新聞のオンライン記事でいじめで自殺した中学生の記事を読みました。
毎朝、新聞社から届くニュースメールは、リコメンド機能があるからか、私がよく読むような、子供たちや学校教育でのツライ記事が結構多く(何かそういう登録をしたのかもしれないけど覚えてない)、朝からまあまあゆううつになります。
でも、私はそんなゆううつな朝も大切だなと思っていて、なぜなら実際にそれは起こった出来事だし、どこかの誰かにも今この瞬間に起こっているかもしれないし、明日の我が家の現実かもしれないからです。
そうやってわざわざニュースでゆううつな気分になって毎朝子供に「いってらっしゃい」と声をかけています。
マゾかな。。。
しかしまあ、親としては「いじめられる」怖さにびくつきながら、同時に「いじめる側になったらどうしよう」というのも恐怖で、
いじめられた方ではなく、いじめた方の気持ちを考えてみると、
より一層どこでボタンを掛け違ってしまったんだろうと思うんですね。
本当に「死ね」と思って「死ね」というのか、
本当につらい思いをさせたくて、相手を虐げるのか。さげすむのか。
おふざけが大好きな子どもたちをみていると、最初はよくあるような「遊び半分」だったことも多いのかもしれないなと。
子供ってまだ「社会と自分の結びつき」がはっきりつかめていないなとは思うんです。
要は、他者との距離感や社会の中でのマナーやデリカシーですね。
そういうのがまだつかみ切れていない、他者との距離の取り方を分かっていない、
ここを超えたらだめだ、やっちゃだめだ、言っちゃだめだっていう知恵というか経験というか、そういうのがまだ未熟なわけです。
そういうさじ加減を自分で測って判断することができない。ていうか、だから「子供」であり。
特に今は、それよりも自我を持て余していたり、大人からのプレッシャーだったりにストレスが深まっている中学生が多いのではなかろうかと。
受験とかもほんとそう。
「生きる基本」をおろそかにしてまで、やらないといけないのが受験なのかなって、めっちゃ思います。
いじめの標的は誰でもよくて、手近な「むかつくやつ」「見ててなんかイラっとする」「敵とみなした」であったりするんでしょう。
逆に遊び半分の場合は、最初は「好きだから構いたかった」かもしれない。
でもたとえ悪意がなかったとしても、それが結果的に相手を貶めたり辱めたりした場合は、やり方が間違っているわけで、好意が伝わるような方法に変えなければいけないということに、どこかで早い事、気づかないといけないわけです。
もちろん悪意ばりばりの場合は、「イラっとするからといって、さげすんでいい他者は一人もいない」ことに気づかないといけないです。
でもじゃあ、彼らはどこでそれに気づくのか。それを知るのか。学ぶのか。
もちろん「目には目を」で、いじめる方がいじめられた側と同じ目にあって、被害を受ける側を経験してみれば、気持ちが分かるかもしれない。
罰を与えるのはこれの進化系ですよね。法律が介入するかたちで許されている対処法です。
でも法律が介入する場合って、もう取り返しのつかないとこまで来ちゃっていて
実際にはもう手遅れのことが多かったりします。
もちろん、手遅れには手遅れで「まだそれでも手を打つ」のはすごい大事なことです。
でも、そんな取り返しのつかなくなる前にどうにかできないものなのか。
もっと日常でできることがあるのではないかと思います。
ニュースでよく見るのが
「学校側はいじめを認知していなかった」
「保護者は学校に訴えていたが対応してくれなかった」
「いじめのアンケートを取ったが、いじめがあったという事実が出なかった」
これって、でも「起こってから」ですよね。
知ってたのか知らなかったのか、とか事実確認の段階の話で止まっていて
マスコミも「なぜ知らなかったのか」を問うかたちで終始しがちで、
「じゃあ知ってたらどうしたんだよ」というところまで全然踏み込めていないニュースを本当によくみます。
事件記者の質問のパターンとして、そういう「事件直後の対応の責任を問う」というステレオタイプがあるのかもしれないですが
どうせなら学校に質問してほしいのは「日ごろから学校では、社会を生きる術として何を子供たちに教えていますか」って部分です。
そして制度としてオフィシャルな「事前のいじめ対策(起こる前に)」ってこの日本にあるんでしょうか。
教育委員会や文科省にも聞いてほしいところ。
今現役の小学生と高校生を持つ親として、「いいなあ」と思うような「いじめを防ぐ学校教育の時間」を聞いたことがありません。
文部科学省がもしかしたらふわ~っとした何かは出しているのだろうとは思うんですが、実感として日常にほぼないです。
要するに私が言いたいのは、こういう時にこそイギリスのシチズンシップ教育みたいなものが必要なのではということなんですけどね。
結局、イギリスのシチズンシップ教育って、他者の気持ちを考えようってことに尽きていて
それだけいうと、日本の学校の「道徳」でやってんじゃないの?となるんですが、
いやそんな、道徳の教科書を読んで他者の気持ちを考えるってなかなかできないでしょうよと。
もっと本腰いれて、体験型でやるというのがシチズンシップの肝かなと。
そこで思い出すのが、私が小学生の時に通っていた学童保育なんです。
私のいた地域だけかもしれないですが、40年前の当時の学童って、今よりずっと児童も人数も多かったし関係も濃かったように思います。
共働きする家が今ほど多くなかったし、あの当時に共働きするって、「本気で働きたいお母さん」もしくは「働かざるを得ないお母さん」がスタンダードで、
たとえば看護師や教員や資格のいる職業だったり、大手企業だったり、自営業だったり、あるいは共働きではなくシングルでフルタイム勤務&子育てする、がむしゃらお母さんだったり。
じゃあそういう親って、どういう感じかっていうと、教育にも割と口出しするというか、親が一緒に学童を作ってたところがあって、うちの親や友達の親もそういう感じでした。
当時から学童保育には国や行政の助成金がそんなにあてがわれていたわけではないでしょうし、
学校が併設しているものでもなく、古い一軒家や長屋を借りたりしてて、じゃあどうやって運営していたんだろうっていうのが結構ナゾなんですが、
うちの学童にはうちの小学校の児童が50人くらいは毎年在籍していて、おそらく保護者からの会費?で賄っていたんだと思われます。ただ正直安かったでしょう。
だから学童の運営なんかで儲かるわけなんか、これっぽっちもなくて「学童の先生って貧乏」ていうイメージが子供の当時からありました。
あと大学生のバイトの先生(教師の卵とか?)がボランティア的に安いバイト代で入ってたので、まあそんな感じで、なんとか運営していたんでしょう。
でもだからこそ、変な圧力もなく自由にできたんですよね。
私は学童でたくさんのことを学んだと思います。
たとえばけん玉とかコマとか学校でしない遊びをたくさんしたし、
特に学校ではやらない集団遊びをとてもいっぱいしました。
だいたい10人とか20人とか1~6年が混じっての陣取りゲーム系で遊ぶので、チームに分かれてリーダーを決めたり戦略を練ったりするんですけど、こういうのは、たいがいがもめるんですよね。
で、だいたい「リーダーしたかったのにじゃんけんで負けた」って泣き出す子がいたり「誰かがずるした」ってもめたり「線を超えた、超えてない」とかで言い争ったり。
まあ毎日がトラブル。
でそれをまとめて解決する役割?が、基本は5~6年の少年や少女なんですが、それでも解決しないときがあると学童の先生を交えての会議になるんですよ。
まあ毎日それ。
中には「みんなで遊びたくない」「一人で絵を描いていたい」とかいう子もいたりして、それはそれで先生がOKしたら「あいつだけずるい」とかになって
じゃあなんでその子がみんなと遊びたくないかを聞いたり、それをどうするかをみんなでまた話し合ったりして。
とにかく、何かを子供たちが自発的にして、もめて、みんなで話し合って、だめなら大人にもはいってもらう。
一事が万事この調子。
毎年キャンプや合宿もあって、場所は大人が決めていたけど、
だいたい班で分かれて行動するとかになるんですけど
そこで高学年が低学年の面倒を見る、もめたら注意するとか、何かを自分たちで判断するっていうのをすごく自然にしてました。
とにかく子供たちが大勢いたらトラブルにはなるし、もめるし、学童ではいろんなことが山盛りだったんです。
「子供ってもめるもんだな」とほんと思います。
だからか学童の子はタフだったなぁとも思います。運動も良くできる、やんちゃが多いのはもちろん、割と成績も良い子がフシギと?多くてクラスや学年でリーダー格な子も多かったです。
当時の学童では誰かが誰かをいじめてたりすると、他の子たちが言い返したり、話し合いにかけあったりして、ほっとくことがないんですよ。
そういう「もめごと」に日々の耐性があるというか
「いやおかしいだろ」ていう行為を「関わりたくない」で知らん顔する子がいなかった。
もちろん低学年のときってホント6年生が怖かったから、コワイコワイ6年生に1年生が歯向かうなんてのは到底できなかったけど、でも相談できる3年の女子あたりはいたんですよね。
で、3年生が6年生の女子にまた相談する。
で、そういう6年女子がコワイ6年生男子に集団になって(笑)文句を言いに行ったり、あるいは先生にチクってまた全員で話し合いになったりするんです。
まあそういう中で私は育ったわけですが、
そういう中で子供たちに何が醸成されたかというと
「おせっかい」なんじゃないかと思うんです。
本当にいじめって何が嫌かって、何がいちばん問題かって
周りの「我関せず」「とばっちり食いませんように」という空気なんじゃないかと。
誰かが誰かからひどい目にあわされていて、それを知りながらほっとくって悪い事なんだと、自然に考えるんです。本当は子供たちには誰しもにその資質があって、あとは磨いていけるかで。
子供たちを見てると思います。大人よりずっと優しいし、ずっとお節介だし、ずっと面白い。
あとはきちんと思ったことを伝えられるか。そういう空気を大人が作るれるか、ですよ。心理的安全性。もしみんなが深く関わりやすい空気があればニュースの子たちにも救いはあったんじゃないかと思うんです。
いじめられる方にも、いじめる方にも。
住野よるさんの小説でもそういうお節介がまた次のいじめにつながる場面があったと思います。
今の学校は関わろうとするお節介な人間を孤立させる寂しい場所です。
その「おせっかい」って何なんだっていうと、
他者と関わりたい、つながりたい、理解したいという前向きな願望の発露ですよね。
本来は子どもって、そういうおせっかい魂が割とネイティブにあるように思います。
・・・まあ「いらんことしい」とも言えちゃうんですが。
赤毛のアンもそうですよね。好奇心が強くて、いらんことして怒られたり、しくじったりする。
少なくとも他者と深いつながりや日々の関りがあれば、早い段階で気づいて問題化することが可能じゃないですか。
なので、私の学童は「学校外」でしたが、今の学童が学校内にあるのであれば「学校」で
子供たちが生徒同士や、先生や、学校や社会との関りを深めていける取り組みが必要だと思うんです。
勉強や成績や規律のもっと奥にある、生きるための根っこにある力を育てる時間と予算をとらないといけないのです。今の教育現場はその大事な他者との関わり合いが「余計なこと」として扱われている気がします。
大人たちは忙しく、自分の生活に精いっぱいだし(でもそれは昔もそうだったような)
子どもたちが本来持っている素晴らしき「おせっかい」魂を「あかんこと」とみなしてしまう時すらある。
でも教育委員会の方に言いたい。
「おせっかいな子供」はいじめをしませんって。たとえ幾人か横道に迷い込んだとしても、それを見て見ぬ振りせず解決しようとする子供が横にたくさん立っているから。
私の学童でやっていたことを真似ればいいじゃん、あれこそが社会性の勉強だよとシンプルに思うんですが、ただ真似ても成果を見出すにはおそらく時間もかかるでしょうし、忍耐力もいるし、失敗もたくさんあるでしょう。でもやってやれないことはないはず。
他者と関わるなかでしか、本来的には人間は社会的には成長しない。
であれば、まずいじめをなくしていくために、いじめる側が早く軌道修正できるように、他者と深く関われる場所をたくさんたくさん作って行くことです。関わることでの痛みはさまざまにあり、喜びもあり、一筋縄ではいかないことを、でも横にたくさん仲間がいることを感じる機会を増やす。
転校させて終わる話じゃない。
ひとつの作品を一緒に考えて作り出すのもいいし、気持ちを語り合うでもいい。
遊びのなかのチーム作りでもいい。
ディベートもいいし、コンサートや演劇でもいい。なんにもやりたくない子が何を考えているか、何を尊重すれば「個人」を大切にできるか、みんなで話し合う時間でもいい。
とにかく、おざなりのお決まりの流れではなくて、子供たちをよく見てよく話して深く関わりながら、面倒くさい時間をたくさん作っていく。
押し付けではない自分の頭で考えて、感じて、判断していけるように、まずは他者と関わる喜びを増やしていく。
ほんとシンプルにそれ。