありました。

 

でもアルバムみても私たちが子供の頃の写真に映るおやじさんはいきいきしてる。疲れた顔じゃなく、気難しい顔でもなく、こんないきいきした顔する人やったんや…気づかなかったです。

 

で今振り返ると、そういうことか!と。

自分の役割に誇りを持っていただろうし仕事で残したもの、培ったものも少なからずあって、お葬式でもたくさんの仲間が来てくれて別れを惜しんでくれたし、でも仕事でもなく、仕事終わりのビールでもなく、早く帰った日のナイターでもなく(タイガースファン)、

おやじさんの幸せは、私ら子供と過ごした子育ての時間にあったのか。70年生きたうちの12〜3年くらいやけどな。

 

 

だから、世のお父さんたちも子育てには、積極的に参加した方がいいです。

出来るだけ早く、出来るだけたくさん、出来るだけ長く。

子供のためじゃない。

それが自分にとっての幸せだから。

 

そしてそれがどんなお父さんでも出来る世の中にならないかんね、親父さん(*´-`)

 

 

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2」やっぱり羨ましいしa change is gonna comeなのだ

 

 

ブレイディみかこ 2021

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2」

やっと読みました。

 

我が家の息子が表紙のイラストみて、「この絵、ちょっと好き」と言っていました。どうでもいいけど。

 

 

1からブレイディみかこさんが好きになり、

で、こないだ「他者の靴を履く」を読んだんです。

実はこの本がここ5年くらいに読んだ書物の中でもベスト3に入るくらいに私にとっては良かったです。

 

で深淵なるブレイディみかこ節に大変満足したので、「ぼくはイエローで…2」は、「他者靴」よりライトだろうし、もう読まなくていいかなともなってたんですが、やはりみかこさんだしってことで読みました。

 

息子くんをテーマにしたこっちはやっぱりめちゃめっちゃ読みやすい!

万人向け(о´∀`о)

以下ネタバレてます。

 

イギリスでの子育てのリアルな出来事が面白いし興味深いし分かりやすいです。

 

また息子くんがいい子なんですよ。

1では、中学にあがる彼が、私立のカトリック小学校から底辺層の子たちが通う公立中学校に入ることを境に、友達作りや学校生活のなかで、日本人の血を引くことで、差別や偏見含めた当事者としての多様社会でのスタンスを作っていくのに比べて、2は息子くんが中二の年齢になり、一定の多様な友達と良好な関係を築き、学校生活に馴染み、より優しい眼差しで静かに出来事に対峙していく成長を感じしました。

 

みかこさんはとにかく1からずーっとボランティア活動を活発にしていて、その中で出会う子育てする大人たちの事情をからめながら、子供をとりまく環境をまたこれも母としての当事者視点と同時に、イギリスの子育ての現状を社会に照らし合わせる物書き側の視点でも語ります。

 

1から続くのはやっぱり、イギリスの学校のカリキュラムの魅力。

シチズンシップ教育ですね。

個人の個性を尊重し、自立した存在として、意思を持って、多様な社会に参加して能力を活かす。

 

要はたとえば、宗教や人種の違い、価値観の対立や意見の食い違いなど問題が起こったらどう考えどう動くか、ディベートやアクティブな活動を通して学ぶんです。主には他者とのコミュニケーションや他者理解的な感じです。

 

これがイギリスの中学では必修科目なんですね。

息子くんはこれが一般的な授業より得意なんです。

 

また2では、もう一つ息子くんが得意な音楽の課題で、ライブハウスでのイベントの企画書作りがあるんですよ。

めっちゃ面白そうだし、今すぐ日本でもやってほしい!

 

あと音楽の筆記試験ではビートルズ全員の名前と主に曲を作っていた2人は誰か、書きなさいって問題が出たそうで。

いや、ちょ!マジすか!そんな問題が出るような中学の定期テストならば、私なんか音楽だけは90点取る自信あるね!!

ビートルズ大好きっ子だったから。

でも、息子くんはジョンレノンと答えるところを、ニールレノンと書いたそうな…

 

ダレ…

 

時代というのは恐ろしいものです…

いくら神でもご当地でもこんなことになるんですね…

みかこさん、そら怒ります(´∀`*)

 

だけどもイギリスはすごいです。

だってロックやパンクを国民のカルチャーとして子供たちに学ばせてんですよ。

粋。

 

日本も変わってきているのかしら。娘の中学の時の合唱コンクールで歌ってた「野生の馬」はまあなんか、いかにも合唱的な感じで、でもまあよく分からないけど、なんやかんや感動したけども(´∀`*)。でもなー、なんだかなあ。これが現代の日本の音楽を築いているメインストリームか、って言われたら独特すぎるというか、教育現場とリアルがかけ離れすぎてるというか。。

 

 

音楽ってのは特に若者に大事なカルチャーなんで、それがあったから生きてこれた、って人も少なくないくらいの文化なんで、表現の発信地なんで、不良やヤンキーの子たち向けにロックやパンクのバンドやらせる選択カリキュラムとかくらい、公立学校に取り入れてもいいんじゃない?と思います。楽器は高いし。

金八先生でやってたソーラン節のロックバージョンとかは良かったな。あれが限界かな〜

自国生まれにこだわらなくてもいいと思うしね…。

 

なんか日本の教育って選択肢が全体に少ないし、少子化で多様性や個性重視になるかと思いきや、ますます画一的になってやしまいか

 

まだまだイギリスにはなれないか…

 

とはいえコロナ前に日本にお里帰りしたみかこさんと息子くんが湯布院をじいちゃんと旅して、泊まった旅館で働くのが、外国人ばかりなのに驚くエピソードなんかは、日本も変わってきていることを感じさせます。

でもこの旅行時は2019年。コロナ禍も2年を迎える今、外国人の従業員さんとかどうしてるんでしょう。

 

あと、みかこさんのご両親のこと、お母さんがうつ病で、80歳近くのお父さんが家事や介護していること、同じように、年老いた親の先を考えねばならない年頃になってきたわたしには身にしみます。

 

若かりし頃の貧困や反抗なども、それがあっての渡英なのも知れたし、だから今のみかこさんがいるんだなあとしみじみ感じました。

 

で!本作には息子くんの学校行事のエピソードのなかで、たくさん音楽がでてきたので、聴きたい!とワクワクして、読み終わって早速聴きました。

 

アフリカからきた不登校なりかけたソウルクイーンの歌った

サムクックの

A change is gonna come 

何これ沁みる…( ;∀;)

歌詞がすごいし…(和訳ググる笑)

これ中学生女子が歌うって…カッコよすぎ!!

変化はやってくる!

 

あと歌詞がポリコレ問題になってる

イギリスのクリスマス定番ソングとの

Fairytale of New York 

聞いてみたら確かに放送できないんじゃないか?な差別用語があるという。✳︎このYouTube英語歌詞と和訳つけてくれてるから分かりやすい!

 

息子くんの学校では、その年は生徒たちは歌ったそうで、みかこさんは、でもまた歌わない年もあるかもと語ります。

結果より議論になることが大事ってこと。

ですね( ´ ▽ ` )ノ

 

 

 

 

 

 

 

 

羨ましい生き方 -自由とは1

英会話教室も通いだして半年が経ちました。

成果はいざ知らず、初めてイギリス人にナマで触れて、これがイギリス人か!と感じるところがたぶんにあります。

ただ海外の知り合いが英会話教室の先生1人だけなので、この出会いを持って「イギリス人ってのは」とは決していえないし、一事例をイギリス人の代表にしてはいけないんですが、てかなんなら彼がそういう人なだけの可能性も9割方あるんだとは思うですが、

 

とにかく、時間にゆるい。

しょっちゅうプライベート優先でレッスン日変えるし、ドタキャンもあり。だいたい奥さんの病気や子供の行事、風邪なんですが、先日なんかは、レッスンに5分遅れてきて「新しくカフェができてたんだよ」ってカフェに行ってたらしく、そのカフェの話ずーっとしてました。

日本人じゃあり得ないというか、それいかんだろう〜ってなるやつ。

家族に話すと「日本人舐めてんじゃない」とさえ言われました。

 

そこまではアレとしても確かに、時間に正確でプライベートより仕事を優先しがちな一般的な日本人の感覚じゃ「いい加減」と思われてしまうだろとは思います。

 

でも私は

そのゆるさがなんだか羨ましいというか。

最初こそ、びっくりしたものの、もともと遅刻大王だったやん、という私の中にある、いい加減精神を思い出せさせらたというか。

 

先生を観ていて

帰結するのは

「なぜ私はこうなんだろ」なんですよね。

 

何がって、自分が自分らしく生きれてない気にすごいさせられるんですよ。

 

日本人を舐めているんではないのは先生が毎回レッスンでお茶を丁寧に淹れてくれる英国式の気遣い?をすることから感じるし、予定変更も理由は必ず明確に伝えてきます。

そして、私が英検の試験直前に焦っているのを察知してレッスンを長くしてくれたり、やる気を出させる声かけとかめっちゃするんですよね。

大丈夫、自信持って!と。あと月謝よりレッスンを減らされたりはないし、お月謝分は必ずやります。

 

あと、先生はレッスン中も自分の話をめっちゃするし、なんにつけ、好き嫌いがめちゃくちゃハッキリしてます。てか、物事に対して自分のスタンスをハッキリ言います。

 

重ねていえば、先生しか直に外国人を知らないので、アレですが、逆になんだか私って何かに縛られて生きまくってるよなぁ、ていうのをめちゃくちゃ感じちゃうんです。

 

はっきりモノを言わない

金や家族のためと大義名分でそれが責任だと思ってやりたくないことして、おかしいと思うことにフタをする

寂しいから自信ないから家族にも本音で語らない

人の顔色伺ってばかり

母、妻、社会人としての体裁からはみ出ないことにアイデンティティを見出してる

 

私はこんな私になりたくて、50年近くを生きてきたのか

 

私にとって英会話教室は、ただ英語を学ぶ場所ではなく、まさにカルチャーショックを受ける場所です。

 

コモンセンスを疑う場所です。

 

そしてなんだか愉快な気分にもなるんです。

実際に、型からはみ出したって、言いたいこと言って自分のスタンスでのびのび生きていけるんだと。

 

先生はたぶんそんなザ•ジャパンな型からはみ出してる自覚はもちろんないでしょうし(笑)

政治から職場(私立高校でも教えてる)のことまで幅広い不平不満もしょっちゅう話してくるので自分自身としてはいろいろ悩みもあるんでしょう。

日本で暮らして窮屈なこともたくさんあると思います。

 

だから先生が幸せかどうかは知りませんが、でも心は圧倒的に自由。

私より。

 

私もかくありたい。

 

と思います。

 

「The handmaid’s tale」すごいドラマを観た ネタバレあり

すごいドラマにハマっています。

「ハンドメイズテイル」はHulu制作のアメリカのドラマ。

夫がたまたまHulu入ってて(「ダイヤのエース」見るために)気になってたので遂に観ました。

2017年にシーズン1スタートして、今シーズン4まで配信されています。

 

 

ドラマの舞台背景を一言でいうと(一言で全然言えてないけど)時代は現代なんですが地球環境の著しい悪化で出生率が激減。超少子化に陥ったアメリカでは、原理的な解釈の新興宗教的クーデターでアメリカ政府が崩壊させられ、超絶保守、超絶封建&全体主義国家ギレアドが誕生。ギレアドでは女性は職業を持つことも学業も、本はじめ文字を読むことも禁じられ、例外なく家庭を守る役割を任じられます。

出産経験のある若い女性は侍女=ハンドメイドとして、高官の子供を産むのが仕事。

「儀式」という名目で強制的にコトが行われ、意思を持つ人間としては一切扱われず出産だけのためにいる存在です。

また、男女問わず体制に意見したり歯向かうとまあまあ残酷な肉体的処罰が与えられ、最後は縛り首で壁に吊るされ晒されるか、汚染物質にまみれたコロニーで死ぬまで廃棄物処理をさせられます。

 

以降はめちゃくちゃネタバレありなので観てない人は読まない方がよいです。

 

主人公ジューンは以前は編集者として働いていたんですが、アメリカがギレアドに政権掌握されて法律が変わると、有無を言わさずの解雇。夫と小さな娘とカナダへの亡命を図るんですが、捕まって娘は奪われ、自分は侍女にさせられます。夫が亡命できたのがまだ救い…なんてのはほんとなぐさめにならず。

 

侍女仲間のジャニーンなんかは、侍女育成センターで、一話目早々に態度悪いと片眼を抉られ。。

 

以降、全きディストピアの世界がずーっとずーっと続きましてただただもう、辛い…

ちなみに同性愛者は性の反逆者として、それだけで縛り首やら銃殺です。

 

いつか終わる、きっと助かる…そんな希望を胸に、これでもかと虐げられる日々をなんとか見続け…。

シーズン2の半ばくらいまではほんとそれ。

侍女たちがあまりに辛くて。

その中でジューンはなんとか生き延びようと必死に日々を過ごします。

 

何というかその描写がとても素晴らしいんですね。

意思や尊厳を奪われた女性の立場として全体にセリフが少ない作りで、セリフじゃない表情での表現が多く、抑え込まれた叫びを表す演技が、画面が静謐な分、観ている人間の感情の奥底を揺さぶってきます。

 

不安、恐れ、絶望、自棄、これらの感情や心の揺らぎをジューンの表情だけでローテで繰り返し。

 

こんなのドラマで見たことない…

 

でもって映像が美しくて、一層の不気味な気配を漂わせます。

 

セリフなくジューンの動きや表情で進むシーンが多いから、ストーリー展開に若干の間延びを感じて焦れったくもなるんですが、そんな間延びをしのぐ、テーマ性、人間描写、徹底した世界観で、最初からずーっと圧倒させられてました。

 

展開が変わり出すのがシーズン2の半ばあたりからでしょうか。

 

それまでも徐々にカナダに逃げたり助かるキャラクターもあって希望も少しはあったんですが、遂に本腰の展開。キャラ変。

あ。ジューンが変わった!と思う決定的なエピソードが出てきます。

奪われた娘に会うために巻き込んだ女中さんが、バレて縛り首になるんですけどね。

あそこでジューンは…死にましたね。いや死んでないんですが、何というか、今まではなんとか生き延びる方向で動いていたのが、もう死んでもいい、お前らを絶対に許さない的な方向に変わった。

気がします。

そこからはまあまあやりたい放題というか、リベンジ&脱出みたいな要素が出てきて、といっても一朝一夕ではなく、犠牲もたくさん払って、もうてんやわんやな感じです。

 

怖いものなしになるって、それは悲しいことです。

それは自分の人生も、残された者も、顧みないということであり。そういう覚悟をしちゃうということ。シーズン3、シーズン4はまたそのあたりをじっくり描いていきます。

 

ぶっちゃけジューンはカナダに逃げる事ができて助かるんですが、その安堵や喜びを全然前向きに描いてくれなくて_:(´ཀ`」 ∠):

 

いろんな展開も、演出も、演技も、美しい映像も、音楽も!さまざまな要素が素晴らしい作品です。

 

ベリンダカーライルのHeaven is a place on earth がユニークに登場したり。使われている音楽は毎回凝っています。

でも私がこの作品に最も強く感じることは、「こうなる前になんとかしないと」「奴らに虐げられるな」のメッセージに尽きるんです。

 

きっとこの作品はそこがテーマで軸なんじゃないかと思うんですが、女性であり、母であり、仕事があり、家族があり…

ジューンの人生に自分自身を重ねることが簡単にできる。

そうするとジューンの悲劇は自分の悲劇です。

ギレアドのように、尊厳が奪われ、虐げられることは今の私の生活や社会にはない。

 

ほんとに?

 

私は今、尊厳を持って、虐げられることなく、自由に生きれている??

 

後半。カナダに逃亡してきた女性たちはみんな辛いから、忘れたい、もう憎みたくないと言うんですね。そんな女性たちにキャラ変後のジューンが言うんですね。

 

「なぜ怒ってはいけないの?」

 

 

女性たちは虐げられてなお、なぜ怒らないのか。

この作品は投げかけてくるものが重くて深い。複雑だし多面的です。

 

それゆえに素晴らしい。

 

最初、こんなエグいドラマ、誰が観るんだろうと思っていたので、えー!とびっくりしたんですが、この作品は賞も獲っているようですし、高い評価されているみたいです。

 

私自身は作り手を手放しで賞賛したいし、よくぞ世に出してくれたなぁと思っているんですが、本来いろいろツライ作品なんではないかなと。

 

大好きなウォーキングデッド以上にエグいと思います。

それは楽しませてくれるエンタメ性以上に、現代社会への風刺の要素が強いからであり、突きつけるエッジが鋭いからです。

 

女性よ 奴らに虐げられるな ですからね。

 

でも考えてみれば、ネイティブアメリカンや黒人の歴史のなかにも同じ要素は見出せるし、そういうテーマの名作もたくさんあります。

 

支配する側と支配される側の物語はまだ終わらない。

 

その先を歩むための、たどり着くための、今必要な一歩なのかもしれません。

 

原作はマーガレット・アトウッドによる1985年発表の小説「侍女の物語」。

すごいな…40年近く前…

 

でもってドラマの続きシーズン5はどうなるかは現段階では分からないみたいです。。

 

空気感あふれる&セリフが少ないから字幕がおすすめです。

 

 

「アンという名の少女 シーズン3」100年前と現代とのギャップをどう活かすか

 

アンという名の少女 シーズン3 DVDBOX

アンという名の少女 シーズン3 DVDBOX

  • エイミーベス・マクナルティ
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ネタバレあり。

シーズン2についで昨年からシーズン3をNHKが放映してくれてます!

 

 


シーズン3ではアン16歳!

ルーシーモンゴメリさんの原作を読んだのがずいぶんと昔なので、全然覚えてないんですが、ドラマはやはり原作と変えてきてるなとは思っていました。

 

まずマシューさん。こんなに長くご存命ではなかったような。でも「アンという名の少女」ではアンが16歳になってもマシューさんがいて、正直、マシューさんは大好きで、特にドラマのマシューさんは役者さんも吹き替えの声優さんもとても良いので死んでほしくないので、この「原作とは違う」展開は、かなり嬉しいです。

 

あと黒人のセバスチャンはやはり原作にはないし、アンが仲良くなる先住民の少女カクウェトとその家族も出てこないみたいです。

グリーンゲイブルズで働く貧しい少年でフランス人のジェリーもあそこまで詳しくないみたいだし。トランスジェンダーのコールなど他にもドラマで組み込まれた人物やエピソードがたくさんあるみたいです。

にしてもシーズン3でドラマが打ち切られたのがどうにも納得いかず、原因をネットで調べたら、確かに共同制作していたカナダの公共テレビ局CBCとネットフリックスとに確執があった?みたいですが、それ以前にまず原作が要は「古くて違和感がたくさんある」ことに端を発しているようです。

 

人種や民族の意識、男女の意識、子供への意識…

なんせ発行されたのは100年以上前。

昔を舞台にする小説やドラマや映画はやっぱり、赤毛のアンに限らずこの100年の劇的な変化に、どう向き合うか。

大きな問題なのはとてもよく分かります。

 

でも、だからって打ち切るのは違うと、いち視聴者として思うんです(´・ω・`)

 

だってね、私気になって調べたんですよ。

白人のルールによって寄宿学校に入れられた先住民のカクウェトが、学校で虐待されてるシーンがあるんですが、アンが会いに行って会わせてもらえずに帰るんですね。

そんなシーンがシーズン3の序盤にはあり、でもその後どうなったのか、分からないっぽいんです。

私はまだ5話までしか観てないんで、あと5話残っているんですが、なかなかカクウェトのエピソードが出てこないから、ヤキモキして…(´・ω・`)

でついググッてみたらば、ドラマはともかく、現実にどえらいニュースを発見。

 

カナダ、先住民同化政策の闇…寄宿学校跡地で大量の子どもの遺骨 首相「暗くて恥ずべき歴史の一章」:東京新聞 TOKYO Web

 

このカナダの先住民の寄宿学校跡から大量の子供の骨や墓が出てきたのが2021年6月。ほんとつい最近のニュースなんですね。衝撃です。

カクウェトが入らされたのはまさに、これやんか!と…こんなどえらい史実の話だったのか、と。

 

だからまあドラマで扱うにしてもかなり衝撃的なニュースがドラマ放送と同時期にあったわけで、センシティブな部分では確かにあるんですが、私はアンという名の少女というドラマを観てなかったら、このニュースも知らないままだったと思います。

 

しかもドラマのカクウェトという少女の視点があって寄宿学校に入れられた流れがあって、このニュースが何にもない状態より知りやすかったし理解しやすかったのではと思います。

 

だから「アンという名の少女」は、カナダが背負ってきた悲しい史実を世界に届けるきっかけとして、大きな役割を果たしているんではないか。

 

だとしたら打ち切りの根底にあると言われるのが、原作と現代とのズレなんだけれど、そのズレこそが、今このドラマを描く大きな意義なんじゃないかと。

 

ちなみにカナダ政府は過去の過ちを謝罪して、調査に積極的に取り組んでいるそうです。

 

こないだ金ローで観た「インディジョーンズ 魔宮の伝説」も舞台がインドで、変な民族や宗教に創作している部分もあるなぁ、変なイメージだなぁと懸念しながら観てましたが、やっぱりインドでは公開されてなかったとか記事みて、うん、物語は時に物議をかもすものだと思いました。特に100年の歴史の最終地点が今ってのがポイントなんかなと。

 

だってインディが映画で活躍した1980年代は(映画が描く時代は1930年代?だけど)確かに100年前と圧倒的に価値観違うけど、また今とも違ってだから「魔宮の伝説」なわけです。今ならこれ、絶対作らないはずです。

私はその作品自体を時代という文脈で理解することってやっぱり大事かなと思います。

歴史や時代という文脈では手放しで、あの時代は良かったなぁ なんて言えない部分がたくさんあって、個人のノスタルジーとはまた別もので、そこはきちんと分けるべきなんですよね。

 

昔っていろいろすげーな…と思うことは、悪いことでも悲しいことでもなくて、それだけ進歩した証しであり。逆に昔あったものが今は無くなったことで悲しい事もあるとは思うけれど、例えば、民族やジェンダーや子育てなんかに関しては私は、今もまだまだ問題だらけだけど、生きてる時代が100年前じゃなくて良かった今で良かった、と思うことが多いですし。

朝ドラひとつ観ていても、昔が舞台の物語は「今で良かった」と思うことが多いです。

 

で大事なのは、表現する際のリスペクトだと思うんです。

リスペクトったら大袈裟か。

扱う対象に対する敬意かな。

それが「アンという名の少女」に欠けている感じは一切ないし、むしろとても大切に扱っていると思います。ですので、ぜひ続けて欲しいです(*´ω`*)

「ハスラーズ」ウォール街の片隅で

 

ネタバレあり。

 

 

ちょうど2020年のコロナ禍が始まり出したころに、観に行きたかった映画です。

あんまり内容は知らなかったけど。

プライムで無料になっていました♪(´ε` )

 

今年に入って観た洋画が、「スキャンダル」「ハスラーズ」っていう女性がバリバリに男性社会に盾突くモノか…

 

ハスラーズ」は、ウォール街のエリートが客層の高級ストリップキャバレー?が舞台で、ジェニファーロペスのポールダンスがとにかくかっこいいし、

リーマンショック前のストリップ界とニューヨークのバブリーな華やかさが魅力的です。

 

だから前半はそういう見せ場が山盛りで、後半はリーマンショックで急激に斜陽したニューヨークの夜の世界で、仕事を失ったストリッパーたちがどう生き抜いていくかのサバイバルですね。

 

で、主役のアジアンガールのデスティニーは、結婚出産育児して離婚して職探し中、親友のジェニファーロペスもユニクロみたいな洋服店で子育てしながら働いていて。

 

そこに「かつての客に酒と薬を飲ませてクレジットから大金引き出し詐欺」という犯罪手口を使って返り咲く作戦をストリップ仲間たちと企て、また華やかな世界を取り戻していくも、調子乗りすぎて、傷つけるべきでない人を傷つけたり、ヤバい女を仲間にしちゃったり、客をオーバードーズで危険な目にあわせてしまったりで破綻してしまいます。

 

そらそうです。もともとが、人を騙して金を稼ぐというダメな犯罪なわけで。

 

でもって女たちの友情も散り、みたいななかで、でも確かに私たちは一緒に戦ったよね、みたいな。

 

「スキャンダル」と同じく、この作品も事実ベースらしいんですが痛快ドタバタ犯罪悲喜劇として、あんまそこは考えずにみた方が楽しめると思います。

 

ただ、彼女たちの犯罪が、ストリッパーの危機的な状況でのサバイバルと友情をモチベーションに、女性たちが男性に搾取されるんじゃなく、力づくで搾取していく側にまわる、という復讐のカタチをとっていたことで実にセンセーショナルなケースだったんだと思います。

 

映画的にはジェニファーロペスがひたすらステキで。

私より確か年上。で、これ。

すごいぜ…

 

ただ、もう少し欲張ってしまえば、彼女たちが騙すエリート男性たちを、も少し丁寧に描いて欲しかったという点はあります。すごい無個性に出てくるので、どう受け取ればいいかちょい中途半端な気持ちになっちゃうんですよね。

 

あの時代のニューヨークの空気感が私には分からないからかもですが、そういう背景を分からないで観てしまうと、普通の人たちを騙している風にも見えなくもなくて、主人公たちの犯罪にそこまで肩入れできないというか、騙された男性たちの素性をせめてもう少し描いて欲しかったなと。

 

単に尺の問題かもしれないんですが。なんかスッとしない…

 

しがない労働者たちが貧しさを増す一方で、湯水のように金をばら撒くエリートもいて、そいつらが騙されてザマァみたいな、てかむしろそこがこの映画のキモでもあり。

 

そこのシズル感こそが大事で、それが海の向こう側(日本)からしてみたら、はあ、何を怒ってるんだい?とならなくもないような。

 

そんなことが引っかかりつつも、最終、主役たちみんな誰も幸せな感じでもないので、「そういうことがあったんだな」と言うことで納得させているんですが。

 

まあジェニファーいくつよ?すごくない?という感動だけでも見応えは充分あります。

 

今回字幕版でしたが、まだまだ英語の読解力ないなぁ(ToT)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供の手術。 2.医療費を下げ下げ大作戦(市役所での戦い)

そもそもは、手術、入院にまあ300万円はかかるかなぁと風の噂では聞いていました。風ってか確か病院の入院受付センターの方に聞いたのかな。

 

で、通常の健康保険適用でその3割負担だとしても、そんなポーンと出てくる金額じゃないわけで。ゲゲゲーッと唸りました。

さてどうしたものか…

 

まずは病院の入院受付センターの超クールな職員さんに、どんな申請をしたらいいかを教えてもらいました。

メモりまくりながら。

今となれば、その通りにやった結果だなぁと気付きましたが。

でもね、メモは本当に大事で、メモった自分、エラいなと思うけど、その時点では、分かってなかったですよ今思えば。

 

とりあえず結果を先に言うと

 

私は3つの申請を視野に動き、二つを申請して、500万円の医療費を1万円に抑えることができました。

 

バカ高い手術費を申請したら助成してくれた制度

 

限度額適用認定書

まずは、限度額適用認定書の申請。

医療費が高額になる場合に、助成してくれる協会けんぽ、いわゆる健康保険の制度です。

所得によって負担額は変わりますが、認定されたら、まあだいたい8万円代くらいまで下げれるやつです。

病院に認定書を提出したら、支払い時点で差し引き額の支払いですみます。つまり8万円代。

 

育成医療

厚労省ホームページより

 

育成医療は、児童福祉法第4条第2項に規定する障害児(障害に係る医療を行わないときは将来障害を残すと認められる疾患がある児童を含む。)で、その身体障害を除去、軽減する手術等の治療によって確実に効果が期待できる者に対して提供される、生活の能力を得るために必要な自立支援医療費の支給を行うもの

例の病院の入院受付センターの超クールガールに教えてもらいました。うちの子は18歳以下でこの制度に該当するだろうと言うことで。

これは各市町村に申請します。

こちらはなんと自己負担額1万円。

 

 

 

私はこの限度額適用認定書と育成医療の2つを申請して、どちらも申請が認定されたので、子供が入院する時にどちらも病院に出しました。

 

結果1万円に。ただし、入院時の食事代は自己負担。だから支払い時点で支払ったのは合計額ですが、だいぶ助かりました!!めっちゃ嬉しい!

国ありがとう!

 

また、もう一つ申請を考えていたのが

高額療養費

 

うちの場合は入院手術がひと月に収まっていたし(病院の医療費相談窓口で相談したら、入院時期が決まってなくて、ある程度選択肢があるならば、月またぎでなく月内に収まるようにアドバイス受けた)、全体的に医療費があらかじめある程度分かっていたので、支払う前に申請できる上の限度額適用認定書を出しましたが、高額療養は毎月の治療費を支払った後に申請できる制度で、多くても4万円代くらいになるのかな?ちょい忘れたけど。

 

外来や入院が何回かに渡っていて医療費がどれくらいか読めない場合などにはこちら使えます。今回は利用しませんでしたが、以前に子供入院時にこれ申請したことがあり、3ヶ月後くらいに結構払い戻ししてくれて、とても助かりました。

 

まあそんな感じで、大きな病気だからと慌てずともいろんな制度があり、日本の医療保障制度は素晴らしいなと身をもって感じました。

 

ただ、上の説明はめっちゃ簡単にまとめた話でして、私にとって何が大変だったかって、申請書の書類の記入と申請そのものです。

だいたい助成金って、世帯の年収とか税額で区分があり、それのどこに該当するかの計算式があったりします。

また、書面に並ぶ言葉も分かりにくいし、私の場合は、病気の「本人」は子供で、申請者氏名の欄に私を書くのか娘を書くのか、はたまた協会けんぽならば、子供が加入している健康保険証の被保険者代表として夫の名前書くのか。

もう最初の申請者氏名で何書けばいいか、全く分からないんですよ。

で、そうなるとそれ以降の欄も何書けばいいか分かるわけないし、書類を前にひと文字も書けなかったです…とほほ

 

じゃあどうしたかというと、もうね、何も書かずに病院の入院受付センターの超クールガールにもらった申請書類をそのまま、市役所や協会けんぽに持って行って、

 

書き方が分かりません。教えてください

 

と訴えました。

 

これはでも、やってみて感じたのは窓口の職員さんによるところもあるなぁという事。

 

私の場合は市役所のどこの窓口に聞けばいいかも分からなかったから、まず最初に市役所に電話しました。

で電話口で案内された障害福祉の課の若手女性職員Nさんが非常に親切で、こちらの意図も汲んでくれる超優しい方で、幸先いいな♪(´ε` )と安心していたら、実際に市役所の対象課に行って出てきたのは40代ぽい上司風なしゅっとした男性で、書き方の見本渡されて見本見て書いてください、って言うだけ…

 

いやすみません、それが分からないから聞きにきましてと、またいちいち全部質問してたら、なんか分かったような分からないような、質問の意図からちょい斜めにズレた回答ばかり、みたいな。

 

聞いても分かりにくすぎて、だんだん不安になってきて、「見本あるのに分からない私がアホすぎるのか」という泣きべそな気持ちになり。

 

イヤ!だとしても、一般市民の中には理解が遅い人もいるわけでその理解遅い人に合わせて、誰でも分かるサービスが現代のお役所には求められているハズ!!その視点があなたにないなら、今から持ち合わせてください!と気持ちを前に改めて、何回も質問をぐいぐいして、この人どんだけ分からず屋…と呆れ返ってもらおうという決死の覚悟(大げさ)で15分ほど粘り、なんとか仕上げ、そのまま提出。

 

だがしかし。これは育成医療の申請。わたしには限度額適用認定書というまた別の大切な申請が必要だから、こちらもお願いしたいですと、真っ白な書類を出したならば、…これはこちらに出していただくものではない、と。

 

えー。じゃあどこに出せば?

てか出すとこ違ったとして、書き方は教えて?

という悔い下がりをしてみたんですが、うーん、みたいな。歯切れわるわる。

 

で5分くらい、これも休みをとった今日しかなくて今日申請しなきゃならない、だの云々伝えたらば、職員さん、これは5階じゃないかなと仰りました。

うちではなく。

 

そーなの?

 

5階とは?

 

年金の事務所が確か5階だから。そこに行けば分かるかもと。

 

と。はい?年金?

年金の事務所が市役所に?でもなんで年金?

制度と年金の関係も、市役所の年金事務所の意味もさっぱり分からん。

 

 

そうなんです。この時点では私はどの制度がどこが管轄しているかも、どこに出せばいいかも分かってなかった…

 

でも…みんな分かりますか?どの制度は市役所、どの制度はどことか。

病気とあまり縁なく暮らしてても知ってるもの??

 

ということで実にショックを受けていたのですが、

よくよく聞いたらば、申請先は協会けんぽなのでは…とかどうとか。年金の事務所に協会けんぽ。未だにその結びつきが分かりませんが…

 

結果を言えば5階にあったのは、年金の事務所?ではなくて(あったのかも知れないけど)協会けんぽの出張窓口だったんですね。

 

自分が何を今からするのか自分で分からないまま半信半疑で5階に行きましたらば、ババンと協会けんぽの名がありまして、窓口の女性にお声をかけたら、うちが扱っていますですよと。

 

あああなたが…涙が…

 

この協会けんぽの窓口のおばさまがまた超仕事できる方で。自分の理解のなさとこれまでのいきさつを話したら、書類の書き方どころか、管轄外のもの含めて現状を俯瞰して全部説明してくれて、ほぼ私はなんもせずに申請までやってくれて、あとは認定書が郵送されるから届いたら、他の認定書と一緒に入院時に病院に提出してくださいね!と今後の行動まで教えてくれて。

メモる間もなく一連の諸々が一気に解決(涙)

まがいなく女神でした。

 

さっきまでの半べそから一気に感涙に変わり。

 

そう。話が長くなりましたが、窓口の方によって、本当にね。下手したら申請できるもんもできなくなる扱いだし、身一つで行って利用者視点で寄り添ってくれる場合もあるわけです。

 

ただ本当に国や自治体の申請書類ってややこしいし、未だ役所は縦割りシステム、利用者視点の欠落したコミュニケーションが現役なんだとつくづく実感。

 

そこはやっぱりまだまだ改善の余地あるでしょう。

 

そしてたまたまかもですが、めっちゃ仕事できる!=利用者視点の方って50代以上の女性だったりするんですよね…

あ、あと最初の電話に出てくれた若い女性職員Nさんも親切だし利用者視点。制度の知識や理解も抜群にある感じ。

 

女性って優秀な人多くない?

 

とりあえず一般市民の私は、歳を重ねるに従ってお世話になる事も増えるだろう市役所で、今後も「見本見て書けば」的な人が出てきたならば、粘っこく悔い下がるイヤなおばちゃんになろうと心に誓ったのでございます…

 

あといろんなところに行って、いろんな人からアドバイスもらう。これも大事ですね〜(´∀`*)

うますぎて怖い菅田将暉さんの整くん

 

 

ドラマ観ました!

フジの月9かー、、とたかを括りまくりの期待値低めに観ましたが、とてもよく出来ていました。

役者さんたちが全員うまい!

そして演出が良いです。

脚本、演出、音楽すべてが原作の空気感をとってもよく理解されているとお見受け。

きちんと愛情持って理解している!

 

脚本は相沢夕子さん。20年経っても私の今なお大好きなふかっちゃんドラマ「恋ノチカラ」の人!

演出=監督は、草ヶ谷大輔さん、って知らない。。

フジのドラマのプロデューサーだそう。

 

で、菅田将暉さんがね、やっぱり上手いですよね。

ちゃんと整くんだし、だけどあの髪型をサラッと馴染ませるのは、髪型こえた顔立ちの良さだけでなく、深くて鋭い澄んだ眼がいい。

藪さん落とした時の表情。

上手すぎてもうむしろ怖い!引き込まれてもた!

 

あとそれ以外の役者さんも足し算引き算の演技がバランス感覚抜群。

お話知ってるのに、なんか感動しました。

 

田村由美さん、良かったねえ。

いい作品にしてもらえてますよ。

ってどんだけ上から(●´ω`●)

なんにしろとっても良かったから!