tsubatarouのブログ

仕事と育児と、いろいろ。

そして父になるがいいたかったのは、事件が生んだ悲劇ではなくての

見ました。

録画したテレビ初放映?の

そして父になる


よかったよー。

泣いたよ。


この映画は、やっぱり 「父」 がテーマなんですよね。


私には9歳と4歳の子供がいます。

もし自分だったら、交換はないです。

今自分の子供と血が繋がってなかったと言われても

離れられないし、離れる必要感じません。

てか、多くのお母さんお父さんそうなんじゃないかなあ。

そのいわば、常識的な親の立ち位置に、福山雅治演じるパパが、なかなか立てなかった。てことが、この映画の問いかけなんだと私は思います。




だから実際にあった赤ちゃん取り違え事件を取材した、ドキュメンタリー書の参考文献と、是枝監督のこの映画の差異を、一部取り沙汰されているのも違和感を感じるのです。まあ赤ちゃん取り違えという設定というか背景というか、それがかなり衝撃的なんで、そっちに気をとられてしまう気持ちも分からなくはないんですが。


でも、この映画は、事件が生んだ悲劇ではなく、「父がテーマ」だとして見る方が監督の言いたいことに近づける気がします。


父親とは?を考える。そこがまず。

私はすごくよい視点だと思います。母親については言われがちだから。

この映画ではお母さんは、当事者の両家とも、ハナから交換はしたくないんですね。そらそーだ思う。

血のつながり、て気にして育児してないもんね。

じゃあ何故、福山パパが、交換しようと思ったか?そこ!そこなんですよ。


それを理解するカギとして、福山パパとフランキーパパの違いが分かりやすいんですが、福山パパは忙しいパパ、フランキーパパはそうでもないパパなんですね。

ここの差異を、エリートパパ、ビンボーパパとして認識するのは早計やと私は思います。


金がある家、ない家。

その違いじゃないんすよ。


パパが日曜日に家にいて、子供と遊んでるか。

一緒に風呂に入るか。あるいは一緒に寝てるか。話してるか。笑ってるか。子供に眼差しを向けているか。子供の顔を見ているか。

シンプルにいえば、それかなと。


なんやかや言って人は、一緒の時間を過ごすなかで、様々なエピソードを共有し、様々な喜怒哀楽を共有し、距離を縮め、親しみを感じあい、愛着を持ちます。

幼いうちの育児には、愛着というものが大切だよ、必要だよとされてもいます。

てか、母である私自身、持って生まれた母性より、よっぽどこの共有の方が愛情につながってる、て実感してます。母性をあんまり信じてない。


忙しいパパの不利な点が、まさにこの共有による愛着の希薄さ、いや、自信のなさなんじゃないでしょうか。


頑張って仕事している福山パパが別に悪いわけじゃない。ただ、やっぱり育児に必要なものの大事なひとつが不足しがちにはなる、というより、自身が負い目感じてるわけですよ。


ケイタ君に対して。

それは仕事をしてる私自身にもあるんですね。負い目。でも、その後は違います。


福山パパはこう思いたかった。

でも血の繋がった親子だから、絆は無くならない。


でも、その最後の砦の血の繋がりという拠り所を無くしたら、ほな父親ってどうしたらいいの?て問いかけてるんです。この映画は。


それでもまだ血の繋がりという拠り所にすがるの?


それとも子供と共有できるよう仕事控えるの?仕事減らす?辞める?じゃあ収入減るけど、一家の大黒柱として食べていかせられる?


私は映画の結末に共感しつつも同時に、時間がすべてだとも思わないです。子供と過ごす時間が少ない忙しい親がすべて子供との愛着関係が希薄なんか?というと、必ずしもそうではないと思うから。


福山パパが閑職に左遷させられなかったままなら?変われないの?


結局、親子の絆、結びつきってなんやねん?

血じゃない、時間じゃない。

そう考えると、ほんと悩みこんでしまいます。


親子の絆がなんなのか、その答えはまだ私には分からないです。



ただ、寂しいのは子供なんかな?かわいそうなんは子供なのか?


もしかしたら、親の方が寂しいのかもしれない。

共働きとかシングルマザーとかシングルパパとか、子供との時間がなかなか取れない親はジレンマ持ってますよね、きっとみんな。めっちゃ悩んでますよね。


子供が寂しくないか。

我が子のこと見えてないんじゃないか。

犠牲にしてるんじゃないか。


でも。子供といる時間の幸せを求めてるのは子供だけなんだろうか。もしかしたら、親の方が寂しいのかもしれない。子供には未来があり、親には人間を巣立たせる覚悟がいる。いつか手から離れて、それを祝わなければならない。成長を祝わなければならない。


だって子供の成長は嬉しいけど、私には寂しいんです。同じ時間を過ごしていても、向こうは日々変わっていくんですよ。大きくなっていくんですよ。反対に親は年をとり小さくなりながら。


だから子育てから逃げることって、実は子育ての寂しさから逃げている面があるんじゃないか。とか、ふと思ったり。


それが答えかは分からないけど、親は寂しい生き物で、人間は寂しい生き物で、子育てはそれを自覚するための、それこそミッションなんじゃないか。


なんて思ったり。

共働き両親に育てられた子供だった昔を思い出したりしました。


お父さんとは寂しい生き物。

お母さんよりももしかしたら。


でも、寂しくない親より、寂しい親でいてほしい。寂しくないフリをしても。


だから、時間がどうではなく。血でもなく。

寂しさと向き合える親でいられるか。


そんな覚悟が、親の条件なのかもしれないなあ、と自分の父親を振り返って考えたりします。